遠州普請
井伊谷を治めるのは、女地頭として名高い井伊直虎であった。先代の討ち死にで、あとを継ぐ甥がまだ幼いこともあり、名代としての立場であった。
「なんという……」
松平を先鋒とした織田の雲霞のごとく大軍を目の当たりにして彼女は呆然とつぶやく。
兵を起こせばその矛先となる地では乱暴狼藉が常で、兵の食事は現地調達が当たり前であった。
しかし、織田はまず荷駄を立てて大量の物資を運び込み、黒鍬衆がすさまじい勢いで陣地を構築し、そこに大量の兵糧を積み上げる。
さらには現地の住民を募集し、食事と日当を出したうえで普請働きをさせていた。
農閑期と言うこともあって、さらに食事が出るという話は、うますぎると疑心を買ったが、全く人手を出さねば怒りを買うとの打算のもと、各村からはある程度のまとまった人数を出した。
しばらくしてうわさが広まった。織田の普請場では飯が出ると。さらには日当で銭ももらえて、周囲にいる行商人から肉や魚を買うことができる。
仕事も定期的に中休みが入り、決して無理はさせない。
「話がうますぎるべ」
「しかし権兵衛が普請さいって太って帰ってきたでのん」
「なにやら数日働いたら一日丸々休みになって、それでも銭はもらえたそうでや」
「う、むむむ」
「きめたぞ」
「村長?」
「手が開いておるものはこぞって普請に出るでや。うわさを聞く限りはみな同じことを言うておるでのん」
そこに通りがかった行商人が大量の銭を持ち込んで漬物や川魚などを買い付けにやってきた。
織田の普請場に行けば飛ぶように売れると。さらにけが人には休みを与え見舞いが出ていると告げられ、村の男たちは奮起して出かけるのだった。
「狼藉は全くと言っていいほどありませんな。あったとしても巡回している馬廻り衆が見つけて捕らえ、有無を言わさず斬首となっておりますれば」
「降って正しかったなも。今川の御屋形はそこまでのことをしてくれなんだ。いや、できなんだと言うべきか」
「ほかの誰にもできなんだでありましょうず。尾張に近い西三河は織田の分国になってから目覚ましい賑わいを見せておると聞いております」
「この子を預けられる主君に巡り合えたならばそれで本望じゃの、そのあとは寺に入って緩やかに過ごしたいのう」
「……織田より使者が来ておりましてなん。地頭様を織田の家臣として迎えたいとの申し出が」
「はい?」
「遠州守護に、武衛様の嫡子、義銀様が入られることは内定しておりまして」
「うむ、であるなん」
「今川様は掛川城を与えられ、その家臣となります」
「うむ。駿河を取り戻せばその守護となる条件であるらしいの」
「斯波様は曳馬に入られ、その東の浜松に織田の一族の方が守護代として入る予定になっておりますが、その方、喜六郎秀孝様の家臣に、と」
「断ることはできんじゃろうなあ」
「はっ、申し訳ございませぬ」
「よい。少なくとも遠州を横断する勢いで進む普請で、井伊谷の民も潤っておる。恩返しの御奉公をしたとて罰は当たるまいよ」
**************************************
北陸の情勢は、平三が最前線となる越後で東北の諸大名に書状を発していた。加賀、能登、越中、越前は敵に接することのない地となっており、平穏である。
そして、そんな情勢であるがゆえに、儂は馬廻りを率いて喜六様と共に遠江に来ていた。
「これが天竜川か」
「掛川支援のためにはここを渡らねばなりませぬな」
背後には大兵力を移動させるための街道普請が続いている。軍を移動させるためだけではなく、物流を盛んにするためにも非常に重要な普請であった。
「早急に兵を渡す必要があるね」
「向こう岸には今川の兵が来ております」
「舟橋を作ろう。雲八を呼んで」
「なるほど」
黒鍬衆が周辺で渡し舟などを手配し、対岸に人数を送り込む。と言っても軍としてまとまった行動が取れるような数ではない。
向こう岸でも同じように船を手配し、大き目の板などを集めていた。
「じゃあ、織田の武辺を見てもらおうかな。大島殿、頼みます」
「我が弓は戦場以外でも役に立っておるのですなあ」
ひげの先まで真っ白になった老武者は呵々と笑い、愛用の大弓を手にした。
矢には縄が結ばれており、対岸に向けて射込もうとしていた。
「正気か?」
「届くわけがなかろう」
「そもそも、これだけの人目の前で失敗したならば、織田の武辺は地に落ちるぞ」
現地の兵が口々にささやき合う。
そんな雑音は全く意に介することなく、雲八殿は弓を満月のように引き絞り……放った。
風切り音と共に飛ぶ矢は、虚空を斬り裂きついには対岸に置かれていた板に突き立つ。その神技にわっと喊声が上がった。
「見事なり!」
喜六様がぱっと扇を広げて振って見せた。扇には墨痕鮮やかに「天晴」と書かれている。
「彼の那須与一にも劣らぬ妙技、褒美にこの扇をつかわす」
「はっ! されば、もう数本縄を投げ込んでおきましょうか」
雲八殿は同じく縄が結わえられた矢を手に取ると、続けざまに放つ。それらは一本として途中で落ちることなく、対岸の板に突き刺さった。
「おい、まて。全部板に刺さったということは……あの板を狙って放たれておったということか?」
「で、あろうなん」
「彼の武者は喜六様の馬廻りの一人と聞くが」
「あのような武辺者を抱えておるとは、逆らうことはせぬ方がよさそうじゃのん」
「近寄る前にハリネズミにされるわ」
対岸でその様子を見ていた今川の兵は、戻ってその情景を報告したところ、誰にも信じてもらえなかったという。
それでも援軍が来ると言う報告に城内は沸き返り、その様子を見た北条の軍は、警戒を強めた。
決戦の時は近づいていた。
読んでいただきありがとうございます。
感想、ブックマーク、いいね、ポイント評価、そしてレビュー。
全て作者の創作の燃料となっております!
以下新作です。こちらも読んでいただけましたらうれしいです。
ハード目のファンタジー作品となっております。
https://ncode.syosetu.com/n2406ho/




