1.超大型台風の襲来
社内放送により、全ての職制が事務所へ呼ばれる。なにやら珍しい光景である。
大抵は、客先からの不具合発生の報せなど、ロクでもない事態が起きているのだろう。
時刻は午後七時、会社内はいつも通り、残業中の社員達に囲まれて金属加工の機械音がこだまし、切削油の独特の匂いや、防錆油の灯油のような匂いが、工場内にミスト状に漂っている。
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「現在、大変なコトが起きております! 渥美半島南の位置において、突然台風の発生が確認されました。中心気圧は890hpa――」
工場長がテレビの音声を遮る。
「いきなり暴風警報が発令されたじゃんね。帰宅が間に合う者はすぐに退社、間に合わない者は会社内で待機ね」
滅茶苦茶ではあるが、あと一時間あまりで、この会社が暴風域に入るとのことだ。
工場長も、突然の発表には、気象庁へ文句を言いたげだ。
愛知県豊川市に位置する四葉精機は、自動車部品の試作及び量産の切削加工メーカーであり、鋼材から鍛造、切削加工とその刃具や治工具をはじめ、測定器まで取り扱う準大手企業である。
あまりに突然の超大型台風の発生によって、社内は慌ただしく動き始める。会社の命令によって、帰宅できる者は即時退社指示が下った。
停電に備えて、班長の指示で各設備の電源を落としていき、営業所では事務方の面々が、退社準備を進める。
自宅へ短時間で帰れない者は、営業所や生技開発棟などの建家へ避難することとなった。
「やばくね? うちの会社吹き飛ぶんじゃない?」
そんな声が聞こえてくるが、強ち冗談ではすまないかもしれない…… そもそも渥美湾に突如として、過去最大級の大災害クラスの台風が発生するなど、前代未聞の事態ではある。
また、その台風の謳い文句も、某ワインの毎年のキャッチフレーズのように生易しいものではない。
ものの二十分にして、営業所は自宅が遠い四人だけとなり、その他の者は、残った人間に目もくれずに、いそいそと退社していく。
そうこうしている間に、大粒の雨が、暴風の畝りに乗って窓を激しく叩き始めた。
風は事務所や工場をがたがたと揺らし、天井や窓に打ちつける雨音は一層激しさを増し、その場に残る社員達へ急迫さを印象着けることだろう。
停電が発生し、携帯電話も圏外となり、人々は自然の猛威に対し、現代科学の無力さを痛感しているに違いない。
「怖いよ……」
事務所に残る、一人の若い営業事務員の女性は、デスクに踞りカタカタと震えていた。
そんな人々の恐怖の時間はどれほど続くのだろうか。
もう何時間経ったのだろうか。
営業部員の腕に巻かれた、シンプルな腕時計の針は、午前四時を指していた。
寝ていたその男は目を覚まし、その腕時計を確認する。
辺りを見回すと、幾分と雨風は弱まったようだが、まだ外に出る訳にはいかないだろう。
冷蔵庫から、眠気覚ましと言わぬばかりに、作り置きのアイスコーヒーを取り出した。
停電したとはいえ、気密性の高い冷蔵庫には、未だに冷気が充満している。
「うまい!」
男はそう呟いた。
歴史的な台風の目撃者にあってこの立ち振舞いは、さすがは営業といったところだろうか。実に呑気なものである。
空が白みがかり、太陽が上り始め、未だ降り続く小雨を照らし出している。
「そろそろ大丈夫でしょ」
営業部員の男は、調達部員の男と事務員の女を起こして、少し明るくなった窓を指差した。
窓の外は工場の建家しか見えないが、おおよそ台風は去ったと判断し得るだろうか。
「とりあえず事務所から出よう」
四人は階段を使い、事務所の玄関まで下る。
そして、四人は玄関を出たところで立ち竦んでしまった……
「はぁ!?」
四人は面白いくらいに同じ言葉を発し、さながら四重奏を演じて見せた。
目の前の光景には、いつもの他社工場や高速道路などはなく、ただ一面に木々が覆い茂る山林を広がっている。
「これ、夢なんですかね?」
「全部吹き飛んだのか?」
衝撃ともいえる情景を前に、四人はそれぞれ笑い始めた。
人間は本当に非現実な理不尽に直面した際には、笑ってしまうらしいが、その説が本当だと立証された。
そして、生技開発棟からもゾロゾロと人が出てきては、眼下の光景から、各々笑い始める。
回りを見渡せば、会社の敷地より外の全てが森林と化しており、木々より遠くの景色を見ることは不可能であった。
「とりあえず今一番偉い人で会社に残ってるのは誰よ?」
社内に残っていたのはせいぜい二、三十人といった所だろう。
皆がお互いの顔を見合わせ、職制を探している。
「調達の中野係長じゃないですか? 他は班長くらいですかね?」
営業部の男は皆に聞こえるよう、声を張り上げた。
調達部の中野は、頭をかきながらも、その場にいる者達へ口を開く。
「とりあえず営業事務所に戻るか」
目下、採り得る行動も特にはないだろう。
携帯は圏外であるし、電気も不通…… 会社から出ようにも駐車場の出口は木々に覆われて、出ることも叶わない。
会社という日常空間が、非日常空間へ変わり、言い様のない不気味さを醸し出していた。