瀬田の唐橋
「三好が儂の命を狙っておるようでの。わざわざ阿波より義栄を伴っておる」
まさかと思っていた事態が現実のものとなった。
喜六様は常々こうおっしゃられた。
「最悪の事態を常に頭に置いておくように。そうすれば大抵のことは切り抜けられる」
そして次に冗談めかしてこぼした言葉は色々な意味で笑えなかった。
「けど現実は往々にしてその最悪のさらに斜め下を行くんだよね……」
その斜め下の事態にまでは至っておらぬと思うが、それでも百余りの人数で京からの脱出と、近江を突っ切らねばならない。
「山岡には話を付けてあるでな。あとは叡山が厄介である」
比叡山延暦寺は、都の鬼門を守るとされている。朝廷の守護者として尊崇を集めているが、長きにわたる栄誉は彼らを堕落のどん底に貶めた。
百年前、足利義教公が叡山を攻めている。その因縁もあって、今回の脱出を妨害する可能性が高かった。
逢坂の関を固められては、東へ抜けるのは難しい。
「すぐに出立するでや。藤吉郎!」
「はっ、万事抜かりなく整っておりますがや」
「殊勝なり。褒美は帰ってからつかわすでなん」
「はっ!」
普段は軽装の藤吉郎も胴丸を着用し、鉢金を額にまいていた。
小柄で腕力も乏しいがすばしこく、小太刀の腕は相応のものに仕上がったと利家より聞き及んでいる。
少なくとも藤吉郎をかばって戦う余裕はなさそうな情勢であった。
武衛陣の門を開き、急ぎ足で進む。完全武装のいでたちの武者が一斉に動き出せば当然耳目をひく。
その中心には武衛様が騎乗していた。
「これは武衛様。いずこにいかれますので?」
逢坂の関まで一気に駆けた。そこまでは順調であったが関で番兵の誰何を受けることとなり、武衛様が答えを返す。
「うむ、三河の一向坊主どもが騒ぎ立て、不穏の向きありと聞き及んだでなん。これより尾張を固めに戻るでや」
本証寺が不穏の向きを顕すのは今に始まったことではない。言い訳としては若干苦しいが、おかしなところもないはずだ。
「ふむ、実はですな。御所様の行方がわからぬようになっておると急使が来ておりまする。役目上申し訳ござらぬが、検めさせていただきたく」
「うむ、構わぬがのん。ここで時を取られた故に尾張、三河で何事か起きた場合はそなたが腹でも切ってくれるかのん?」
「え、いや、それは……」
「まあ、よからあず。存分に検めよ」
武衛様が冗談めかして脅しをかけると、番兵は顔色を変えた。この一言で確認はおざなりになるであろうとの狙いは当たったようで、先頭を走っていた陣笠の武者がまさか御所様であるとは思われなかったようだ。
関を抜け街道を進む。にわかに北の方角より多くの人数が歩く足音が聞こえてきた。
「殿! あれを!」
物見の足軽が指し示す方向には土埃が立っている。
「うむ、叡山の悪僧どもに違いなし。ものども、駆けるでや!」
予備として連れてきていた替え馬に御所様が跨り駆ける。
武衛様と騎馬武者がそれに続き、徒士の武者が槍の鞘を払った。
「瀬田の橋でや!」
橋の上には軍勢がいることが見て取れた。
「そこなるは斯波武衛様にございまするか? 我ら瀬田衆、お味方いたす!」
瀬田に割拠する山岡氏は六角氏と将軍家に両属の立場をとっていた。近江から京へと抜ける街道の末端を扼し、眼前には比叡山がそびえる。
「橋の前に陣を敷け! 迎え撃つでや!」
殿が抜刀し、切っ先を背後から迫る軍に向け叫んだ。
「あれなるは叡山の僧兵にござる!」
山岡の兵が叫ぶと、殿は陣の前に立って誰何した。
「推参なり! 我らは斯波武衛様の一行である。貴様ら何を思うて我らに刃を向けるか!」
「我らは御所様の命を受け、先代の義藤を捕縛に参った! 隠すとためにならんぞ」
「何を申すか。将軍宣下はいつされたと言うのでや。確かに我らは室町御所にとどまり、御所様のお手伝いをさせていただいたがのん」
「京の平安を乱し、世が荒れるは将軍たりえぬものがその座にあるからにほかならぬ。故に、新たな御所様をお迎えすることとなったのだ」
「ふん、よく言った。されば何か事があらば強訴だとわめきたて、火つけ、狼藉に及ぶ貴様らが真っ先に裁かれるべきと思うがのん。日ノ本の平安を祈るが貴様らの役目であろうが! 酒色に耽り、武力をもって朝廷と幕府を脅かし、京の平安を乱しているのはどちらでや!」
「我らに歯向かうか! 王法守護をいかに心得る!」
「ふん、足利義教公が焼き払っても叡山は存続しておるではないか。義教公が謀反人に討たれたは事実であるが、叡山の祟りとでもいうか? たわけめが。祟りは人を殺さぬ。人を殺すは人である!」
先頭に立っていた僧兵がなぎなたの石突で地面をたたくと、一斉に先頭の兵が躍り出た。
「ふん、名乗りも上げず反論もせずに手を出すか。語るに落ちるとはこのことでなん」
殿はすでに構えていた刀で先頭の兵を切り捨てる。
殿の側に控えていた武者が弓を引き絞り矢継ぎ早に放った矢は弓弦の音の数だけ敵兵を射殺す。
「大島、見事なる手前でや!」
「ははっ!」
「者ども、武衛様に貴様らの武辺を見せる機会にてあらあず!」
「「おおおおう!」」
大島雲八は再び矢を放ち、正確無比な妙技を見せれば、太田牛一も負けずと強弓を披露する。
しかし数の差はいかんともしがたく、数名の兵が討たれ、じりじりと下がり、瀬田大橋の半ばまで押し込まれた。
「又左、殿の側に控えて下がれ。儂が出るがや」
「親父殿! 儂も行くでや!」
「ふん、おのしゃあ娘が生まれたばかりにてあらあず」
「それを言えば親父殿も和子がおるではないか!」
「ふん、あやつらに一当てしたら下がるでなん。まあ、見ておれ」
橋の真ん中でにらみ合う。橋の向こうには瀬田衆が槍衾を敷いており、御所様と武衛様はその陣の後ろに下がられた。
大身の槍を手に無造作に歩いて橋のど真ん中に立つ。
「なにや、ぐぼぁ!?」
誰何の声を上げた僧兵を右手一本で刺し貫く。突き二、引き八の力加減を間違うと、刺した槍身が抜けなくなって得物を失うこととなる。
「ぬうん!」
再び踏み込み槍を振るうと、血煙にまみれて敵兵が橋から転げ落ちていった。
「儂は柴田権六でや! 地獄の閻魔に会わせてくれる故、死にたいものからかかってくるがよからあず」
わっと歓呼の声が背後から上がる。僧兵の中からは巨躯の兵が現れ、なぎなたを大上段から唐竹割に振るってきた。
「ほう」
槍を斜めに突き出して横に振るうとなぎなたは吹き飛ばされて橋の下へと落ちる。
「なんじゃ、見掛け倒しかや。つまらぬ」
片手で振るった槍に、渾身の力での打ち込みをはじき返された姿に僧兵がどよめく。
「う、うわああああああああああああ!!」
敗北を悟った見掛け倒しはそのまま橋の欄干を越えて琵琶湖に飛び込んだ。
「これより先へ進むには儂を倒してから行くがよからあず!」
大音声で告げると、僧兵どもは再びたじろいだ。
そこに背後から近づく数百の人数。五つ木瓜の旗印を掲げている。
「敵の背後を衝くでや。かかれ!」
陣頭に立つは木下藤吉郎と細川與一郎。
御所にいた兵を中核に、志願してきた流民たちに竹槍を持たせただけの軍勢であるが、背後を取られたと動揺する。
儂が槍の石突でどんと橋を叩くと、僧兵どもは悲鳴を上げて逃げ始める。
「おう、逃げ足だけは速いでや。わははははははははは!」
いつの間にか儂の隣に来ていた殿が大笑いを始める。
権六の仁王立ちと呼ばれるいくさはこうして幕を閉じた、らしい。
「長坂橋の張飛のようであったのう」
御所様が三国志を引き合いに出してのお言葉は身に過ぎたものであった。
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