第1章 第6節 高校
「・・・。」
香織はどこか上の空、どこかしかめっ面でパソコンに向かっていた。
香織たちが部活動で使っている空き教室にはパソコン部の部員全員が集まり、上条から情報処理の試験について話を聞いている。
そんな中、香織は時折、悲しそうな表情を浮かべたかと思えば、苦虫を噛み潰した様な表情になり、次の瞬間には感情が抜け落ちた様な無表情となっていた。
そんな香織の百面相を見ながら、上条が隣の智也に話しかけてきた。
「どうしたんだ、アレ」
「あ~、なんでも、好きだったアイドルが結婚するそうなんです。発表を聞いた時はすごかったらしいですよ。昨日、沙織ちゃんから動画が送られて来たんですけど、見ます?」
智也がスマホを取り出し、上条に動画を再生して見せた。
「あ~あ、小学生じゃあるまいし。」
「・・・なに。」
ボソッと漏らした上条のセリフに、香織がスゴイ顔でかみついてきた。
「いや、こないだオレの部屋に文句を言いに時と随分違うと思ってな。」
「あれは、小父さんが間違った情報を教えたのがいけないんじゃない。」
「悪かったな、情報が古くて。オレが受験をした頃は、学生が受験する試験といえば二種ってのが当たり前だったんだよ。」
上条が言っている二種とは『第二種情報処理技術者試験』の事で、2000年に名称が変更され、現在は『基本情報処理技術者試験』と呼ばれている試験の事だ。
情報系の専門学校生から実務経験3年未満の新入社員がメインのターゲットとなっていた試験で、上条が受験していた頃は合格率12~15%と、それなりに難関と言われていた試験だ。
「私たちは高校生になったばかりなんだから、違う試験の方が良いって分かりそうなもんじゃない。」
「2019年に9歳が合格してる。」
最年少記録らしい。
「へえ~、ITパスポート試験は知らなかったのに、そんな事は知ってるんだ。」
ITパスポート試験とは、2009年に新設された試験で、現在12種ある情報処理技術者試験の区分の中では最も難易度が低い試験になる。
合格率は例年約50%前後の国家資格で、一般利用者向けのIT関連資格試験の中では難易度が高い部類に属する試験らしい。
・・・、Wikiによると・・・。
そして、ITパスポート試験の受験生の内、約4割が学生、その学生の内3割が高校生という、高校生が受けてもおかしくない国家資格で、毎月受験出来る事を知った香織が「話が違う」と上条に文句を言ったのが、つい先日の夜というわけだ。
「好きな|アイドル≪ひと≫が結婚するなら、祝福してやりゃいいだろ。それともなにか、そのアイドルと結婚するのは自分だったとか思ってたわけか?小学生の妄想かよ。」
「・・・、分かってるわよ、それくらい。」
香織は不貞腐れたような表情を一瞬浮かべた後、上条を睨みつけた。
「小父さんには分からないわよ。」
「オレだって、そのくらい分かるわ。好きな女性芸能人が、毎晩、男とあ~んなコトやこ~んなコトをしてるかと思うとおもしろくない。」
「・・・!あんなコトやこんなコトって」
「ずっこん、ばっこん?」
「っつ、そういう事いってる訳じゃない。」
「・・・。冗談だよ。」
ボソッと小さくそう言うと、上条は香織から目をそらした。
「『般若心経』って知ってるか?」
「?」
上条の突然の話題転換に、香織は小首を傾げた。
「宗教についてちゃんと調べたわけでもないし、誰かにきちんと教えてもらった訳でもないから、自己流の解釈なんだがな。」
「・・・?」
「お釈迦様曰く、あんま細かいことに囚われるな、だそうだ。」
「はぁ、細かいって何よ。」
「例えばだ、お前が好きだっていうアイドル。そいつが結婚したら、太陽は西から上るのか?消費税が上がるのか?」
「はぁ?」
「そんな馬鹿な事ないよな。太陽が上るのは東だし、消費税だって変わらない。」
「・・・、なにが言いたいのよ、イライラするんだけど。」
「お前の好きなアイドルが結婚しようが離婚しようが、何も変わらないだろ。」
「はぁ~、聞こえなかった?イライラするって。」
「本人達は色々あるだろうが、お前は何も関係ないだろ、今までと同じようにキャッキャウフフ応援すりゃいいじゃねえか。」
「あ~、うるさい、うるさい、うるさい!小父さんの言うとおり、あたしと和也は何の関係もないわよ。無関係よ、無関係。赤の他人よ、顔見知りでもなんでも無いわよ。それでも、悲しいものは悲しいし、嫌なものは嫌なの。偉そうに言われなくても分かってるわよ。」
香織は涙の浮かんだ瞳で上条を睨んだ後、教室の外へと走って行った。
「・・・『和也』っていうのか?そのアイドル。」
「・・・博さ~ん、そんな事どうでも良いでしょ、泣いちゃいましたよ。どうするんですか。」
「・・・、すまん。フォロー頼むわ。」
香織が走り去ったドアを上条が面倒くさそうに眺め、それを智也がうんざりした顔で見つめていた。
「でも、何で般若心経なんです?」
「あぁ、宗教ってのは昔からある伝統のカウンセリング法だからな。少しは効果があるかと思ったんだが・・・。」
「はぁ・・・。」
上条なりに考えたようだが、その残念な考えに智也は思わず呆れたように上条を見上げた。
「宗教って言っても、別にオカルトとかの話じゃないからな。例えば、天国だとか極楽だとかってのは、精神的に安心する為に便宜上言ってるだけだ。死んだら『はい、お終い』じゃ、寂しいし、納得出来ないだろ。『ご先祖様を大切に』ってのも、『生きてる人はもっと大切に』って事の裏返し的表現だし。全ては『快適に生きる』にはどうすべきかっていう哲学的考察であり、生きていく為のカウンセリングの手法だ。だから、幽霊がどうの、悪霊がどうのって言ってる宗教家がいたら、信用するに値しないと思った方が良いからな。キリスト教にでてくるの『モーゼの十戒』にしても、殺人はダメだとか、盗みはするなとか、浮気はイカンとか、当たり前の事しか言ってないだろ。」
焦りを隠しきれない上条に、智也は益々呆れてしまった。
「・・・はぁ。で、博さん。ホントに『般若心経?』の中身、分かってて言ったんですよね。」
「まぁ、・・・自己流の解釈だけどな。」
「・・・博さ~ん。」
「・・・、すまん。香織のフォロー頼む。」
ため息をついて智也が香織を追いかけようと席を立った時、突然ドアが開き、詩織先生が駆け込んできた。
どうでもいいちゃ、どうでもいい事ですが、上条博が般若心経を現代語訳すると以下の様になります。
まぁ、本職のお坊さんが見たら、青筋立てて怒鳴り込んでくる内容かもですが、彼はこう理解したと思ってください。
『般若心経』上条博流、超いい加減な現代口語訳
なぁ、シャーリ(*1)。
観世音菩薩って知ってるよなぁ。
俺(お釈迦様)がその偉い菩薩様から色々聞いて覚りを開いた時の話なんやけどな。
この世の中って、いろんな物事が複雑に絡み合って成り立っとるやん。
それこそ俺らの思いもつかんような事が絡んどって、予想と違う結果になる事ってあるやん。
つまりな、世の中って、常に変化しとるわけよ。
まぁ、なかなか気づかんことも多いけどな。
でな、よく『年取りたないわ』とか『死にたない』とか聞くやん。
でもな、考えてみいや。『年取る』って、ある意味『成長する』って事やん。
死にたないとか言われてもなぁ、実際問題、死んでみん事には死んだ後の事なんて分からへんしなぁ。
ハッキリ言って、みんな細かいねん。いろんな事にこだわり過ぎ。
もっと、こう、泰然自若?
物事をさあ、心静かに観察できるようにしたいよなぁ。
っつう事で、みんなで呪文を唱えよう。
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶
*1:お釈迦様の10大弟子の一人。舎利子という名で知られている人です。舎利子の『子』は、『孔子』『孟子』『老子』とかの『子』と一緒で、学問に秀でた人格者の付ける敬称です。本名はシャーリプトラといいます。