第三十六翼 悪鬼の愛
私はまた殺人鬼になった。
私はまたヒトを殺した。
見ず知らずのじんせいを一つ終わらせた。
確かにこの手で、心臓を抉った。
この長い牙を首筋にぶすりと刺し、
この口で全身の血を吸い上げ、
この爪で全身を引き裂き、
命を奪った。
あぁ…なんて快感なのだろう―。
口から滴る鮮血を腕で拭く。全身が燃えたぎるように熱い。私の吸血鬼としての、死神としての、血が、燃えている。その血が伝えてくる…これは一人目ではないと。お前は既にニンゲンの血を吸っている、人間の頃から確かに―。生まれながらの殺人鬼。
折角の真っ白なウェディングドレスが真っ赤に染まった…快感。もっとニンゲンの血を咽が欲している。何処かにニンゲンは?血の気の良い、殺しがいのある奴はいねーか…?
血を…チを…ちを…我に…ワレに…。
ずぶり。
その感覚が全身を支配する。
この世の快感、全てがここに集結したかのように。一気に血を吸い上げる。ニンゲンの小さく短い苦痛の悲鳴。もう虫の羽音より弱々しい。その声が私を興奮させる。
頬が紅潮し、目が見開かれる。また全身の血が燃えたぎる様に熱くなる。生暖かいニンゲンの鮮血が咽頭を塗らした。しかしそれも一瞬のこと。ニンゲンの小さな身体はみるみる収縮していく…もう血も残ってないか…。け、少ねぇよ。くそぉぉおお!!!!!!
牙を首筋から抜き出す。立派な歯形だよぉ…?
殺意剥き出しもーど。
収縮させていた爪を全開にし血の気の失せた真っ白な肌を切り裂く。血を完全に抜いたとは言え、残血が少し残ってるか…。爪に下種のが付いちまった…その血を吸ってんのが私様だけどなぁ…。
いくつかの肉片と化したニンゲン。これじゃあそこらの人間様の喰われる豚や牛とかわんねーな。一際大きな肉片から心臓を引き出し大口でペロリと食べる。一切噛まず、その大きさのまま咽に送る。うめぇ…。
おい…そこで一人泣いている、お嬢さん?大人しくしてりゃあ、痛みは一瞬だけだからよ…。なぁ?泣いてちゃあ何ほざいてんのかワカンねぇよ。あんん?
―あの人を返せ?
死ね。
爪を全開に、女の細い首に向かって振りかぶる。すぱんと、綺麗に切れ口通りに斬れた。ポーンと首が飛んでその後を追うように鮮血がぶっ飛んだ。あぁ…私様としたことが感情で殺しちまった。折角の血が…切れ口からドクドクと流れていく。綺麗な御召し物が台無しだ。これこそニンゲンの生け作りだなぁ?
頭を無くした身体は首から血を流したままその場に倒れた。ニンゲンの形をしてはいるものの頭がなきゃあ、誰かも判断できねぇな。今の私様にはニンゲン個人は出来ねぇが…。
もう、辺りにニンゲンはいねーな…。私様の脚力を使えばさっきのニンゲン達は一人残らず駆逐出来るが…。
…もう、いいか…。血は十分…とは言えねーが、そろそろ本人格が戻ってくる…今のうちにやっとけんのは…。
首なしの女をバラバラに引き裂き、心臓を抉って喰った。まだ心臓に血が残ってのか、口内で血が溢れてきた。咽を潤し、心臓を牙でぐちゃぐちゃにして血と一緒に飲み込む。やっぱ、うめぇ…。
…さて、本人格がこれ見たらどう思うかねぇ…。まさか自分が殺ったとは…思うな。この真っ赤に染まったドレス見ちまったらなぁ…。一応、変身しとくか…。
…いや、そんな義理ねぇな。めんどくせぇ。ショック過ぎて自殺でもすっかな。まぁ普通の殺し方じゃあ死にもしねぇが。私様との融合もそう遠い話じゃなさそうだ…。
ちょいとばかし、現実を観てもらおうか…本人格様よ?
と言うわけで、私はヒトをまたしても殺してしまったのだった。別にそんなにショックは受けなかった。薄々は気づいていたのだ。
初めてヤナギと会った時、私のドレスに鮮血が付いていた。あれは私が吸血した証拠だった…。でも今日のドレスはあの時に増して真っ赤だ。それに口回りの滴る血…。目の前の肉片とも呼べるか際どい血で真っ赤な物体。多分、いや確かに人間の物だ。
向こうの消えそうな街灯に照らされているのはその身体の頭かな…。この身体の持ち主はどんな事を考えて私に吸血されたのだろうか。どんな人を愛していたのだろうか。どんな風に死んでいったのだろうか。
そこには大量の血跡、無惨にバラバラにされた元ニンゲンらしき肉片達を目の前にして冷静に自己分析している自分がいた。もう、この程度の物には同情すらしなくなった。その目は命を視ているものではなくなり、捨て犬を視るようだ。宿り主をなくした道具としか見れなくなった。持ち主を無くした、存在意義を無くした道具はガラクタに過ぎない。
…いや、この小腹くらいは満たしてくれるか。
まるでそうする事が当然のように私の真っ赤な腕は肉片に手を伸ばして、それを掴んで口に運んだ。…この微かに残る暖かさがこの食材が新鮮で有ることを伝えている。そのまま全ての肉片を喰らった。勿論、頭部も丸飲みだ。味が全く無く、これでは栄養バランスがしんぱいになってしまう。ニンゲンの頭を喉に通して空を見上げた。よく考えたら此処はどこだ?この街灯の形…。何処かで見たことがある…。そうだ…ここは少し前に佑助と一緒に来た遊園地だ。特徴的なウサギの形をした街灯のため記憶していた。つまり、街灯が点いてることから分かる通り辺りは真っ暗で疑似夜空が綺麗な星を写し出している。しかし…GCは今、ゼアールの奇襲で壊滅状態…遊園地も運営出来るような状況ではないはずなのだ…。なのになぜ、こんなにヒトがいたんだ。此処だけシステムが回復したのか…?そな事、どうでも良いか…私は私のしたいようにヒトを喰らうだけ。
涙は先程泣きすぎたからか、一滴も流れない。辺りに散らばった血跡と自分の真っ赤な怪しい光沢を見せる腕を交互に見比べていた。血が…掌を伝い真っ白なドレスを染めていく―。
不思議だ…この感覚…。
哀しみも、暗やみも、寂しさもない…ベッドの上で懐いていた感情はもう何処かにいってしまった。どこかに…この広く暗い心の奥底に、この紅に染まる掌を見て喜を感じている私が居るのか。
血を欲している。
目の前の見るも無惨な肉片達の跡の事など端から頭になかった。どうやって次の血を得るか。どうやって次の人間の命を奪うか。この近くにニンゲンはいないのか―。
身体が、血が…疼いている。
止まらない心臓の鼓動―。
吸血鬼にも心臓らしき内蔵は有るらしい。その鼓動が多数のニンゲンから吸い上げたであろう血を全身に送る。すると全身の筋肉が痙攣しだした。まるで何か起こってはいけないような事が起きる、嵐の前の―。
真っ赤になったドレスをじっと見つめていた視界が赤く、紅く、朱く、染まっていく。
恐怖―この時、初めて怖さを覚えた。吸血鬼の由縁か初めて会った、ヤナギやクローバーさんに一切の恐怖を感じなかった私であったがそれでも視界が徐々に血で染まっていくのは底知れぬ恐怖を植え付けた。狭くなった視界で辺りをグルッと視てみると周りも同じように真っ暗な空が真っ赤になっていた。
私の…キオクが血に流されていく…唯一無二の岩島舞が愛して病まなかった、人との思い出…別れ…の場所。
「ぐぁあああぁぁあぁあああ!!!!!!」
ついに視界全てが血に支配されてしまった。世界が真っ赤だ。赤シートの世界。全てが血に染まっている。死ぬ、私が―岩島舞が―吸血鬼に殺される。完全に、私は…吸血鬼になってしまう…。消えていく…ニンゲンの頃のキオク…。愛する人が、愛された場所が、愛した私が…。真っ黒に。
コンクリートの地面も血に染められ、地面からこれまた真っ赤な龍の様な化け物がにょきにょきと無数に生えてきた。まるで化け物の畑…。畑は地平線の向こうまで続いている。その真っ赤で貪欲な目は無限に私を、吸血鬼を睨む。
化け物達は私に向かって真っ白な牙をギラリと光らせ襲ってきた。私は指一本動かせない。まただ…また動けない。化け物は私に噛みつき離れない。無数の龍が私の全身に噛みついた。痛みは無いが、キオクが消える速度が上がったように思う。こいつらは私のキオクを吸っている…。既に人生の半分を失った。私が何処から生まれたのか、誰と誰の間に産まれたのか、私の…名前は…いわじま…。
視界で真っ赤な物体が互いを傷付け合うように動いている。正に化け物が全身を覆っているのだ。抵抗しようにも、動けない。やっぱり常に私は無力だ。
その時だった。急に視界が明るくなり、目の前の化け物達は水が蒸発するように紅い蒸気を上げながら私から消えていった。いつの間にか視界も元に戻っていて、世界は変わらずコンクリートにニンゲンの血跡が残ったまま動いてなかった。何も変化がない。あるとしたら視界が開けたときその視線上に立っていた見るからに神々しい、剣を片手に握った男が居ることくらいだ。微動だとしない。
「殺しにきたぞ…舞。」
その少年はかつて愛した男―。名を…。
「待っていた…佑助。」
私はゆっくりと噛み締めるように口にした。
「本当の別れ…だな。」
男はふっと口角を小さく上げた。
「私は…吸血鬼…。」
男は私の視界には居なかった。既に私の50cm前で剣を振りかぶっている。真っ黒な瞳に迷いはなく、剣にはしっかりと力が籠められ小刻みに揺れている。狙いは首だ。
「ヒトを…喰らう者。」
ぶすり。
私の長く伸びた爪が男の胸部を貫いた。