尖端
わたしがバレエを始めたのは、ある女の人の踊りを見たことがきっかけだった。
その女の人は、ベージュのリボンのついたトゥ·シューズの先に包丁をつけて、舞台上でなくピアノの上で踊っていた。ただでさえ足先が覚束無いというのに、踊る場所を限って、不安定なその尖った切っ先で、きれいに踊ってみせたその姿に、わたしは、言い様もなく惹かれた。身体の芯がわなわなと震えた。
なんて、きれいなんだろう。
わたしもこんな風に踊れるようになりたい。
誰かを傷つけるかもしれない。
けど、それに構わず、わたしは自分の美の為だけに踊りたい。
子供ながらに、そんな崇高な気持ちをもっていた。
美しさだけは誰にも邪魔されないと思った。
だから私はあの金曜日の昼に、学校をサボタージュして一人でセルビアのトゥ·シューズを買いに行ったのだ。
梅雨が明けた。
短い髪を一生懸命まとめて作ったお団子の下のうなじに、うっすらと汗が滲む。
ショパンの雨だれで踊るのが、最近のわたしの好きなことになっていたから、雨が降ればいいのにと思った。
すべてのものが雨に濡れる時間は、なぜこんなに短いのだろう。
誇り高く勇気をもった、愛ある人間に育つよう。
そう願いのこめられたライオンがいる校章の嵌められた門をくぐり、ドーム型になった、上から真新しい光の注がれる玄関に入る。
規則正しく整列された、磨かれた木製の靴箱の、左から二番目、上から三段目の自分の番号を開ける。
当たり前だけど、中は上履き以外、ぽっかりと暗い空洞だった。
「きゃー!手紙入ってた!見てカヨちゃん!」
「うそうそ、だれから?」
すぐそばで、同級生らしき子が小さな手紙を持ってばねのついたおもちゃのように跳ねていて、隣の子がそれを取り上げようとしていた。
そのときわたしは、今朝グッピーに餌をあげ忘れてきたかもしれないという心配をしていた。
赤と青の、つがいの魚。藻が緑だから、水槽の中はずいぶんとカラフルだった。
わたしには、その世界が鮮やかで眩しかった。
時間が経つにつれて、わたしは可哀想なつばめや、ルートの不思議、リトマス試験紙は舐めると色が変わることを一つずつ小さな社会の縮図の中で知っていった。
でも、わたしが知りたいのはそんなことじゃなかった。幸福になりたければ辛いことも我慢しなければいけないし、記号はしょせん記号だし、舐めたいのはそんな薄っぺらい紙なんかじゃなかった。
例えば子供はどうすればできるのかとか、そのための作法とか、ルールとかマナーとか、そういうことだった。
昨日、わたしはまたひとつ大人の女性になった。
お腹の下のあたりに、石が乗っているような、ずっしりとした痛みを感じたと思ったら、何かがどろっと出た感触がして、わたしはトイレに駆け込んだ。
そこで見たのは、わたしが女の"子"ではなく女の"人"になった証拠だった。
それについては、既に保健体育の授業で教わっていた。男子がぶつくさ文句を言いながら、教室から出されたときだった。秘密めいたその話に、女子たちはみな様々な反応をしていた。
わたしはずっと、窓の外を見つめてすました顔をしていた。
まだ何も、経験などしていないのに。
わたしも、もうすぐ子供がつくれるからだになるんだ。
それだけをただ、ずっと呪文のように考えていた。
お昼休みの時間は、わたしにとってお弁当を食べているときよりずっと居心地が悪かった。
食べているときは、自分のテリトリーが守れる。それこそこの前、授業で見た平方メートルの世界みたいなものだった。お弁当の四角、お弁当を包んだ布の四角、それから机の四角。そうやってわたしのテリトリーは広がっていく。狭くてちっぽけだけれど、わたしにとっては唯一の世界だった。
けれどその日は落ち着かなかった。おなかは痛いし、なんだかとても苛々した。大抵の子は二日目が辛いのだと、保健室の先生が言っていた。だから、どこか静かな場所に行きたかった。
気がつくと私は廊下を出て、階下にある図書室に向かっていた。
扉を開けると、使い込まれた紙独特の褪せた匂いが風に乗ってやってきた。吸い込まれるように中に入り、何かを探しているわけでもないのに探しているふりをした。
世界にはこんなに言葉が溢れている。なのになぜ私は、友達と話すような言葉が分からないのだろう。
なんてことない言葉。難しくもなんともない会話。男の子といるときにも、何を話したらいいか分からない。仮にそういう関係になったとして、それをなんと呼べばいいのか分からない。
パ·ド·トゥという言葉以外に、異性のふたりの関係を表す言葉が、わたしには見つからなかった。
踊ることしかとりえのない、かわいそうな子。
「みにくいアヒルの子」
ふいに、隣から声がした。アルトとテノールの間、どちらともつかないその声に、思わず私はびくっと身体を震わせた。
「ああ、悪い。驚かせちゃったか?」
見るとその開襟シャツから伸びた腕はかりっと日焼けをしていて、目はきれいな二重で、ある角度から見るときに限って、その瞳は外の緑木と同じ色をしていた。そこまで見て、わたしはおそるおそる俯く。
「きみ、新一年生?」
視線を戻せないまま頷くと、その人ははきはきとした声で言った。
「おれ、いっこ上。
なあ、もしかして放課後、一番上の階のバレエ室にいた?」
この前、友達とふざけて覗きに行ったとき、いたような気がする。
予想外の言葉に思わず目を見開いて彼を見てしまった。わたしが目をどんなに開けても適いっこないくらい大きい目だった。光の入り具合によって、まだなりたての夕焼けのようにも見える。
「あ、わたし」
「きれいだった」
「え」
「踊ってるの見たけど、きれいだった」
よくあんなつま先立てて踊れるよな。
おれ、絶対むり。
あどけなく、悪びれず笑うその姿に、わたしは今までさざ波だっていた気持ちが落ち着いた。
いつの間にか、痛みも治まっていた。
「また見に行っていい?」
「……はい」
「おれ、周。たまにこの時間、ここに来てるから」
そして最後に、彼はこうつけ加えた。
「きみは、みにくいアヒルの子なんかじゃないよ」
ふっ、と、風が動く気配がして、彼は去っていった。
わたしはしばらくそこから動けないまま、みにくいアヒルの子を握りしめていた。
そこは、たちまち静かになった。
廊下から、喧騒が聞こえてくる。
でも、本当は、聞こえなかった。
彼の声以外、何も聞こえないふりをしたかった。
傾き始めた日が、天井近くのガラス窓から差し込んできていた。
窓の飾り枠の模様が、影と光を織り交ぜてリノリウムの床に落ちているのを見下ろして、踊り場の鏡に写っている自分を見つめる。
オデット、オディール。
あっちのわたしが白鳥で、こっちのわたしは黒鳥。
本当のわたしは影で、目立たなくて、鬱屈で、劣等感の塊だ。
理想はいつも薄い硝子を一枚隔てたところにある。
わたしであって、わたしでない。
どうすれば完璧に踊れるのか、誰か教えて。
雨は一日も続かなかった。
降ってくれるのは嬉しかったけれど、いつもは静かな図書室が、校庭に出られないせいで暇つぶしにやってきた生徒達で埋まってしまい、わたしはまた居場所を取られた気がして窮屈さを感じていた。
そしてあの日の金曜日のようなことを、またしてみようという良からぬ気持ちが頭を過ぎった。
チャイムが鳴って、生徒達がめいめいに教室に帰っていく中、わたしはそこから動かなかった。暫くして、本棚の間に身を隠すように入り込む。
霧崎さんはどうしたの?
お腹が痛いみたいです。
そう、じゃあ保健室ね。
そんな先生と生徒のやり取りが、今頃交わされているだろう。
そう、わたし、お腹が痛くて。
もう、女の人になったから。
でも、ふっと我に帰り、授業中なのだから彼は来ない、ということに気づいて、自分がやっている事が途端に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
けれど今更になって教室に戻るのも気が引けるので、とりあえず何か読んでいようと、いくつか本を引っ張り出した。が、座って読んでいるうちに文字が歪みだして、湿気たページを捲ろうとした手のまま、わたしは意識を落としてしまった。
雨の降る音が聞こえる。
激しくはない、優しい音だ。
あの女の人が、ピアノを傷つけて踊っていたときの引っ掻き音より、それのどんなに優しいことだろう。
彼女はなぜ、足先に包丁をつけて踊っていたの?
鳥が羽ばたくような音がした気がして、はっとして目が覚めた。
目の前には、あの蜜みたいな翠があった。
「うなされてたみたいだけど、平気?」
心配そうに覗き込んできた彼の瞳に見つめられる事に罪悪感がわき、わたしはまたも視線を逸らした。
「大丈夫、です」
それより、と私は遠慮がちに言った。
「授業は……」
「ああ、さぼり。きみもだろ?」
「……」
「いいんだよ。だいたいこんな窮屈な場所、疲れないほうがどうかしてる」
彼はそう言って背中を反り、欠伸をした。
「部活も勉強も両立して、どっちも周りに認められるようにやってきたつもりだけど、そうすればするほど、自分を見失っちまうような気がしてる」
いきなり悪いな、と言ってから彼はすぐに謝った。
「だからあんまり、認められようとしないほうがいいと思うぞ」
サボタージュは立派なデモ活動だ。
にしっ、と笑う彼に、思わず吹き出してしまった。
「いけないことしてるくせに……」
「共犯だろ?」
「まあ、たしかに」
あとさ。
珍しく彼から視線を外してきたから、わたしは次の言葉を待った。
「お団子もいいけど、たまには下ろしてみれば?」
髪型の事を言われたのだと、理解するには時間がかかった。
それだけ、動揺していた。
彼の声が、そのときだけすっかりアルトになっていたことに、
わたしは今思えば情けないくらい、期待していたんだと思う。
鏡の前に立って劣等感を感じることはもう慣れっこだったけど、
その日は違った。
それはわたしの愛してやまない場所で起こった。
「本来、黒鳥と白鳥は一人で演じるものですが、貴女達は新入生だし、まだバレリーナとしてそこまで成熟しきっていないので、今回は二人で演じることとします」
「オデット役おめでとう!」
「おめでとう」
「おめでとう」
「ありがと」
部員から歓声を浴びた、次の定期公演でわたしと対の白鳥役をする女生徒が、ロッカーの前で、わたしのほうを向いて言った。
「わたしたち、鏡みたいに仲良くなりましょ。そうしないと一対のオデットオディールにはなれないもの」
皮肉にも、と彼女はレオタードの紐を解きながら言った。
「あなたが図書室で秘密のデートをしてる先輩に対する気持ちも同じようだし?でも白鳥の湖の結末って知ってる?そういうことだから、ね。分かって」
それを聞いた瞬間、巻き上がった炎のような感情がわたしを焼いた。
わたしが黒鳥で、この子が白鳥だから、わたしは彼と結ばれないとか、そういう事より、彼との関係を、そんな陳腐な言葉で片づけられたことに、得体の知れないどす黒い感情がわきあがった。
そんなのじゃない。
彼は、彼とわたしは。
あなたなんかと一緒じゃない。
でも、ならどうして、
わたしは白く清くありたいと思うのだろう。
わたしの足には、鋭くて外せない切っ先がついているというのに。
他人を傷つけることしか、出来ないというのに。
幸福を形容したかのような夕焼けだった。
どんな悲しみだって、窓から漏れるその光を見れば忘れられそうだった。
鏡の前を通り過ぎたけれど、あっちのわたしにはなんとも思わなかった。
なぜなら、わたしはもう。
扉を開けると、影があった。
影の中でも、この世で一番均整のとれた、美しいその影がゆらっと動く。
「手紙、見た」
その影は、アルトボイスを出した。
あのときと同じ響き方で、それは誰もいないバレエ室に反射した。
「また声をかけるから、少しの間だけ、目を瞑っていてください」
そう言うと、彼はまるで眠るように翠の瞳を目蓋で隠した。
今日は金曜日。
わたしは家のクローゼットから、あるものを持ってきた。
それはわたしのずっと憧れていたものでめあり、内側の劣等感を形にして浮き上がらせるものでもあり、欲望であり、汚せないものだった。
今、それを身に纏い、彼の前に立とうとしている。
トゥ·シューズの先には、リボンも、尖ったものも、何もついていない。
「目を開けてください」
ゆっくり彼が目を開けて、わたしを見た。
わたしは、息をしてから無音の中で踊り出した。
尖端がないから、フェッテもピルエットも上手に出来た。柔らかく、けれど軸のある回転。グランパドシャ、羽ばたくように。
切っ先のないつま先は、もう誰も傷つけなかった。
わたしは自由に、ただひとつの思いのために踊っていた。
美しさではなく、彼に愛されるためだけに、わたしの身体はあった。
踊りが終わった。
わたしは息を整えて、彼のほうを見る。
彼の瞳の翠は、濡れたように光っていた。
雨上がりの森みたい。
もっと近くで見たいと思って、近づいただけだったのに、
気づけば床に白い羽を横たえていた。
「抱いて」
自分の声が、自分じゃないみたいだった。
髪を束ねていたゴムを乱暴に外したせいで、黒髪がまばらに下に落ちる。
「わたしは、黒鳥じゃない、ましてや白鳥でもない。ただの人間。ただの女。あなたの前では、そうなってしまう。言葉遣いだって、本当はすごく乱暴なのに必死に矯正してる。佇まいも、良い子でいるための努力も。きれいなバレリーナになりたい。ずっとそう思って生きてきた。
でももう、わたしはただの女なの」
だから抱いてよ。
ねえ、お願い。
もう、傷つけないから。
言葉を知らないはずのわたしの口から、こぼれ落ちた言葉たちが、彼の頬の皮膚を弾けて落ちていった。
彼は、そんなわたしを見上げて、木漏れ日の下で喋っているように優しく言った。
「じゃあ、たとえば、すごく突拍子もない願いだけど、ピアノの上でだって踊ってみせてくれる?
おれが見たいって言ったら、見せてくれる?」
あの女の人を思い出した。
彼女の尖端のつま先に、私は惹かれてこの生き方を選んだのだ。
でも今は最早、わたしはバレリーナでもない、ただの女という生き物で終わろうとしている。
「滑稽かもしれないけど」
「きれいだと思う、きっと」
「すきなの」
「うん」
「あなたがすき」
「尖っているのは、オレも同じだと思うから。
いっしょに傷つけあっていこう」
愛し合うって、きっとそういうことだよ。
その言葉が、とてもきれいな形でわたしの中に吸い込まれていった。
愛してほしい。
きっとまだ、何にも触れていないのでしょう。
そう乞うと 、彼は柔らかく健全な両手で、わたしの白い羽を優しくひきちぎった。
終