空蝉
「たのもう!」
閉ざされた末森城の城門に向かって呼びかける。普段は領民に対しても開かれている城が閉ざされている姿に、いやな汗が背中を伝う。
矢倉からこちらを確認した兵が合図を送る。
「権六様でや! すぐに門をひらけ!」
ほどなくして人一人が通れるほどの隙間が空いた。
「すまぬ」
一言告げて城の中に入ると、すぐに門は閉ざされ、閂がかけられる。
「喜六様はいかがか?」
「儂の口からは何も言えませぬでなん。ひとまずこちらへ」
留守居のものが硬い表情で告げると、居館の奥に通される。
すっと襖が開かれると、部屋の真ん中に臥所が敷かれ、人が寝ている。その顔に当たる部分には白絹がかけられている。
「なっ!?」
その意味を理解した瞬間膝から力が抜けた。ごつんと床板に膝を打ち付けても痛みを感じない。
頭の芯が冷えていく感じがする。これが顔から血の気がひくということか。
人の死は見慣れている。むしろ幾多の敵を戦場で斃してきた。
喜六様をこんな目に遭わせたのは誰じゃ。目の前がカッと赤く染まる。この感情は何であろうか。湧き上がる何かに突き動かされて体が震える。
そこでふと思い当たった。喜六様の姿を見ていないことに。
膝立ちのまま体を前に進め、震える手で白絹を取り払うと……そこにいたのは藁人形であった。
「………………」
唖然とはこのようなことを言うのか。急転直下の状況にまず感情が付いてこない。
藁人形の顔にはでかでかと「ハズレ」と記されている。
その言葉の意味が肚におちた後、ぐるぐるとしていた感情が一つの方向を定めて奔流のごとく流れ出した。
「なんじゃこりゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
儂の有様を伺っていたのだろう、先ほどの者が、口元を押さえ、肩を震わせながらやってきた。
「ご、ごん……ぶふっ! 権六さぶふぉあっ! こ、これを……‥ぷ、ぷくくくくく……」
書状を渡すとその者は床に突っ伏したまま痙攣している。
なぜかとてもとてもイラっとしたのでその背中にかかとを落とすと、「ぐえっ!」と声を上げて動かなくなる。
その姿を尻目に動揺で震える手で書状を開くと、そこには「牛久保」と記されていた。
書状を袂に入れ、再び三河に向けて馬を駆る。顔見知りの兵がいたので、利家らがやってきたら東に行ったと伝えるように頼んでおいた。
安祥に来ると、人の往来が普段より多いようであった。
「すまぬ、何やら騒がしいようであるがなにか起きておるのかのん?」
足早に西に向けて歩く行商人と思われる男に声をかける。
「東より今川の奴ばらが攻めてきおるとのうわさでや。お侍様は強そうだがのん。陣場稼ぎするにも分が悪そうゆえ、ここはやめておいた方がよからあず」
「左様であるか。助かったでや」
「命は大事にのん。生きておってまた会うことがあったら何か買うてくれればいいがや」
行商人の男はにっと笑うと再び足早に歩きだす。
そして安祥城主、松平竹千代改め、蔵人家康が馬廻りを率いて西へ向かうところに出会った。
「蔵人殿!」
軍兵の真ん中にいる家康殿に声をかける。隣にいた武者と目が合うと、目を見開いて叫ばれた。
「柴田様!?」
「おう、酒井殿かや」
「なぜにここに居られるので? 美濃で岩村を囲んでおられると聞いておりましたがなん」
蔵人家康殿が矢継ぎ早に聞いてくる。
「うむ、末森の変事を聞きましてなん。岩村を片付けてひとまず儂一人で参った次第にて」
「喜六様は……残念なことにございました」
家康殿は目を伏せてぎゅっとこぶしを握り締める。これは……喜六様が亡くなったと思われておる。
「して、美濃より参ったばかりでなん。情勢をお聞かせ願えますまいか?」
「ああ、今川治部が二万の同勢を率いて国境に結集しつつある。五郎様と父上は後ろ巻きを率いてすでに牛久保に着陣しおり、儂もそこに向かう途中だがや」
「なるほど。されば儂の手勢も加えてくだされ。おっつけこちらに向かってくるでや」
「それは心強い! 皆の者! かの鬼柴田が我らの陣に加わったでや! 今川おそるるにたらず!」
「「おおおおおおおおおおおおおおお!!」」
家康殿はすでに兵の士気の重要さを知っておるようであった。大敵に向かうとき奮い立つことができるのはまれなる勇士のみである。
兵の多くは命が惜しい。それを命令で縛り、義理で追い立て、褒美で釣って戦場に立たせる。命を捨ててまで戦おうと思う者はごく少数である。
勝てそうだと思えば士気は上がる。逆に、一人が逃げ出せば我も我もと雪崩を打って逃げだし、大崩れになる。そうなれば、いかに儂が声を涸らそうとも陣を立て直すは容易ではない。
そして、追い首はもっとも討ち死にが多い場面である。それゆえに陣の崩壊は何としても避けなければならない。
半日ほど歩いて岡崎に着く。ここから牛久保はもう半日ほどの距離である。
「小休止じゃ!」
家康殿の指示に従って、兵が足を止め腰を下ろす。岡崎の町付近にいた行商人たちが兵たちに食べ物や酒を売りにやってきた。
「干飯はいらんかや?」
「いくらじゃ?」
「これでどうかのん?」
「ちと高くないかのん?」
「ではこれでどうかや」
「うむ、買った!」
「まいどあり」
そこらじゅうで兵と商人たちのやり取りが聞こえる中、西の方から足音が聞こえてきた。
馬廻りたちが立ち上がって警戒態勢をとる。
そして旗印を見ると、喊声を上げ、手を振り出した。
先頭の武者が掲げる旗印は……二つ雁金の紋であった。
「あなたさま!」
小柄な武者が駆け寄ってきたかと思ったら、市だった。
白皙の頬を朱に染め、そのまなざしは憂いに満ちている。
「市、なんでここに居るかや?」
いつぞやも出陣するときについてこようとしたので、それほど驚きはない。
「喜六の仇を討つためですわな。今川の者ども、喜六の命を奪った者どもを許しませぬ!」
ああ、これは……。その時の儂はさぞや奇妙な顔をしておったのだろう。
「あなたさま?」
「ああ、うむ。大事な人を失うは心のどこかがちぎれる様な心持ちであらあず。うまく顔が動いてくれぬだわ」
適当な言い訳にも市は頭に血がのぼっておるゆえか、まっとうに受け取ったようだった。
「ええ、ええ、今川治部の首を喜六の墓前に捧げましょうね!」
「うむ。して、茶々はどうしたでや?」
「え、あの、大乳様にあずかっていただいておりますわ」
池田勝三郎の母上は、殿の乳母を勤めておられた。故に大乳様と呼ばれ殿も彼の女性をもう一人の母として今も慕っておられる。
なお、大殿の側室の一人でもあり、姫が一人おられた。
「うむ、なればよい。戻ったら二人で迎えに行ってお礼を言上しようず」
「はい! あなたさま」
その姿を利家は昏い目つきで見ていた。久六が苦笑いを浮かべて利家の背中を叩く。
柴田衆は後ろ備えに回り、背後……信濃国境の豪族に対する警戒を行う。
幸いにして、美濃の戦勝の報が伝わったか不穏の動きはなく、日暮れに差し掛かるころ、牛久保の城に着陣した。
「やあ、権六。よく来てくれたね」
少し血の気が薄い顔をしているが、両の足で立っている喜六様に出迎えられ、市はそのまま気を失った。
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