第三十九翼 悪玉の愛
「ヤナ…ギ…?」
白いカーペットに血がじわりと広がっていく。床に溜まった血の中に膝をついて右胸の辺りが血塗れの吸血鬼に寄り添った。顔は相変わらず無表情だが自分の返り血を浴びて更に妖怪染みている。身体は氷河の様に硬く…冷たい。こんな緊急事態の時でも全く表情が変化しないなんて…。呼吸は…何とかしているようだ。
「なっ…。」
汚れた衣服をゆっくりと脱がすと真っ赤だった右胸の辺りがパックリ無くなっていた。いつか私が少年の心臓をくり貫いた時の事を思い出す。正にアノ時の様に穴の向こうに真っ赤なカーペットが見える。出血がまだ止まらない。
「ちょっと!?あんた大丈夫なの?」
相手が人間であったならば全く馬鹿な質問をしている。そんな事を聞いている暇があったら直ぐにでも救急車を呼ぶべきであろう。しかし此処に不気味に倒れている物は人間なんて脆いモノではなくニンゲンの血を吸って命を奪う死神なのだ…最強の再生能力を持つ。
「…一体誰が…。」
返事が全く返って来ないところをみて多分私の声は聴こえていない。瞳をパッチリと見開いて口からは呼吸らしき音が確認できる以上、ヤナギが存在しているのは確かだが…。吸血鬼としての再生能力が全然働いていない。と言うよりも働かないように何か大きな力で抑えられているようだった。再生されない以上、このままだとヤナギが消えてしまうのだが…今の私にはどうすることも出来ない。
考えてみれば、目の前で知り合いが血塗れで倒れている場面で出会すのはこれで二度目だが、前回に比べて感情の起伏が思った以上に無かった。それは倒れている物体が既に死んでいるモノであるからなのか…それとも…。その解は私には分からない。
「とっ取り敢えず…。」
異様な程伸びきった犬歯で下唇を力一杯噛んだ。鈍痛と共に生暖かい感触が顎を伝う。その血を右親指に付け…。
「やっ…めと…けぇ…おじょ…ぅ。」
王室へ瞬間移動しようとすると血のついた手を何かに押さえ付けられてしまった。
「クロー…バー様…に、迷惑かけ…られねぇ…。」
私を支えに立ち上がろうとしたヤナギだったが中腰になったところでまた血の池に落ちていった。血飛沫が飛ぶ。
「何言ってるのよ!?ヤナギが大瀕死状態だってのにクローバー様だって迷惑だなんて…!!」
ヤナギは無表情のまま答えた。眼が確実に弱っている。
「クローバー…様が…迷惑だと…ぅう…。」
またヤナギは無言になった。…意識を失ったのか…?表情に変化が無いため状況も分からない。やっぱり、報告を…。
その時だ。廊下の奥から何かを感じた。嫌な何か。触れてはいけないもの。最初に吸血鬼に懐いた感情と似ている―。
それは急激に速度を上げて私たちに近づいている。そっと立ち上がり廊下の闇と向き合う…。まだ何も見えない。そもそもそれとの距離は掴めていない。それが何かも分からない。物か、者か、モノか…。
ぐっちゃり。
もし後からこの話を聞いてそれに効果音をつけるとしたらそんな感じ。なんとも言えない感触。正確には音など存在すらしていなかったわけだが。
五秒くらい時間が止まった。時間と言う概念は改めて曖昧なものなんだなぁと感じた瞬間だった。その時間を永遠と言ってしまえば永久にその時間は繋がっていたし、一瞬と思えばそれはまさにあっと言う間なのだろう。つまり時間を数えてはいなかったわけで、後々考えたら五秒間だったかな、ぐらいの考え方なので基準として想像して欲しい。
―私の全ては五秒くらいの間に奪われた。
次に気づいた時には私もヤナギと同じように地面に這いつくばっていた。右には真っ赤なカーペット、左には真っ広い廊下。
…あれ、身体の感覚が…ない。
眼球を下に向けるとそこには何も無かった。私は此処にいなかった。首から下の身体のパーツがいつの間にか無くなっていた。つまり今の私の身体はこの頭部しかない。しかし不思議と何も感じない。
痛みも、苦しみも、怒りも…。
これではゼアール軍の機械兵と何ら変わりはない。でもこんな身体では…無力だった。目の前には死人の様に真っ青な顔で仰向けになって眠るヤナギの姿があった。顔立ちの綺麗な吸血鬼は何も語らない。
「無様だな…コロナ?」
どこからか声がする。オスと言う部類の中では比較的高めの声だ。なぜその声を聴いただけで性別を判断できたのかと言えば直感であるが、それでもこの声の持ち主は間違いなくオスである。起伏の無い、感情の欠片すら感じられない冷酷な声だった。冷たい地を這う様などこか哀しい響き。
「コロナ…貴様が次期、ジョーカーか…。まだまだひよっこ…神と呼べる領域には達していないと見える。神以外の物を斬るのは我の人為に背く行いであるが、出る芽は早めに摘み取って措かなくてはならん…許せ、神よ。」
刃が鞘から抜き取られた音がする。しかし私はここでは消えない…そんな気持ちが心の奥にはあった。それは姿形すら分からない相手が眼中にすら入らない弱者であるからであるに違いない。
「消えて貰う…。」
剣が空間を斬るのと同時に鋼がぶつかり合う高い音が辺りに響く。
「…貴方程度の神殺に消されるほど私も甘くないわ。」
神殺は瞬時に私と間をとった。相手はどうみても只の子供にしか見えない。中性的な顔で性別を判断できないが右手には似合わない不気味に染まった大剣が一本。
「吸血鬼の再生力を嘗めてもらっちゃあ困るね…。」
聞くと子供はきりりと歯をくいしばって苦い顔をした。しかし直ぐに口角を上げる。
「…これはラッキーだ…。こんなに隙だらけの特級なんて珍しい。これはポイント高くつく…なっ!!!」
既に神殺は胸元に剣を突き刺していた。ズキリと鈍い痛みが身を襲う。だが直ぐに痛みは退き血は一滴も流れない。
「…やっぱり特級は違うねぇ…。」
神殺は無邪気に笑う。
「…。」
神殺の直ぐ横の壁が突然爆発した。余りに突然だったので神殺も一瞬隙を見せた様に見えた。その隙を見逃さず奇襲を掛ける。しかし見事に避けられた。私の頭上を軽い身のこなしで飛んで私の真後ろに着地。
「そして、その有り余る力すら制御できない…。特級が笑わせんなよ?」
振り向いたときには遅かった。鉛の弾が私の眉間を抜ける。全思考が止まった。
「ガッ…。」
それは私に痛みすら感じさせなかった。身体中の力が抜け直ぐその場に崩れ落ち、指一本動かす事が出来ない。それが分かると神殺はその間を徐々に縮めてきた。
「…凄いな。予想以上の働きだ…。これなら仕事効率も倍以上…ラッキー。」
私の首元にそっと刃が添えられた。丁度膝で体を支えているため目線に子供の眼がある。黒く濁った瞳。やはりこの子供は普通じゃない。
「これで我も…。」
―眼下に血飛沫が飛んだ。まるで噴水のように首から止めどなく吹き出てくる。既に子供の首はない。噴水の先に立つのは、美しき死神。片手にはギラリと剣、もう片方には子供の生首を。
急にその小さな生首は独りでにケタケタと笑いだした。
「クローバーか…そりゃあ気づかんわ。とうとう我も死神に死を奪われた様だな。」
ふんと鼻で笑うクローバー。
「貴様…ギロク…だな。」
「よくご存じで。クローバーさんに名を記憶して貰えるなんて光栄だよ…くくっ…。」
クローバーは生首を宙に投げると片方に握られた剣で眉間を一突きにした。生首はケケケ…と掠れた声で笑いながら黒い煙となって消えていった。
「大丈夫かの…我が娘よ。」
クローバーは剣を鞘にしまって話し掛けてきた。顔は笑顔だか眼が死んだ魚の様に冷たい。
「…何回か死にましたがなんとか。」
いつの間にかヤナギは傷ひとつない身体に戻ってその場に倒れていた。
「一ツ星級の神殺じゃの。」
身体が動くことに気づき立ち上がった。首のない身体が異様な雰囲気を醸し出している。
「一ツ星…。」
「神殺のレベルじゃ。一ツ星はそれなりのレベルだが、妾からしてみれば弱者の部類じゃの。」
「あの力で…。」
「ちょいと面倒臭いことになっての…先に部屋に戻っておれ。」
クローバーは私に背を向けた。このドレスは大胆に背中が開いている。アザのない美しき神。
「…何が起こったんです?」
クローバーは何か考えて少し黙ってから口を開いた。
「…神殺がの…。」
「神殺が…何です?」
急に辺りに不穏な空気が流れ出した。
「グミ…浄化されんかったのか…。」
クローバーの声が僅かだが初めて震えていた。悪寒が止まらない。
「まぁな…。あんなじじいに俺様が消されるとでも思ってたのかよ?」
瞬間移動しようとしても外部に意思が飛ばない。なんだこの強力な力は…。
「やはり、貴様の狙いは…。」
ぶしゃっ。
クローバーは突然、全身から血を吹き出して姿を消してしまった。代わりに立っていたのは真っ赤な髪の冴えない顔の男…の様に見える物体。
「クローバー=ジョーカー=コロナ=ラヴマーク=ユース=シスシティ…あんたを貰いに来た。」