三河平定
三河の調略は順調に進み、松平一族は各々思うところはあるだろうが、広忠を主として認めていった。
吉良家の東条城に入った三郎五郎様は、吉良五郎義信と名乗りを変え三河守護の地位を継ぐ。
三河平定の軍を起こす機運は高まっていた。
「権六、いかが思うか?」
清須に戻ってきた殿は軍議を開いた。開口一番儂に問いかける。
「ははっ、ひとつ気になるは、今川との約定にござるでや」
「ふむ、なれば守護の命を出させよう。守護に従えぬものは追放するとな。戦わず退去するのであれば追わぬと」
「今川にも同様の通告をするということにございますな?」
「今川には三河を治める名分がない故な」
「約定を破棄されはしますまいか?」
「そうなったらなったで一戦に及ぶまでよ。今度は遠江まで切り取ってくれる」
殿の覇気はまさに天下を蓋わんばかりであった。
濃尾三の兵を合わせれば今川と互角以上に戦えるであろう。ただし、隣国との関係を考えれば、存分に動かすことができるのは尾張と三河半国。伊勢に土地を得たとはいえいまだ弱小の勢力に過ぎない。願証寺は桑名の側面を押さえている。蟹江には抑えの兵を残さねばなるまい。
「ふむ、権六よ。貴様我と同じことを考えておるな? 述べよ」
これが殿のお考えとあっているかはわかりかねるが、自らの存念を告げる。
「今川と相対するにはややこちらが不利かと。濃尾と三河半国の戦力なれば三万は集まりましょう。ただし、他国への備えを考えるなれば、美濃の兵は動かせませぬ。先日の伊勢でのいくさで六角は敵とは言いませぬが、味方にもなりますまい」
「続けよ」
「尾張西部の兵も伊勢への抑えが必要でありましょう。滝川殿の武辺はあきらかなれど、戦いは数にござる」
「うむ」
「尾張と三河の兵、合わせて一万、これが動員可能な戦力となりましょう」
儂の言葉に周囲のものがポカーンとしていた。
大殿は口元を押さえて肩を震わせている。
ニヤリと笑みを浮かべて殿が群臣を睥睨する。
「おのしら、目が節穴であったなん。権六をただの猪とみておったであろうが」
ざわめきが場を満たす。ふと見ると喜六様が席を立って壁際でへたり込んだ。そして……。
「ぷっ、あはははははははは、わーーっははははははははははははは!!」
盛大に笑いだした。
それにつられて大殿が爆笑を始める。
「おのしら、正気か、権六が時々に見せる機転、軍の采配、ただ突っ込むだけの猪にできるわけがなかろうが。権六の武辺だけを見て安心したかったのであろうず。こやつは槍を振るうだけしか能がないとなん」
大殿が大笑いしながら告げた言葉に首を垂れるものが多くいた。
「権六は知勇兼備の日ノ本一の大将であるぞ。我はそう思ってこやつを遇してきたのだがなあ。身内びいきで美濃のおおいくさで采を任せるわけがないであろうが」
殿の賛辞に身もすくむ思いだが、ぐっと胸を張る。ここで儂が身をすくめておったならば殿の見込み違いということになる。
「権六、五郎兄を大将として三河に軍を発する。貴様には副将を命じる。喜六は末森にあって、尾張南東部を束ね軍を支援せよ。木下兄弟を与力とする」
「はっ!」
木下藤吉郎、小一郎の兄弟は有能な文官として頭角を現していた。文治を束ねるは平手中務様である。その下に村井貞勝殿、武井夕庵殿らが膨張した勢力を維持するために日々終わりなき戦いに身を投じている。
ところで、彼らが処理している政務のすべては最終的には殿のもとに行く。彼らに匹敵するか、それ以上の書簡に埋もれているはずなのだが、特に変わった様子は見られない。
目の下にクマを作った藤吉郎が進み出てひざまずく。たまに頭がふらついているのは眠気に耐えているのであろうか。
それでも目を見開き、総身を奮い立たせ口上を述べた。
「かしこまってございまする! 出征せし兵の一人たりとも飢えさせずに戦わせまする!」
その一言を告げると、藤吉郎は一礼し、脱兎のごとく駆けだす。その背後には影のように小一郎が付き従っていた。
藤吉郎は津島の町を歩き、商家の次男や三男を集めていった。彼らは嫡男の代わりとなれるよう読み書きや算術を教わっている。
彼らを雇い、禄を与える。またその伝手で商売に便宜をあたえると。
部屋住みのまま朽ち果てるのであれば、高名の機会があると聞き、奮い立った。
藤吉郎のまとめた木下衆ともいえる者たちは、喜六様のもと、知識と技術を叩き込まれ、いまや尾張一国を支えるほどの能力を有していた。
その彼らが津島、熱田に散り、かねてより用意してあった証文を用いて物資を引き出す。
整備された街道を用いて安祥の城に物資が運び込まれる。城の蔵からあふれた物資は城外に開かれた土地に陣屋が築かれ、そこにも武具が集約されていった。
柵が建てられ、矢倉が築かれる。周囲には見張りの兵が配される。彼らは津島と熱田の町が雇った兵たちで、契約をもって物資を守る。
陣触れが国中をめぐる。織田家の威勢は国中に行き渡っている。国衆たちは今川が相手と知っても渋ることなく募兵に応じた。
「もういっぱいだでや!」
「なんだと! 儂は連れて行けるだけに人数をそろえたでや!」
「おのしの割り当ては五十人であるがや! 倍も連れてきても米が足りぬでや!」
「そんなもん行先で何とでもなるがや!」
「わすれたかや! お殿様は乱暴狼藉を禁じておられるでや」
「うっ!?」
役人の背後に立つと、いずこかの庄屋は身をすくませる。
藤吉郎の頼みで来てみればこれだ。
「ご、権六さま…‥」
「おのしが忠義、儂が見届けたでや。危地にあってもおのしが力、頼りにさせてもらうがのん」
「はっ、ははっ!」
こうして三河攻めの兵たちが集っていく。先陣は松平衆三千。かつて先代が集めた力を再興した姿であった。
後詰は尾張衆一万。敵は三河東部の豪族衆。牛久保の城にその勢力を結集させていた。
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