マムシ親子
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美濃で変事があったとの報が清須にもたらされた。
軍議がすぐに開かれ、評定の間に諸将が集められる。開口一番信長が口を開いた。
「墨俣じゃ」
「はっ!?」
諸将は信長の意図を計りかねて押し黙る。
「与三を先手に立てよ」
更なる言葉にも諸将は意図を計りかね、互いに顔を見合わせる。名指しされた森可成は家臣を呼んで指示を出している。
信長は気が立ってくると頭の回転が速まり言葉が短く途切れがちになる癖があった。
「美濃への進撃経路を確保するために墨俣を押さえよと?」
「勘十郎様!」
脇に控えていた勘十郎信勝が信長の言葉を補う。
「うむ」
信長は満足げに頷くと指図を続ける。
「八右衛門、川並衆へ」
「兄上の言葉は儂が伝える。者ども、遅れるな! 森与三。おのしは手勢を率いて墨俣を押さえよ。生駒八右衛門。川筋の者どもにつなぎをつけるでや」
「はっ」
信勝は手元の帳面をのぞき込む。そこには喜六が書いた字で、兄上の取り扱いについてと書かれていた。
「喜六、おそろしきおとこでや」
そこには、墨俣と言った時にはこうせよと指図が書かれている。兄の言葉を翻訳し、家来どもにわかりやすく伝えることができ、勘十郎の家中での評判が上がる結果になるのだった。
墨俣の渡しは尾張と美濃をつなぐ川の瀬であった。長良川が大きく曲がった場所にある堆積した中州があり、多少の雨では水没しない。
そこにはもともと斎藤家が作った砦があったが、同盟を結んでのちは放置されていた。
森可成はもともと土岐氏に仕えていた家柄であったが、斎藤道三に主家が滅ぼされた後、尾張に流れてきていた。
かつて知ったる故国に攻め入る先手となって内心は複雑なものがあったが、斎藤家は土岐家を滅ぼした仇敵でもあった。
森衆は勝手知ったる土地を進み、墨俣の砦跡にたどり着く。そこではすでに筏で川を下ってきていた蜂須賀衆が筏をばらして柵木を組み立てていた。
「おう、織田家中のかたにござるかや? 儂は蜂須賀小六と申すでや」
「儂は森三左衛門でや」
「おお、攻めの三左とは貴殿のことかや。権六殿にも負けぬ剛の者と聞き及んでおるがなん」
「東海一の猛者である権六殿にはとても及ぶまいでや」
がははと笑いあう中で、墨俣砦はどんどんを修理が進んでいく。
川並衆は唯の野武士集団でなく、川渡しの船頭や木こりなどを含む技術者集団でもあった。川筋の住民を手懐けており、兵としてではなく人夫として協力させる。
川筋の交易で蓄えた財貨をもって、主たる頭役は鉄砲を装備していた。小六自身も鉄砲稽古を積み重ね、川筋に鳥が来ないのは小六の鉄砲のせいだと言われるほどの達人であった。
「ここは任すでや、我らは先に進んで大物見いたすでなん」
「承知でや。南無八幡、武運長久にあらんことを」
「かたじけなし」
森衆五百は北上していく。情勢は徐々に悪化し、道三の手勢は大桑に移っていた。その数は二千五百。対する義龍の軍勢は一万近くを数える。
圧倒的不利な情勢に、森衆も手を出しかねていた。後続の兵が合流し、千を数えるほどになっても、十倍の兵を相手どることはできない。
道三は南方を遮断され徐々に北に追いやられることで、南から来る織田勢との合流を妨害されていた。義龍の用兵は堅実で隙が無い。
「あやつめ、これほどまでの才を隠しておったかや」
「まことに見事なる手際にて」
猪子兵助の言葉に道三は苦笑いを浮かべる。
「乱世の習いなれどちと寂しきものであらあず。親と子が互いに相争うざまにてなん」
「さすれば上総様が援軍を待たずにいかれまするか?」
「尾張一統はなったが、儂がこのざまではなん。あわせる顔も無かろうず」
兵助は覚悟の決まった道三の顔を見て頷く。
「これをもって婿殿の陣を訪ねよ」
「いったいこれは何でござるがや?」
「遺言状ゆえ決して敵の手に渡すな。あの婿殿には無用かも知れぬがなん」
「なれば顔を合わせてお渡しなされ。儂は上総様の陣を訪ね、加勢を頼んでくるだわ」
「左様か、なれば好きにいたせ。儂はこれより打って出るだわ」
主従はその会話を最後に分かれた。大桑の城に陣太鼓の音が響く。この城に集ったのは道三と運命を共にせざるを得ない、子飼いの者どもであった。
「お殿様の御恩に報いるため、冥土までお供しようず」
「左様でや。なに、地獄に落ちたらば牛頭馬頭相手にひといくさでや」
彼らはこの上は生き延びることができるとは考えていない。武士の意地を通すことだけを楽しみに死地に赴く。
「おう、マムシが手勢が死に狂いを見せつけるでや。して、ものども、万が一命を拾いたるならば、婿殿の陣中を訪ねるがよからあず」
「われらこの地にて討ち死にと決めておるならば殿の下知と言えども聞き入れがたいだわ」
「そこを曲げて頼むでや。婿殿にはこれからもいくさが続くであろうが、おのしらがごときつわものがおるならば、儂は安堵して逝けるでや」
「……承知仕ってござるだわ」
「まあ、まずは義龍が手勢を叩き伏せてのちだがのん」
「左様にございますな。マムシが精兵の威を見せつけてくれようぞ」
道三の軍は大桑を南下し、鶴山と言う要害に陣を構えた。信長の兵も先遣隊である森衆との合流し羽島の東蔵坊に布陣した。
道三の兵はわずかに増えて二千七百、信長率いる尾張衆は四千。合わされば義龍の軍と互角に戦いうる。
「土岐家の一門として、主に牙をむいた逆臣を討つ!」
義龍の名分は、自らの出自によったものであった。母の三芳野は土岐頼芸の愛妾であり、道三の妻となって八か月ほどで産み落とされた子であった。
それゆえにその種は頼芸であるとのうわさが常に付きまとい、道三自身もそのことを否定しなかった。
主君の子を預かり、育てているという風評は彼の悪名をわずかでも和らげる効果がある、そういう計算に基づいたものであったが、ここにきてその報いが来た格好である。
義龍はそのころから范可と言う名乗りをするようになった。これは唐の故事でやむにやまれぬ事情で父を討つこととなった者の名であった。
長良川を挟んで両軍は向き合う。
「新九郎! このうつけ者めが! 儂がいかに苦労して美濃一国をまとめておったか知らぬわけでもあるまいが!」
「美濃を乱したは貴様であろうが! 土岐家を滅ぼし、主家乗っ取りをなした大悪党が!」
「その貴様は儂の子であるが! 儂は悪党だがそうならねば美濃は今頃四分五裂しておったわ。そうなれば割を食うは百姓どもなるぞ!」
「だが、それでもやりようと言うものがあったであろうが!」
「あとからああだこうだというのは誰でもできるわ! その場に立って最善と信じたことをなしたのみでや」
「しかし、しかし……いや、是非もなし」
「左様か、なればこの首、見事討ち取って見せよ」
「うむ、この期に及んで未練がましい振る舞いであったなん」
最後にわずかに頭を下げ、末期の礼をする。
「かかれえええい!」
突撃は道三の側から行われた。その勢いに義龍の兵がわずかに動揺する。南にいる織田軍と合流すればまだわずかに勝ち目がある情勢であった。であれば守りを固め、挟み撃ちを狙うことが定石であると考えていたのだ。
「ひるむな! 押し返すでや!」
先陣の竹腰道鎮が兵を叱咤するが、一斉に切り込まれて混乱する。そのまま乱軍の中で竹腰は討たれる。
「続け! 稲葉、氏家は両翼よりかかるでや!」
義龍は自らの旗本を率いて崩れた中央を支える。両翼から稲葉一鉄と氏家卜全が攻めかかる。
半包囲された道三の兵は死にもの狂いで荒れ狂う。互いの指物は倒れ伏し、断末魔と叫喚がこだまする。
長良川は血に染まり、倒れ伏した兵どもが川に流されていく。
「申し上げます! 犬山より兵二千が北上、猿喰の城に迫っております」
犬山から織田信清が木曽川を渡り対岸の城に攻めかかったとの報であった。
近隣の城から後詰が出ているが、一刻も早く手当てをしないと西美濃一帯が危機に陥る。
そこに再び使い番が現れる。
「南方に織田木瓜の旗印が見ゆるでや」
抑えに派遣していた安藤は敗れ、突破を許していた。
目の前では道三の兵は一人、また一人と力尽きて倒れ伏していく。だが、こちらの手勢にも余力がないことを見て取った。
「織田の陣より使者が参っております」
「やむを得ず、鐘を鳴らせ!」
ガンガンと打ち鳴らされる鐘の音に戦闘は止められ、互いに川を挟んだところまで退く。川べりでは兵は油断なく得物を構えていた。
「丹羽五郎左と申しまするに」
「うむ、いくさ場ゆえ悠長なる挨拶はいらぬでや」
「されば、此度は和睦の仲介に参りましてございまする」
「条件を申すがよからあず」
「道三殿とほかのご兄弟を尾張に引き取りまする」
「……よからあず、ただし墨俣は我が方に引き渡されよ」
「承知仕った。直ちに兵を退かせまする」
「犬山衆はいかがか」
「ちと川のことで行き違いがあったものと聞いておりまする。すでに和睦がなってござるでや」
陽動とわかってはいたが、手を差し伸べねば本格的に切り取られていたことは間違いない。であれば、勢力を残して火種を取り除く、この条件が最良に思えた。
長良川のいくさで、両軍の死者は千五百を数えた。兵力は三倍の開きがありながら、戦死者の数はほぼ同じであったという。
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