第1話 紅い眼の男
自分にとって大切な、大事な時間とはなんだろうか。人によって思い描くものは様々だろう。恋人と過ごす時間が大事だと言う者もいれば、仕事が大事だと言う者もいるだろう。趣味の時間を思い描く者もいるだろう。
しかしその男にとっては前述したいずれにも当てはまらなかった。
ある日の午後。心地よいそよ風、鳥のさえずりを聞きながら町の離れにある大樹の木陰で横になる。見上げれば雲一つない青空が広がっている。つまり、この男は天気の良い日に昼寝をする。それこそが至福の時間だったのだ。
町の喧騒の中では味わうことの出来ない貴重な時間を、全身で感じていた時。
「ぶふぁ!」
突然、強烈な水圧を顔に感じた。ウトウトと夢の中に誘われつつあった意識が現実に引き戻される。それほどの衝撃だったのだ。コップ一杯の水をかけられたとか、そういうレベルではない。
黒を基調とし、うっすらと紅に染まる髪がびしょ濡れになっていた。
「お前は毎日飽きないな」
水滴を手で拭い、声のする方を見上げるとバケツを持った黒髪の女が立っていた。髪は肩にかかる程度で、風が吹くたびに綺麗な黒髪が太陽に当てられ、輝いているように見える。
彼女の腰には二本の刀が差さっており、一本は雪のように純白な鞘をしており、汚れ一つも見受けられない。もう一本は30cmほどの脇差であった。
「リン! お前、どういう神経してんだ!」
「こうでもしないとグレアは起きないからな」
グレアと呼ばれた男はゆっくり立ち上がり、彼の真紅の眼でリンを睨む。もっとも、睨まれている本人は威圧感など全く感じず、ルビーみたいで綺麗だ、程度にしか感じていなかった訳だが。
リンを一瞥したあと、髪から滴る水を振り払い木陰を離れようとした。誰がされても不機嫌になること間違いない行為だったが、リンはお構いなしに続ける。
「こんな良い天気の日に寝るなんてもったいない。さあ今日も私と元気に鍛錬だ!」
既に木陰を離れたグレアの後を追い手を掴むが、その手を鬱陶しそうに振りほどく。
「毎日そればっかりだな。俺じゃなくて他をあたれよ」
「ん? 刀忘れてるぞ」
木の幹に立てかけてあるグレア愛用のおよそ150cmはあるであろう大太刀。放置されているのに気付いたリンが手に取るが、その長さ故、彼女はずるずると引きずりながら歩み寄った。
「……引きずるな!」
二人が住む、このセリスの町は近辺を山に囲まれ、年中穏やかな気候に恵まれているだけでなく、樹齢1000年を越す大樹を擁している。この大樹は町の象徴として、太古の精霊が宿ると言われ、またその壮大な景観から観光客もそれなりに集めていた。
そのおかげで小さな町としては栄えていた。治安も決して悪くない。それ故に魔術などが普及しているとはいえ、1000年前の魔神戦争時代ならともかく、現代では護身以外で彼らのように武術の鍛錬をする必要性がほとんどないのである。本格的な戦闘術を習得しているとしたら、王国軍、傭兵、賊、または趣味の範囲にはなるが少数の市民だけである。
グレアとリンは幼い頃から一緒に育ってきたが、幼少期のある経験からリンの方が先に戦闘術にのめりこんだ。グレアは結果的に彼女に引きずられる形になった。
幼少期からの鍛錬により二人の才能は徐々に開花し、10歳の時点で町外れに出没する盗賊程度なら、難なく撃破出来るようになっていた。以降も二人は鍛錬、時に実戦を繰り返し、おそらく王国軍の騎士と比較しても互角に渡り合えるであろう実力を身につけていた。
「100歩譲って修行するのは構わねえ。バケツで水ぶっかけた事も、今更何言っても無駄だろうから何も言わねえ」
「なんだ、まだ怒ってたのか?」
やれやれ、といった表情でグレアを見つめるが、寝ている人間に水をかけて謝りもしない方がおかしいんじゃないかと思う。親しき仲にも礼儀ありというが、礼儀も常識もあったもんじゃない。
グレアに比較すればそれなりに教養もあるだろうに、こういうところはズレている。ただ遠慮がないだけか。
「……さっさと終わらせるからな」
「そう言いながらも毎回付き合ってくれるところ、嫌いじゃないぞ」
「そりゃ嬉しいね」
いつの頃からか、二人は鍛錬の時でさえ真剣を扱うようになっていた。もちろん当初は練習用の木刀だった。
しかし真剣を扱った方が、より実戦に近いんじゃないかと言い出したのはリンの方で、それから二人は木刀を握らなくなった。もちろん、多少のケガを負うこともある。そのリスクは承知の上だった。
「降参するか、気絶したらその時点で終わり、それでいいだろ」
グレアが抜刀すると同時に鞘を大地に落とす。眩いばかりに輝く刀身がその姿を現し、灼熱の太陽をその身に映している。
「雑だな。鞘、落とすのどうにかならないのか?」
「長すぎて腰に差さらんし、持って戦うのも邪魔だろ」
「もっと大事に扱った方がいいぞ」
そんなやり取りをしながら、二人を包み込むようにそびえる大樹の下で、鍛練が始まった。