岡崎の戦い
感想、誤字報告ありがとうございます。
返信は時間ができ次第と考えておりますが、多忙な部署に回っておりなかなか時間が取れません。
全て目を通しておりますとだけお伝えさせていただきます。
岡崎に織田の旗幟が上がった。今川との手切れと織田につくという意思表示がなされたことになる。
その報を聞いて、太原雪斎は長く嘆息した。
「織田の子せがれにしてやられたかや」
今川の牒者も無能ではない。松平の背後に織田喜六郎秀孝の影があることを調べ取っていた。
「人質を携えて自ら赴くなど並みの胆力ではないの」
竹千代は松平に対する切り札であった。それを自ら手放し、対価は暗殺への備えを厳重にすること。
そして岩松八弥はしでかした。厳重な守りを布かれていることに気づかずことに及び、失敗した。
これによって松平家中で反今川の機運が大きく盛り上がってしまった。
「我ながら悪手であったわな。しかし時がない」
雪斎は先年のいくさで受けた矢傷の痕を恨めしげな眼で見る。墨染の衣で隠されているが、そこは大きくはれ上がり、数度にわたって金創医の手当てを受けた後が見て取れる。
夏の湿気に傷が化膿し、高熱で生死の境をさまよった。自らに残された時間が大きく目減りしたことを悟り、このままでは今川の先行きは明るくないと感じてしまった。
主君にして弟子である義元への最期の奉公と称して、この遠征の計画にまい進してきた。少なくとも三河一国を切り取らねば織田と互角以上に戦えない。そういうめどであった。
しかし現実には、自らの策は看破され裏目に出てしまっている。
「人間、窮すれば鈍するということであろうかの」
普段の雪斎であればもう少しじっくりとめぐらす策も、焦りからか拙速の失策を犯してしまった。
「和尚、まだ巻き返せるずら。我が勢はお館様が心血を注いで練り上げた仮名目録のもと、鉄の結束を誇っておる」
朝比奈備中泰能が雪斎を励ますように声を上げる。実際に、今川軍は二万を号する兵を動員していた。さらに武田経由で斎藤義龍と結び、尾張を挟撃する体制を整えている。
「うむ、左様であるな。上総介はこちらに半数の兵しか回せぬ。場合によってはもっと少なくなろうず」
「尾張一国の兵はいまだ内輪もめの傷が癒えておらんずら。なればいまだ数の利はこっちずら」
それだけに松平衆がすべてではないが織田に付いたのは痛かった。安祥の番衆は千五百。尾張南東部の後詰は三千ほどだろう。そこに松平がつけばさらに三千。
この三千が味方におれば安祥を落とすことは難事ではなかった。開城の条件として竹千代を奪還させることができれば、岡崎をこちらの陣営につなぎとめる一手となったはずだったのだ。
それを、敵に切り札を使われて見事に盤面を覆された。隠居の信秀は武辺の大将であっても、まだ尋常の中にあった。
嫡子の信長はそのあとを継ぎ、果断な政策で尾張一国をまとめつつあった。
弟の信勝との相克をあおることで統一を遅らせようともしていたが、その意図はくじかれた。
尾張の情勢を裏から操る者がいる。そう考えて様々に探らせたところ……浮かび上がった結果に唖然としてしまった。
わずか十一の小僧だったのだ。喜六郎秀孝。元服すらつい先日のことだ。書物を好み、様々な道具を再現したと言われるが、細作が持ち帰った情報から聞いた話では、そのような道具は漢籍には存在しない。
無論すべての漢籍の一字一句までをすべてそらんじておるわけではないが、それでもそのような農具があれば、すでに広まっていないとおかしいのだ。
そして、何やら田を弄り回したかと思えば、その村の収穫が倍近くになったと聞く。何をどうすればそのようなことになるのかと調査を命じておるが、よそ者に対する警戒がその村周辺では並みでなかった。
板塀や柵で囲まれ、夜間は犬が放たれる。農事に詳しい庄屋を招いて様々に問うてみたが、収穫が倍になるような方法があるならば自分たちがそれを知りたいと問い返された。考えてみれば当たり前のことだ。
収量が倍になればそれは国力が倍になるということ。それも一度のいくさもせずにと言うことだ。尾張の石高が倍になり、さらに西三河もその版図に加わる。そうなれば、最低でも互角、商業の利を加えれば今川をもしのぐ勢力になりかねない。
率いるのが尋常の大将であれば、我が主君たる義元公はそう負けはせぬ。しかし、あの異様なる子せがれ、喜六郎が絡んでくるとなれば話は変わる。
故に、まだこちらの方が力が上の内に、叩かねばいずれ今川は飲み込まれる。
それは攻め込んでくる相手が、織田か武田かの違いであろう。北条も油断はできぬ。河東の地はあきらめておらぬであろう。それでも関東の地を治めるに様々な苦労があり、名分を失うような真似はしないと言えるのが救いでもあった。
三河中部を過ぎ、岡崎南東二里ほどの所で布陣する。岡崎には安祥からの後ろ巻きが入ったようじゃ。
「岡崎を取り巻け。かの城を落とせば松平衆は降るであろう」
「はっ!」
兵糧は北条からも買い付け、余裕をもって持ち込んだ。目的は乱暴狼藉をさせぬためだ。
威を見せつけると称しての略奪は、徴兵された農民兵の報酬でもある。だが今回はそれをさせなかった。恩徳を施すことで百姓どもは今川になびく。すくなくともそうせねば、織田に従えば収穫が増えるという風聞に対抗できぬ。
今は眉唾のうわさとして扱われているが、事実として考えねばならぬだろう。村一つを囲い込み、昼夜分かたず警戒してまで隠さねばならない秘密があるのだ。
そうしておきながら、百姓どものうわさで喜六様が唐のやり方で収穫を増やしたと伝わってくる。
村一つの収量と思えぬほどの荷車が末森城に入ったとの報告が入っている。そのことも噂を側面から強化しているわけだ。
「陣を前に進めよ」
「応!」
岡崎の大手門は固く閉ざされ籠城の構えだ。竜頭山は小高い丘で、周囲の木々は切り取られ、見通しが良くなっている。
寄せ手が近づけばすぐにわかるため奇襲は難しい。
矢避け木盾を持った兵を前面に押し出し、我攻めに攻めかかる。
鬨の声を上げて攻めかかる寄せ手に向けて、連続した破裂音と共に銃弾が降り注いだ。
「わが名は佐々内蔵助でや! 織田鉄砲衆の威力、とくと見よ!」
城壁の際に建てられた矢倉の上から、一人の武者が名乗りを上げる。
「鉄砲は連射がきかぬ。盾連ねて押し寄せよ!」
前線の物頭にも、織田の鉄砲衆のことは伝えてある。一度打てば次の弾の発射までは間隔があく。
実際に鉄砲を撃つところは将たちにも見せている。故に次の射撃までの間隔は理解している、はずだった。
「うてええええい!」
佐々内蔵助が再び命を下す。……早すぎる。
そう思うたが、鉄砲足軽どもは引き金を落とし、再び銃声が響き渡る。
射撃は来ぬと思っていた先手の兵は、思わぬ攻撃に算を乱す。
それからも我らが知る鉄砲とは思えぬほどの速さで射撃が繰り返され、大手門の前は撃たれて倒れ伏す兵で埋まった。
鉄砲の最大の弱点である射撃間隔を克服して見せたというのか。驚きにいっとき呆然とする。
物見が見て取ったところによると、弓も短く、それでいて矢勢が強いとの報告が上がってきた。
「和尚、織田の後ろ巻きがうせおったで。数は……五千ずら」
朝比奈備中からの報告に、わずかな違和感を感じていた。おそらく総動員してきたのだろうが、それでも想定より少ない。
「備中殿、敵の数だが思うていたよりやや少なきように見ゆる」
「伏勢か、承知ずら!」
敵が迫る方向と別の方角を見張らせる。予感は当たった。南西の方角より迫る一手があった。
旗印は二つ引き、足利氏を祖とする一族。三河守護の吉良氏の旗印であった。
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