後編
そのデートから数日後、ある異変が起きた。
かぐや嬢のメールの返信頻度が、突如急激に下がったのである。
なぜだ。一体何が起きたというのだ。二週間ほど経ってから、私は突然あせり始めた。
私は過去の行動を顧みる。何か不快な発言をしただろうか。もしくは、呆れられたとか。私はそこまで顔がいいほうでもないし、かぐや嬢のような美少女と確かに不釣合いではあると常々思っていたが、彼女がそんなことで人を判断するとは思えない。……いや、これはただの私の願望だ。かぐや嬢だって、かっこいい男のほうがいいに決まっている。だが、しかし、ううむ。他の方面からも考えてみよう。例えば、私が会いたい会いたいとしつこかったのがいけなかったのかもしれない。デート中、いやらしい目を向けていなかっただろうか。他に好きな人ができた、などというのは最悪のパターンである。
返信が来ていないのに、新たにメールを打つのは気が引ける行動である。しかし三日も四日も返ってこないのではこちらから動かざるを得ない。ところがそのメールにも反応がないとなれば、もう目も当てられない。たまに返ってきて私は即座に飛びつくのだが、長くは続かずすぐに途切れてしまう。
一ヶ月以上そんな日々が続き、私はかなり滅入っていた。私は、一体どうすればよいのだ。
「ちゃんとその理由を聞いてみるしかないだろ」
藤村の意見に肩を借りるのは甚だ癪に触ることだが、他に切れるカードも持ち合わせていない。帰宅してから、私はここ最近のつれなさについて、できる限り棘なく、軽い調子で尋ねる文面をメールとしてしたためた。送信ボタンを押す。押してから不安、焦り、後悔、その他諸々の負の感情が私の血管を駆けずり回った。ベッドに身体を投げ出してから、気だるさに抱かれるも、不思議と眠気は全くやってこなかった。
返事が来たのは、その二時間後だった。私は跳ね上がった。
『ごめんなさい! 部活最後の大会がもうすぐあって、
疲れちゃってなかなか返信できなかったの!
それで、えっと、
会うのはたぶん、無理です。
お互い受験生だし、そんな余裕ないと思うの。ごめんね?』
突如、目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。同時に、首根っこを引っ張られ、ベッドに倒れる。違う。全身から力が抜けたのだ。そのことに気づくまでに、時計の秒針は二周もしていた。
「は、はは。終わった」
受験が終わるまで、あとおよそ十ヶ月。もし彼女が私にささやかなりとも好意を寄せてくれていたならば、こんな提案はされないはずだ。全く、これっぽっちも、私は何も想われていない。あの二回のデートは、単に天使の気まぐれだったのだ。
私にできることはなかったのか。もっと積極的に私の気持ちを押し出していけば、かぐや嬢もその気になってくれたのではないだろうか。今からできることはないのか。取り戻せないのか。私の青春は、こんなちゃちなメールの着信音で終わりを告げられてしまったのか。駄目だ。何をしてもうまくいかない気がする。いや、確信じみたものがある。私は何をやっても上手くいかない星の下に生まれてきたのだ。他人が今の私を見れば、そんな感情はまやかし、ただの幻想、愚かな被害妄想と受け取るかもしれない。くそ、馬鹿なやつらめ。せいぜい私を嘲るがよい。誰も私を理解してなどくれないのだ。世界で一番孤独なる者、それが私である。もう諦めろ。恋だけではない。青春そのものでもない。人生を、放棄してしまうのがよかろう。この暗い深淵から脱出する方法は、それ以外にない。
ああ、ウェルテルよ。状況はかなり異なるとも、今の私ほどお前を理解してやる者はいない。ゲーテよりも、今の私はお前に近いのだ。選択権というものは、我々は持ち合わせていない。女性に振り回される憐れなピエロ。そうだ、いつかお前が語った自殺の善し悪しを、当時の私は鼻で笑ったものだった。しかしウェルテル、私は愚者であったのだ。お前の論は、ピタゴラスの定理よりもなお美しく歴としたものであったよ。
これだけ深い谷底へ突き落とされながらも、私が頭を弾丸で撃ち抜かなかったのは、手元にピストルがなかったからではなく、ひとえに友人、藤村からの電話が来たからに他ならなかった。
「どうだった?」
私は軽く携帯電話を握りつぶしたくなった。しかし、それはただの八つ当たりである。私はありのままの状況と、私の心境を語った。藤村は基本的に相槌を打つのみであったが、それが私にとってどれほどありがたいものだったことか! ウェルテルにとってウィルヘルムが、いかに大切な人物であるか。彼がいなければ、ウェルテルはもっと早くに壊れてしまっていたに違いない。
いくらか話して楽になったことを伝えると、じゃあ今日は早めに寝ろと返ってきた。藤村にしては悪くない提案である。私はその言葉に従い、制服のまま、まどろみの中へ沈み込んだ。
「カラオケにでも行こうぜ。おごってやるよ」
放課後肩を叩かれ、振り向いた私への藤村が寄越した開口第一声である。
私は度肝を抜かれた。藤村の口から「おごる」などという動詞が飛び出したことは、過去の長い付き合いでも、一度としてなかった。私を気遣ってくれているのはわかるが、どうしてここまで積極的なのだろうか。さすがに不審に思い、私は尋ねた。
「いや、お前に今回の提案したの俺じゃん。やっぱ罪悪感っていうかさ。こうなるんなら紹介しなかったほうがよかったのかなー、なんてさ」
危うく私は藤村に惚れかけた。いつから藤村はこんな責任感のある男になったのか。彼女か。やはり恋人ができたからか。女は男を変えるというが、それがよい方に働くとは珍しい。それだけ藤村の彼女である梨奈嬢が優れた人物だという証明であろう。藤村、絶対幸せにしてやれよ。梨奈さん、不束者ですが、こいつのことどうかよろしくお願いします。
結局私は藤村の言に甘えることにした。帰宅せずそのままカラオケボックスに入り、私は叫ぶように歌った。何をかといえば、アニソンである。二千年代初頭の懐かしいアニメソングを、私は大熱唱した。あまりに熱くなりすぎたので、防音の壁が溶けてしまったかもしれない。少なくとも私の凍てついた心は、だんだんと熱を取り戻していった。私は藤村に感謝の言葉を述べようと思った。しかし、何も思いつかない。淡々と読書のみを積み重ねてきたというのに、どうして私はこうも語彙力に欠けているのだろう。間奏中に藤村をちらりと見やる。藤村は笑った。私も笑みを返した。たぶん、私たちにはこれで十分なのだろう。
夕暮れ時に、私達はカラオケボックスを後にした。気分が軽くなったおかげで、私は今日がとある人気小説の文庫落ちの日であることを思い出した。なかなか縁がない作家であったが、この機会に手を伸ばしてみようと思い、私は藤村とともに駅前の書店へと赴いた。目当ての本はすぐに見つかり、私は早速購入した。
「今日は付き合ってくれてありがとう。おかげでいろいろすっきりしたよ。さあ、帰ろうではないか」
「お、おう。そうだな」
「どうした?」
「いや、なんでもない」
額に嫌な汗を浮かべながら、藤村はなぜかぎこちない笑みを形作った。そして私が本屋の出口へ向かおうとすると、「ちょっとぐるっと回っていこうぜ」などと言う。一体どうしたのだ? 私は訝しく感じ、その背後をなんとかして見ようと努力する。
「お、あんなところに梨奈さんが」
「え? マジ? どこどこ!」
もちろん虚言である。数少ない親友を騙すことに若干の心の痛みを私は覚えるかと思ったがそうでもなかった。所詮藤村との間柄などその程度である。
しかし、とにもかくにも私は愚か者だった。
藤村の気遣いも蔑ろにし、ああ、その上このような場面を目の当たりにしてしまうとは。ピエロでもこんな愚行はするまい。なぜかくも、かくも厳しい現実を、神は我が眼に焼き付けるのか。
私の視界の奥には、幸せそうに寄り添い歩く、かぐや嬢と、見知らぬ長身の男――。
藤村に手を引かれるままに、私は書店を抜けた。
家に帰ってから、私は激怒していた。メロスの比ではない。私の怒りが具現化すれば、アトランティス大陸は海に沈み、ショゴスすら蒸発させ、恐怖の大魔王をも屈服させるだろう。
ふざけおってからに、ふざけおってからに! 私は枕を壁にぶん投げた。『受験生だし』などと言っておきながら、自分はイケメンとデートとは! 驚き呆れて開いた口が塞がらぬわ! ちょっとばかし可愛いからって調子に乗りおって! 何をやっても許されるなどと思っているのかあの小娘は!? 所詮男は顔か!? ええ!? 身長ですか!? どうなのだ!
はっきりと答えるがよい!
「間違ってる、こんな世の中。狂っているのだ、この世界は」
私はぶつぶつとぼやきながら、携帯電話の数字キーを連弾した。豪雨よりも絶え間なく文字をつづる。脅迫にも近い、呼び出しのメールである。
鬼気迫る文面にかぐや嬢は即座に返信を寄越した。会えない、という主旨のメールである。私はしつこく食い下がった。もう好意などは関係ないのである。ただ、私は怒りをぶつけたいだけなのである。この私の純粋かつ誠実かつ真摯かつ慈愛に満ち満ちた心を裏切りおって! すぐにとっちめて高瀬舟に乗せてやる!
ついにかぐや嬢を籠絡し、次の土曜日の午後に待ち合わせることとなった。
土曜日になっても、この私の怒りは収まるはずもない。待ち合わせ場所へ電車で向かう途中、今にも爆発しそうな怒りのエネルギーを私は吊り革を引きちぎることで発散しようとしたが、思いのほか吊り革は丈夫だったのですぐに諦めた。
待ち合わせ場所に、すでにかぐや嬢は着いていた。彼女は少しむっとした表情で口を開いた。
「あんまり会わないようにって言ったよね? お互い受験生だし、今が一番大切な時期でしょ?」
とがった唇は艶がよく、しかし私からしてみればファム・ファタールに他ならない。彼女が猫の皮を何千と被った妖怪であることを、私はとっくに見抜いているのだ。私は彼女の言及に謝罪することなく、ひたすらに先日のことを糾弾した。
「受験で忙しいなどと言っておきながら、自分はイケメンとデートとは。俺もなめられたものだな」
「え?」
「俺は見たのだ。先週、きみが駅前の書店を男と一緒に歩いているところを。よりにもよって、俺に『もう会えない』だなどとメールを送った次の日に!」
私の純情を蟻のように踏み潰しおってからに! 私は溜め込んだ激情をかぐや嬢にひたすらぶつける。呆気にとられているその顔面に、私の言葉の右ストレートをひたすら見舞ってやる。私の布団が濡れたのは、寝汗のためばかりではない! 虎となり、私は叫んだ。
もはや自分でも何を言ったか覚えていない。何かを言ったのかも定かではない。感情の奔流に身を任せた鋭い枝となり、私は滝つぼへと突き進んだ。
「あんまりでは、あるまいか」
最後の最後に私の口から出た言葉は、自分にしても情けないものであった。大きく肩を揺らし、肺の中に酸素を取り込む。
「あの」
かぐや嬢は上目遣いを私にする。なんだ。何か言いたいことがあるのか。この期に及んで言い訳でもするのか。いいだろう! それを聞いた上で、さらに完膚なきまでに貴様の腐った精神を蹂躙し尽くしてくれるわ!
「それ、お兄ちゃん、私の」
ついに自らの罪状を認めたかこの小娘が! お兄ちゃんとなら一緒にデートしても私が許すとでも……ん?
「……はい?」
「去年東大に合格したお兄ちゃんが用事で帰ってきたから、参考書を選んでもらってたの」
私のあごは外れた。慌てて元に戻す。
「マジ?」
「うん、マジ」
かぐや嬢は相好を崩した。まるで先ほどの罵詈雑言が聞こえていなかったかのように笑う。もちろん彼女の耳に届いていなかったはずもない。
「こんなに嫉妬されるなんて、なんだか照れるなぁ、えへへ」
ただ、私が積み上げた言葉達を、私とは違う角度から見ただけだった。
落ち着け。落ち着け私よ。言い聞かせるも、嫌な汗は吹き出るし、目の焦点も合わない。ジェットコースターに乗っている気分だ。
「でも、あんな力強いメール送られちゃったから、ちょっと怖かったんだよ? 大学まで、まだちょっと遠いけど、一緒に合格しよって言ったのに」
「え、ええと、これはその、なんと申し上げればよいのやら」
動揺する私の首に、かぐや嬢の両腕が回される。私は驚き咄嗟に目を閉じた。ぐいっと引っ張られる感覚の後、私の額に何か柔らかく湿っぽいものが押し当てられた。そう、例えて言うならば、唇、の感触。目は以前閉じたままなので、実際のところは不明である。
永遠にも似た刹那が通り過ぎた後、かぐや嬢は私から離れた。私が目を開けると、彼女は頬を目一杯染め上げながらも、甘い甘い蕩けそうな笑顔をその小ぶりで愛らしい顔に咲かせる。私は言った。
「わ、ワンモア」
「だーめ。次は大学合格してからね」
こうして私の青春的高校生活は終わりを告げ、受験戦争の嵐の中へ身をやつすこととなった。しかしいたし方あるまい。
全ては彼女と一緒に、薔薇色のキャンパスライフを満喫するためなのだから。
「かぐや嬢、いとらうたし」
楽しんでいただけたならば幸いです。それがなによりの活力になります。お付き合いいただきありがとうございました!