第1章 第1節 メゾン・ドゥ・カミシロ
完全に見切り発車でのスタートです。
あまり期待せず、あたたかい目で見て頂けたら嬉しいです。
それでは、完走を目指しておっかなびっくりのスタートです。
カレンダーの上ではまだ初夏にもなっていないはずなのだが、街中至る処で蝉の鳴き声が響いている。
そんな蝉時雨の中を一人の少女が走っていた。
通学路を帰っていたクラスメイトが、追い越して行く彼女に気付き声をかけてくる。
「さおりん、どうしたの?そんなに急いで。」
『さおりん』と呼ばれた少女――神代沙織はスピードを緩めると満面の笑みをクラスメイトに向けた。
「ふふ、今ね、妖ハンにハマってるの。レベル上げに忙しいんだぁ。」
「妖ハン、わたしもやってる。」
妖ハン――正式名称は『妖怪ハンター』。小学生の間で大ブームになっているゲームだ。
その場駆け足の沙織と少女たちが楽しそうに話していると、待っていたとばかりに男の子が話しかけてきた。
「沙織、オレが手伝ってやってもいいぞ。」
「間に合ってまーす。」
文句を言う男の子を尻目に、沙織はクラスメイトの少女に別れを告げ、また走り出す。
クラスメイト達に挨拶をしながら走る沙織の目の前に、やがてレトロなアパートが見えてくる。
沙織はそのまま元気よくアパートの階段を上って行った。
「ただいま~」
元気の良い声が、古びたアパートの一室に響く。
「ねえねえ、お兄ちゃん、どこまでレベルアップでき・・・たって、あれ?居ない?」
ゲーム機に繋がったモニターには妖ハンのキャラクターが手持ち無沙汰で映っており、さっきまで誰かがプレイしていた様子なのだが誰もいない。
沙織はキョロキョロと部屋の中を見回すが1Kの部屋、隠れる場所などあるはずもない。
「トイレかなぁ…。」
そう言うと沙織は数歩戻り、玄関脇のドアに声をかけた。
「お兄ちゃん、いる?」
「おう、おかえり。」
トイレの隣から水音と共に男性の声が聞こえてきた。
「えっ?お風呂?」
「水風呂に入ってた。」
「こんな時間に?」
「暑いんだから仕方ないだろう。」
「エアコンつければ良いじゃない。」
「電気代がもったいない。もう上がるから、あっち行ってろ。」
「は~い。」
沙織は浴室から漏れてくる音を聞きながらゲーム機の前まで戻る。
「あぁ~、全然進んでない。」
妖ハンの進み具合を確認していると、濡れた髪をタオルで拭きながら細身の中年男性が入って来た。
「お兄ちゃん、全然進んでないじゃない。一体どれだけお風呂に入ってたのよ。」
沙織は、隣に座り込んだ中年男性を睨みつける。
「ん〜、3時間くらい・・・。」
「え〜、そんなに長い間、お風呂にはいってたの?」
「寝てた。」
「え~、ダメだよ、危ないよ、溺れちゃうよ。」
「ダイジョブだって、体かたいから、溺れるような姿勢になんないって。」
「もう~、ダメ!事故物件になったら借りる人がいなくなっちゃうでしょ。」
「いや、そこは、オレの心配しろよ。」
「文句があるなら家賃を払ってからにしろって言ってた。」
「・・・誰が?」
「香織おねえちゃん。」
沙織は文句を言いながら、コントローラーを男性から奪い取り、そのまま彼の胡坐の上の収まった。
文句を言いながらも『あっ、冷たい』とはしゃぐ幼女と、『暑いから退け』と文句を言いながらも好きにさせる中年男性。
これが休日の親子であれば実に微笑ましい光景なのだが、彼らは親子でもなければ年の離れた兄妹ですらない。
さらに言うなら、沙織に至ってはこの部屋の本来の住人ですらない。
時勢的に問題になりそうな気がしないではないが、少女がここに遊びに来ている事は彼女の母親が黙認している。
この二人、大家の娘と店子という関係なのだ。
とは言え、平日のまだ日の高い時間に中年男性が何をしているのかという感じはぬぐえない。
仕事はどうしたのかという疑問もわいてくる。
実は、彼はここ数か月の間まともに仕事をしていなかった。
それでは彼が無職なのかと言えば、そうとも言えない。
彼の職業は、フリーのシステムエンジニア(SE)。
フリーといえば聞こえは良いが、現状は無職とあまり変わらない。
仕事といえば、今までやってきた仕事の伝手で、たまに声がかかる程度。
そんな状況なので、お金がない。
当然、住む処にも困るようになり、はとこの経営するこのアパートに転がり込んできたのだ。
つまり、沙織と彼——上条博は親戚でもあった。
もっとも如何に親戚とは言え、沙織の母親である神代伊織が法律上の親族にあたる6親等にギリギリ入るという程度の親戚。
沙織にとっては法事の時に見かけた事のある知らないおじさんというのが最初の印象だった。
普通であれば、いかに親戚とは言え家賃収入の目途がたたない男性を入居させるなどあり得ないのだが、そこが伊織さんゆえと言っていいのか…、『しかたないわねぇ』と言いながらも受け入れたのだ。
そんな伊織も、沙織がこれほど博に懐くとは思っていなかったので、ある時、沙織に聞いてみた事があった。
「ねぇ、沙織ちゃんはお兄ちゃんの部屋にずっと行ってるけど、…なんで?」
「行っちゃいけなかった?」
「ううん、そんな事は無いけど、なんだか随分仲良しにしてるなって。」
「なんか、放っておいたら一日中誰とも話さないで過ごしてそうで…、ほっとけないんだもん。」
「そっか、そっか」
伊織は、少し困ったような笑顔で答える沙織をぎゅっと抱きしめた。