畿内情勢
説明回です
足利義藤は十一歳で将軍の地位を継いだ。その基盤は弱く、畿内、すなわち天下の権力は管領である細川晴元に奪われ、将軍とは名ばかりの傀儡に甘んじていた。
そんなさなかに一つのうわさが流れてきた。
「尾張守護の斯波武衛家が復権したそうじゃ」
「武衛様の所領を横領しておった守護代が滅ぼされたとか聞くねんけども」
「うむ、織田弾正忠とやらが今川の軍を打ち破ったと聞く」
「それで武衛様がことのほか喜ばれたそうでの、弾正忠を守護代の一人に格上げしたと」
「ほう。あとは武衛様の下命をもって謀反者を討つという流れかや」
「そうらしいで。いや、見事なるやり口じゃのう」
そのうわさを聞いた将軍はひそかに喜びを表した。主君をないがしろにして自らの欲を満たすことしか考えぬものがはびこる世の中を憂いて剣の腕を磨いた。
塚原卜伝より一の太刀を授けられ、武辺は並びなきとも言われたが、それでも味方する豪族は少なく、将軍の権威は衰える一方だった。
とある日、尾張より一団の使者がやってきて、武衛陣に入った。将軍家の衰亡に従って武衛陣も荒れ果て、築地は穴が開き、屋根は雨が降れば室内には水がたまる。倒壊するあばら家一歩寸前であった。
それが、尾張から来た一団、正使は平手中務が持ち込んだ大量の銭と進物を公家衆にばらまいた。
武衛陣には大工が派遣され、修理が始まった。
同じく皇居も同様に荒れ果てており、武衛陣から進上された銭で修理が始まっている。
後奈良の帝はことのほか喜び、斯波家と織田弾正忠に書状を下された。順逆をわきまえ、尊王の志に対し褒詞を顕したのだ。
そのころ、管領細川晴元と、配下であった三好長慶との争いが続いていた。晴元は長慶の父を謀殺し、また代々の代官地を奪い取った。
しかしその際に力を借りた一向宗が晴元の制御を離れて暴れだした。
それにより摂津から京にかけての地域が乱れ、晴元と長慶は和戦を繰り返すこととなった。
その間にも着々と摂津、河内、和泉を制圧し、勢力を広げていった長慶は、日本の副王と呼ばれるだけの権勢を築き上げたのである。
将軍家は近江国、坂本や朽木にのがれ、京の情勢が落ち着くと戻ると言ったことを繰り返していた。
自らの調停も武力の背景がないため、不首尾に終わることが多い。将軍家の権威はもはや無きに等しいものであった。
そうした中一つの事件が起こる。天文から永禄の改元を義藤は知らされていなかった。
近江守護は京極と六角が相争っている。京極は配下であった浅井に敗北し、傀儡となりはてた。
六角は琵琶湖の水運より上がる運上を背景に力を蓄えるが、東の美濃で起こった政変に対応しきれなかった。
西美濃は織田の手に落ち、ほどなくして稲葉山が開城した。
弾正忠家当主である信長は稲葉山に入り美濃を直接支配に動いた。名分は土岐の支族である一色の当主を保護していると言うものであった。
美濃中央部で起きた反乱で一時混乱したが、苦闘を重ねつつも制圧し、東美濃も傘下に収める。
先に西が抑えられたことと、浅井と盟を結ばれたため、美濃の混乱に手を出すことができなかった。
管領代と呼ばれる地位のため、細川と三好の争いに介入することが多く、そのせいもあって美濃に手出しできなかったこともある。
織田は関が原に城を築き始めた。いくつかの山に砦を築き、さらに土を盛り上げて土塁となし、そこに通路を作る。
唐の国の万里の長城を模したものと言われていた。
この砦に常時多くの兵を貼り付ける織田の経済力はすでに脅威であったがそのことに気づくものはわずかであった。
六角定頼は、観音寺の城下に楽市を初めて開いたと言われる。北国往還からの物流を琵琶湖からの水運で運ぶことの重要性に気づいており、経済感覚がすさまじく発達していた。
美濃を押さえた織田とは浅井を介しているが、尾張と北伊勢はつながっている。願正寺とよしみを通じつつ、北伊勢に伸ばした影響力を強めるように政略を進めていた。
そして、火種は些細なきっかけで燃え上がる。北伊勢の桑名で大規模な地侍の一揆が始まったのだ。
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