東美濃
喜六様が重傷との知らせを聞いて頭をガツンと殴られたような心持になり、しばらく声も出せなかった。
その知らせを聞いたとき、儂は明智十兵衛の後詰として出陣していた。不穏の向きを顕す遠山七党のうち、岩村、苗木の両氏が木曽義昌の後援を得て反旗を翻したのだ。当然、木曽の背後には武田がいる。
武田は先日の大敗で大きく後退した北信濃の勢力を奪還しようと、そちらに戦力を振り向けている。
上杉を称した長尾との盟を結んだ織田はほぼ武田の敵として認定されていた。
喜六様を弓で射たのは、御所様の家臣であった。
西の将軍義栄は、側近を三好の息のかかったもので固められており、旧来の将軍家の家臣は遠ざけられるか、場合によっては濡れ衣を着せられて斬られることすらあった。
よって、尾張、美濃に逃げ込む者が多く、殿の支援で彼らは御所様の近臣として召し抱えられていたのである。
たまたま数名の供を連れて通りかかった喜六様を曲者と勘違いして威嚇のつもりで放った矢が左肩に突き立った。
衝撃で馬から落ちて、頭を打ったのち、意識が戻らず今も眠り続けているという。
彼らは、織田の内情を知らない。当たり前のことではあるが、殿や大殿、武衛様のことはよく知られているが、喜六様のことはあまり世間に出ないように遠ざけていた。
「僕はこれでいいんだよ。部屋住みの一門衆ってだけで食べるには困らないしね」
今川とのいくさを承知に導いた立役者であるにもかかわらず、末森城主となったのちは特に加増もなく、留守居の役割が多くなっていた。
もともとあまり身体が強くないこともあって、前線に出るのは殿に止められていたこともある。
ここ数年で、織田の家も一気に大きくなり、一門衆の中でも目立った存在ではなくなっていた。
しかし喜六様は様々な知恵を出され、領内の生産力を文字通り倍にしていた。
織田の直轄領だけの話ではあるが様々な新しい技術が投入され、米だけをとっても生産高は大きく伸びていた。
「喜六の功は万の敵を破った以上であらあず」
城の前に続々と列をなす荷車を見て殿は半ば呆然とされていた。
琉球より取り寄せた作物で、砂糖を作ったときには殿は喜びのあまり舞を披露した。
なお、シイタケを作物としたときは厳重な緘口令が敷かれ、今もその山は出入りが制限され、陣屋に兵が常駐している。
報告を聞いた殿は呆然とした後、大笑いして、息を詰める寸前まで行ったそうだ。
武衛陣の修復から、朝廷への献金の出どころも、こういった喜六様の知恵によるところが大きい。
誤射した御所様の家臣はぐるぐる巻きにされて清須の城に監禁され、厳しき詮議を受けているという。
「権六殿!」
様々に考え込んでいたところを十兵衛殿の呼びかけで我に返る。
「お、おう。すまぬでや」
「喜六様が気にかかるのはよくわかりますが、今は一刻も早く敵を破りましょうぞ」
「……十兵衛の申す通りだわ」
気を取り直して、十兵衛殿の指し示す絵図を見る。
城の周囲、張り巡らされた街道が記される。岩村城は堅固な山城であるが、それゆえに街道を封鎖すれば補給が途絶える。
これまでかの城が持っていたのは、農繁期に差し掛かるまでの時を稼げばよかったからだ。しかし、生産力の向上と、それによってもたらされた常時雇いの足軽衆によってその常識が覆された。
刈り取りの時期に兵を起こし、木下衆の働きによって街道をふさぐ砦を築く。これはひと月位を持ちこたえることを想定して築かれる。兵糧や矢玉の備蓄も同様である。
城方からすれば、常識外れの時期に城を包囲され、兵糧の備蓄もままならないまま城に閉じ込められているような状況となっている。
「街道に築いた砦によって、岩村と苗木の間は分断されました。そろそろ兵糧が乏しくなっている頃合いです」
「で、あろうのう。敵の手立てとしては、夜討ちがあろうか」
「さすがです。それでこうします」
十兵衛殿の話し方は喜六様の癖が移っておる。その話し方と、容赦なく敵を追い詰める軍略は生き写しのようであった。
「儂は囮と言うわけであらあず」
「ええ、敵の物見にもわざと情報を漏らしました。敵の進軍経路はここ、目印となるようにかがり火を置きます」
「火が消えたところで明智鉄砲衆の出番かや」
「ふふふ、我が殺し間に誘い込まれたのちは……くっくっく」
端正な顔立ちをゆがめて笑みを形作るとき、近侍の兵が引くほど悪い顔を見せる。
そして数日後、物見から岩村の兵が出撃したとの報が上がってきた。大手門は見張られていると考えて搦手から兵を出す念の入れようであったが、十兵衛殿の備えに抜かりはない。
「かかれ!」
遠山景任自ら兵を率いてやってきた。先陣がその指揮に従ってこちらの陣屋に向けてひたひたと迫りくる。
先頭の兵が、気づかれてはならぬと、陣屋の真下に置かれたかがり火を蹴倒して消した。次の瞬間、一斉に轟いた銃声が山中にこだまする。
断続的に放たれた三斉射は、左右より交互に叩きつけられ、防ぐこともできずに敵の先陣を斬り裂いた。
「かかれ! かかれ!」
儂の下知に従って、配下の兵どもが槍先をそろえて突きかかる。
十兵衛の策は、万全であった。正面の陣屋からは、儂が姿を見せ兵を叱咤して見せる。
かがり火に照らされ、権六ここにありと敵は見て取る。
そして実際には敵の背後に回り込んでいた一隊が不意を突いた。
同士討ちを避けるため、敵中に切り込むことはせずに、表面だけを叩いてすぐに退く。それでも大混乱に陥った敵は、勝手に同士討ちをはじめ、一気に崩れたって退却を始めた。
「深追いはならぬでや!」
儂の下知に兵は足を止めて引き返してくる。夜が明けてからのち、戦死者をまとめて葬ったが、その数は三百あまりを数えた。
その日の正午ごろ、岩村は開城し、同時に苗木も降伏した。
岩村には織田の一族から養子を入れ、現当主は隠居。苗木にも同様の処置がなされることとなった。
そこまで話がまとまり次第、あとのことは十兵衛殿に任せ、兵は利家に率いさせて儂は単身で馬を走らせた。
途中の陣屋で馬を乗り換え、一路尾張を目指す。
木曽川を渡り、犬山で一晩宿を借りる。まんじりとして眠れぬ夜が明けると、再び馬を走らせた。
疲労すら忘れるほどの焦燥に炙られ、清須の城が見えてきたときは、全身を汗で濡らし、息も絶え絶えのありさまであった。
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