Act.1 星
いつもの横顔が、今夜は少し違って見えた・・・。
「・・・こんなとこにこんなにキレイな場所があったんですね。」
言いながら、足下に散らばる色とりどりの星屑と、遥か彼方に広がる蒼く澄んだ星屑を見つめる女。俺は車に寄りかかりながら、その横顔を見ている。
「昔ね、学生の頃よく来てた。定番のデートコースだよ。」
夏の夜にしては冷たい風の吹く、そろそろ秋の訪れを感じる深夜1時。長びくレコ-ディングをうんざりしながら切り上げ、“帰る方向が同じだから乗せてってやるよ”と、当たり障りのない言葉で誘い出したこの丘の上で、俺は自分でもよくわからない感情を持て余していた。
最初に会った時のことは覚えていない。今年度の初めに事務所で会ったのが最初だったとこの女は言う。でも、新入社員の顔なんていちいち覚えてなんかいない。時間が経てばだんだん覚えていくもんだし、それじゃなくたって、事務所にいれば嫌でも会わざるをえないんだから。つまり、一度会ったくらいで新入社員の顔を覚えるはずがないのだ。
なのにその夜、俺たちは再び出会った。社員とアーティストという関係ではなく、飲み屋でたまたま近くに座った者同士として。もちろん俺は、隣に座る女が自分の事務所の新入社員だと思ってはいなかった。そして、何がきっかけだったのか分からないが何故かひとことふたこと会話を交わし・・・、2時間後には、同じベッドの中にいた。
俺は、ゆきずりの、朝が来ればなくなるはずの関係だと思っていた。なのにどういうことだろう。二日酔いの重たい体を引きずるようにして辿り着いた事務所のデスクに座っていたのは、昨夜、名前さえも知らないままに抱いた女だったのだから・・・。
「おはようございます。二日酔いは治りましたか?」
悪びれずにそう言って笑った女の顔を、俺は今でも忘れることができない。
「・・・・・うそ、でしょ? 」
俺としたことが、自分の事務所の社員を抱いた、なんて・・・。
俺は罪悪感に苛まれた。いくら酔った勢いだったからって、事務所の女はまずいだろう?それも新入社員だなんて・・・。まったく。俺はそんなに軽い男じゃない。
「あ。昨夜のことなら気にしないでください。別に何とも思ってませんから。」
他には誰もいない事務所の中、その女は分厚い書類の束を抱えてそう言った。ここ最近整理できていなかった山ほどの書類を整理することが最初の仕事なのだと、誇らしげに・・・、嬉しそうに言うその横顔を見て、俺はどれだけ社長に言ってこの女をどこか他の部署に配属してもらおうと思ったことか・・・。けど、自分の不注意でしでかしたことをこんなにも嬉しそうに働こうとしている人間になすりつけるなんてないよな、と、思い直し
「あのさ・・・俺、昨夜は・・・。」
言い訳しようとした自分が、もっとミジメだった。
「コーヒーか何かいれましょうか?それとも水がいいですか?」
なのに、女は本当に“何もなかった”ようにそう言ったのだ。
「・・・・・じゃ、水ちょうだい。」
今考えてみれば、最初に会った時から、この関係は始まっていたんだろう。
じゃないと、あの晩あの場所で、偶然に出会いはしなかった・・・。
俺には、誰かを好きになるということ自体・・・、いや、男と女というふたつの存在自体がよくわからない。女なんて、自分のこの体を満足させてくれる相手なら誰だって抱くことができる。そして、その自分の感覚が麻痺してるってこともよく知っている。こいつだってその中の一人なんだ。だから、俺たちふたりの関係を絶対に誰にも言う危険性がなく、カラダだけの関係にひとつの文句も言わないこの不思議な女との出会いは、俺にとって好都合だった。いちいち相手を捜さなくても、声をかければ黙って俺に抱かれる女。何の後腐れもなく、朝になれば仕事の顔をして、俺にコーヒーを入れる女。そんな女を、俺は何の罪悪感もなく抱き続けた。カラダだけと割り切って、他には何の感情も抱かなかった。
車に寄りかかったまま、ポケットから煙草を取り出し、火をつける。妙に晴れ渡った空に散らばる星と、深夜にもかかわらず明るい色を消さない街の光の中に、ライターの強い光がひときわ目立つ。
「レコ-ディング中なんだから、煙草はよしたほうがいいんじゃないですか?」
その光を察したのか、女は振り返って俺に言った。
「おまえはそんなこと気にしなくていいの。」
ただでさえレコーディングがうまく行かなくて苛々してるっていうのに、あそこじゃ自分の立場上、煙草も吸えない。やっと解放されたっていうのに、おまえにまで説教されたくない。こんなとこまで来て社員ヅラするのはやめてくれ。
「そ、ですか。」
女はそう言って、視線を元に戻す。・・・このものわかりの良さが、この女の使いやすとこである。“ものわかりがいい”。それは、イイ女の条件でもある。
俺は急に女の身体を感じたくなって、煙草をくわえたままその身体を後ろから抱きしめた。微かにレコーディングスタジオの煙草臭さが残る髪。その臭いが、こいつはうちの社員なんだって事を証明させる。
「ここじゃ嫌ですからね。」
手をのばして俺の口から煙草を奪い取り、女はそう言った。
「・・・なにが?」
そんなことわかってるくせに、俺はわざと女の耳元で囁いてみる。たかが“こんな関係”。理由がなくても、相手がどう思おうと、その身体を抱くことはできる。俺は女の細い指の中から煙草を奪い返し、もう片方の手を、女の大きく開いたシャツの胸元に滑りこませる。きれいに洗濯されてのりづけされた布の感触が、柔らかい、女の胸の確かな感触に変わる。
「やめてください。」
静かに言って、女は俺の手を自分の中から引き抜いた。
「今夜はそんな気分じゃないんです。」
こんなふうに行為を拒絶することは今まで一度もなかった。
俺が求めれば求めるだけ女はその身体を開き、俺が興味を示さなければ、女も俺を仕事の対象として見る。そんな関係だった。
なのに、今夜は違った。
「じゃ、なんでついて来たわけ?」
苛立ちを隠しながら煙草をふかす。まだ火はついていない。半分遊び、いや、気紛れで呼び起こそうとした俺の身体の奥が、ぷすぷすと燃え切れない感情をくすぶらせていた。たいした理由はない。この苛立ちを、この女の体に埋め込みたいだけだ。
「立場上断われなかったし、電車も、タクシー代もなかったからです。」
つまり不可抗力・・・、か。
俺を見ようともしなくなった女の後ろ姿を見つめ、俺はまた車に寄りかかった。
目の前に広がる街の灯りと星空を、女はその場に座り込んで眺めている。その背中は、早く俺から解放されて、自分の部屋の居心地の良いベッドで眠ることを願っているのだろうか。俺は、その女の細い肩から広がる背中の柔らかな曲線と鋭利にくびれる腰のカ-ブ、そしてその下の丸いふくらみを横目で見ながら、黙って煙草をふかし続ける。煙草を持つ右手の中に、まだ、女の柔らかい乳房の感覚が残っていた。
「どうしてここに私を連れて来たんですか?」
しばらくして、女がそう言った。その場から立ち上がり、足もとの草むらを右足でならしながら、さりげなく、そう聞いた。
「ただ女を抱きたいだけなら、こんなとこに連れて来なくてもよかったはずでしょ?」
“私を抱きたいだけなら”女はそうは言わなかった。そのニュアンスに、俺はこの女が自分との関係を割り切っているのだということに今更ながら気付く。そして何故か、その言葉にかすかな痛みを感じた・・・。
いや、そんなことがあるはずない。
俺は苛立ちながら煙草を爪先でもみ消し、その理由を、いつまでたっても進まないレコーディングのせいにしようとした。
「別に深い意味はないよ。ただ、夜景を見たくなっただけ。毎日毎日あの狭いブースの中にいると気が狂いそうになるからね。・・・・・気分転換。」
“抱きたい”。
そんな言葉が俺の中を満たし始めていた。
理由はわからない。
第一、そんなものに理由があるはずがない。
俺の言葉を聞いて、この涼しい風に吹かれながら髪をかきあげる女の物憂げな瞳を見ていると、この体中が、この女を征服してしまいたいと言い出すのだ。何の罪もない表情。こんなに汚れた関係なのに、一点のくもりも見せない純粋な瞳。
どうして、こんな存在でいられるんだ・・・・・?
「疲れてるんですよ。・・・帰りましょう?」
自分を見つめる俺の視線に気付かないまま、女はそう言って俺の右側にまわった。白い手首でドアを開け、するりと身体を車内に滑りこませる。
俺はしばらく冷たい空気を頬で楽しみ、肺の中の重い煙りをすべて洗い流すかのように新鮮なその空気を吸い込むと、同じく車に乗りこんだ。
「今夜は、星が綺麗ですね。」
外よりも湿った空気の中、窓の外を見ながら女はそう言った。俺はキーにかけようとしていた手を止め、その風景を眺める。俺の右に広がるすんなりとのびた足。顔のわりには大きめの胸。
・・・やっぱり、このままで帰したくはないと思う。
「疲れたら、綺麗なものが見たくなりますもんね。」
そう言って、女は俺を見ながら口許だけで笑った。
その唇に、何もつげずに口づける・・・。
なにも伝えなかった。
激しい口づけが、必要なわけじゃなかった。
ただ、この女の唇のぬくもりだけが必要で、欲も、情も、愛も・・・、関係なかった。
触れた部分から流れてくるその柔らかい感触と、温度だけが必要で・・・・・。
「・・・・・初めてですね。」
唇を離した後、女は猫のような上目使いで俺を見つめ、どこか嬉しそうにそう言った。
「普通にキスするの。」
俺はその言葉に少なからず狼狽し、その想いを隠すかのように、その視線から逃れるように、女の身体の向こうにあるレバーへと手を伸ばす。
俺ともあろうものが、何故かこいつのペースにまき込まれてそうになっている。こいつは、今夜は思うように自分の感情を掴めない俺の心を読み取っているのだろうか。それとも、今夜は特別に俺の心が弱っているのだろうか。
“いつもとは違うこの空気を否定すればいい。”
そう思って伸ばした俺の左手を女がやんわりと掴む。俺は非難でもって女の顔を見つめる。女はさっきとは全く違う瞳で俺を見ていた。その瞳が俺を困惑させ、そして悪戯に目覚めさせようとした俺のオトコの部分を眠らせる。
やさしい瞳。
心配そうな口許。
その口で・・・、女は目を伏せながら言うのだ。
「最近、レコ-ディングで煮詰まってるんですよね。だから私をここに連れて来たんでしょう?・・・辛いんなら・・・・・。」
そして、一度ゆっくりまばたきをすると鎮かに俺を見つめる。
「・・・それなら、私を使ってくれていいんですよ?」
言葉が・・・、みつからなかった。
この女はこう言っているのだ。
「疲れているんなら、この身体を使ってあなたの身体を癒して、慰めてください。」
左腕を握る女の体温を感じながら、俺は黙ってそのやさしい瞳を見つめた。“レコーディングで疲れているから”“煮詰まって苛々した感情をぶつけるところがどこにもないから”“慰めてくれるものが何もないから”。だから,自分の身体を使って癒せばいい。
「なに言ってんの。今日はそんな気分じゃないって自分が言ったんじゃない。」
そのまっすぐな、なんの他心もない瞳に耐えきれず、俺は自分の左手を強引にその手から奪い返すと、焦った気持ちでキーに手をかけた。そして同時に、俺の心の中から、こいつを抱きたいという欲望が消えていくのがわかった。
体の奥が冷めてゆく。
なのに何故か、胸の奥は羞恥心で赤く燃えていた・・・何のいわれもない、羞恥心。
「私の思いすごしならいいんです。・・・ただ、今夜は何だかすごく辛そうに見えたから・・・。」
「・・・・・え・・・?」
「こんなとこに私を連れて来たのも、人前で私を誘ったのも初めてだったから。」
普通のキスも・・・、それだけ、何かに苦しんでる証拠じゃないかと思ったから。
俺はエンジンをかけるのをまたしても中断され、上の空でその女の言葉について考えた。
そうだ。
どうかしてるのはやっぱり俺のほうなんだ。
この女の言う通り、レコーディングがうまく行かなくて苛々してるから女を抱きたい。それは当たっている。けど、久しぶりにここに来たのも、そしてこいつを人前で誘ったのも・・・、唇をあわせるだけのキスも、俺がやりたくてやったことで・・・、それは“こいつ”だからやったことで・・・?
「あんまり調子に乗らないでよ。別にお前じゃなくてもかわりはいくらでもいるんだから。」
いや、そうじゃない。やっぱり俺はレコ-ディングで疲れてるんだ。疲れ果てて、こんなにいつもと違う感情を持て余している。この女の瞳を怖がっている。この女のやさしさに甘えたくなっていいる。だからこんなことになった。
こんなに、憶病になった。
「そう・・・、ですよね。」
女ははにかみながら笑った。俺は無言でやっとキーに手を伸ばし、わざと派手な音を立ててエンジンをふかす。今夜のすべてを否定したかったから・・・。
どうしてこんな所にこいつを連れて来ようと思ったのだろう。どうして周りの目も気にしないでこいつを誘ったりしたんだろう。どうして思うように自分の感情を掴めないんだろう。たくさんの“どうして”が俺の胸にひしめいていた。けれどそのどれひとつにさえも答えを見つけきれずに、俺はその想いのまま車を走らせ始める。荒々しい運転に身を任せながら、女は小さくため息をついた。
そのため息の意味さえも考えずに、俺はひとつの決心をする。
早く帰ろう。
帰って、なにも考えずに泥のように眠ろう。そしたらきっと、この体の疲れも取れて、俺はもとの自分に返ることができる。この女の瞳に惑わされずにすむ。
今夜の星空は確かに綺麗だ。けれど、その空の美しい光がこの俺の心を惑わせた。この感情はなんなんだろう。このどうしようもない気持ちはなんなんだろう。わからないけれど、とにかく、今のこの気持ちを早く忘れたい。この気持ちにずっと触れていると、今まで築いてきた何かが崩れていきそうだ。今まで守ってきたなにかが・・・・・。
星空。
俺はお前の誘惑にはのらない。こいつを使って俺を狂わせようとしても無駄だ。
・・・・・そうだ。早く、帰ろう。
『once upon a time…』の“彼女”と“その彼”の話。
一度深く傷ついた人間は、そう簡単には、他人も、自分も、自分の気持ちさえも信じられない。
・・・でも、出会ってしまっていたなら・・・?
これから始まるお話たちのエピローグ。
2人の最初の、最初の話です。




