前編
高校三年、四月。
私は気づいた。
青春は、歩いてこないのである。
愚か者であるところの私は、およそ青年期というものに至れば多少の時期と事象の差はあれ、誰しも青春的催しに心躍らせ一喜一憂し、遠い未来に過去を振り返った時にはその輝かしい思い出に目を細めざるをえなくなるものだと思い込んでいた。
現状を振り返る。そして、私は絶望する。
果たしてこれほどまでに華のない高校生活を送っている学生が現代日本に何人いるだろうか。何の委員会にも所属せず、部活に明け暮れるでも、またバイトをするでもなく、狭い交友関係に異性の香りは微塵もない。ボランティアどころか学校行事に対してでさえ、私は一貫して無関心であった。特に理由があったかと問われるとこれといったものはなく、ただ徒然なるままに日を暮らしていただけである。私が高校生活で打ち立てた唯一の事業といえば、図書室の年間貸し出し冊数校内一位ということぐらいであろうか。本と、今目の前にいる藤村だけが、私の数少ない親友である。どうか神よ、こんな男なんかより、美少女を私に与えておくれ。
「ひがんでるなぁ」
「うるさい、俺の知らぬ間に彼女など作りおってからに」
私はメロスのごとく憤怒した。彼女持たず女友達作らずのろけ話持ち込ませずの非モテ三原則を打ち立てた頃の藤村はどこへ行ったのだろうか。二人でこの暗くむさ苦しい洞窟で篭城しようと決めたではないか。眉根を寄せ、私は藤村を睨む。
いや、違う。私は藤村を恨むことはできない。私達はただ青春の仕方というものがわかっていないに過ぎなかったのだ。藤村はどういう経緯があったのかその方法を知り、私は未だそれを知るに及んでいないというだけなのである。そもそも冷静になってみると、非モテ三原則など掲げた覚えがなかった。
「まぁいい。藤村、お前の俺に対する狼藉は許してやる。許してやるから、俺に女子を紹介しろ」
「えらく上から目線でものを言うな」
「この私めに女の子をご紹介くださいませ」
「お前にプライドはないのか!」
自分から文句をつけておいて、こいつは何を言っているのだ。
「つーか、俺に紹介できる女の子なんているわけないだろ?」
急に尤もなことを言う。確かに、つい先月までは私と同じく青春とは縁なき道を蒸気機関車よろしく突っ走っていた藤村である。私に紹介する女がいるほど、藤村の交友関係は広くない。こいつに恋人ができたのは、真に奇跡なのである。
それにしても、私は惨めである。何が楽しくて男二人の放課後の教室でひがんでいるのだろうか。むなしい。この空虚な心持を和歌にする才能があれば、同じような境遇の男子を虜にすることもできるだろう。それはもう、間違いなく。ただ問題は、男に好かれても何のメリットもないということである。
「けど、そういや梨奈が彼氏募集中の女友達がいるようなことを言っていたような」
私の目に希望の星が輝く。ちなみに梨奈というのは、この藤村の彼女である。一度会ったことがあるが、藤村にはもったいない清楚な乙女であった。一体この男のどこに恋人となる価値を見出したのか、私は甚だ疑問でならない。くそ、私では駄目なのか。と、今はそんなことを思っている場合ではない。
「もしお前の話が真実であるならば、お前は梨奈さんに俺のメアドを伝えるように申し上げる義務がある。早急に、かつ迅速に、だ」
藤村は苦笑し、必死だなぁと呟いたが、あいにく私に死ぬ気はない。生きて、青春という薔薇を手中に収めねばならぬ。たとえその棘によって我が身が傷つくことになろうとも。
「ま、伝えるくらいはしてやるよ。そんじゃ、俺は帰るぜ」
藤村は鞄をひょいと担ぎ上げると、私を置いて教室を出て行った。教室には、そして誰もいなくなった。
名前も知らぬ古代ギリシアの恋の神よ。私はあなたに感謝せねばなるまい。
とある日曜日の午後。駅前の噴水で、私は心中そっと涙を零す。無論、悲しみのためではない。
いい加減な藤村のことだから、私はあまり彼氏募集中なる女子との会合を期待してはいなかった。嘘である。実際ものすごく期待していたが、やっぱり駄目だったなどと言われてはこの身がバベルの塔と同じ末路をたどってしまうので、期待しないように努めていたのである。
しかし意外や意外、話はとんとん拍子に進み、梨奈嬢を通じてメアド交換、幾度かのメールの後に今回のデートが決定した。日本では、十七条の憲法然り御成敗式目然り十七という数字に力があるとされている。陰だか陽だかが理由であるはずだが今ひとつ覚えていないのは私が世界史選択者だからであろう。私は私の歳が十七であることに感謝した。同時に日本に生まれたことを感謝した。例えばイタリアなら、十七は忌み数である。ここまであっさりとデートにたどりつくことはできなかった。十七、日本、素晴らしい。
さて、話を戻すと、目の前の彼女――かぐや嬢は、なるほど金色の竹から生まれでもしない限り、ここまで整った顔だちにはならないだろうというほど、この上なく可愛らしい黒髪の乙女であった。背後の噴水に飛び込めば、誰もが泉の妖精と見まごうことだろう。精巧に作られた日本人形からあの独特の不気味さをスポイトで取り除けば、彼女の美しさの片鱗を表現できるかもしれない。私がラファエロを抱えていれば、たとえこのかぐや嬢と接点がなくとも千万枚の絵を描かせていたに違いない。尾崎紅葉なら、一体彼女をどのように描写しただろうか。私には到底想像できない。
つまりだ。
超絶美少女だったのだ、かぐや嬢は。陳腐な表現で申し訳ない。
「あ、あの」
対面以来呆けてしまっていた私にかぐや嬢が声をかける。凛とした、しかしそれでいて温かみのあるその音色に私ははっとして意識を取り戻した。直接の自己紹介もまだであった。私はまず名乗り、それから、
「かぐや……ちゃんでよろしかっただろうか」
「はい」
かぐや嬢は微笑んだ。ああ、天使がいる。私は大いなる天から祝福を授かっている。神はきっと、我が善行をしっかりと見ていたのであろう。私は彼女を幸福に導いてみせよう。そしてともに過ごしていこう。そう誓える。ああ、神よ。
いかんいかん。またしても意識が旅行に出かけてしまうところだった。
「とりあえず歩こうか」
噴水の前で彼女がいかに映えるかについてはもはや説明は不要と思われるが、なればこそ他の場所でのかぐや嬢の姿も見てみたいと思うのが自然の理であろう。かぐや嬢の了承を得、私達は雑踏の中へと歩き出していった。
できるだけ冷静に、取り乱したりすることのない大人びた人間を演じようと私は努めるが、生来上がり症である私はかぐや嬢に対して「今日はいい天気だね」と言い「快晴ですね」と同意を得られた辺りから要領を得ない会話を続けていた。時に、大通りの中で私の指がかぐや嬢の指と、一瞬ではあるが触れ合った時など昇天しないように必死だった。胸が大きく跳ね、呼吸も忘れる。いくらかそのまま歩き私がむせた時に「大丈夫?」と上目遣いで語りかけてくれるのを見るに、彼女は私との接触に気づいていないようだ。それがまたいじらしい。手を繋ぎたいと思った。そしてそのまま抱きしめたいとも。惜しむべきは私が草食系男子だったことである。毎度ファミレスで野菜バーに張り込んでいたしっぺ返しをこんなところで喰らおうとは。
私達は商店街から通じる地下にある飲食店に入った。白を基調とした清潔感ある店である。事前にその客の少なさは確認済みであった。客はひとり。ベストは客なしであったが、まぁいいだろう。
「どれでも好きなものを頼んでくれ。俺がおごろう」
「えっ、そんな悪いよ」
「いいからいいから」
謙虚なかぐや嬢はしばらく逡巡したが、私が引かない姿勢を見せると、紅茶を一杯頼んだ。他にも頼んでいいと意見するとチョコレートのケーキをワンカット注文した。私は私で適当に頼み、しばし待つ。
「ところで、かぐやちゃんの学校生活はいかほどのものかな?」
「毎日が楽しい。でも、気づいたら受験生になってて、もうびっくりしちゃった」
主に後半部分に、私は大きく頷いた。光陰矢のごとしとは高校生のためにあるような言葉である。
注文した諸々がそろってからも、割と学校の話は続いた。なにぶんお互い何も知らぬ身であるが、等しく進学校生である。教師あるあるだとか、宿題あるあるなどで大いに盛り上がった。その中で知ったが、どうやらかぐや嬢は古文が苦手らしい。
「単語が覚えられないよー」
「ふむ」私は一考して「らうたし」と言った。
「なに?」
「いや、古文の意味当てゲームと行こうではないか」
「らうたし?」
「らうたし」
かぐや嬢は幾度か反芻する。真剣に悩んでいる表情がまた可愛らしい。らうたしである。私がそんな彼女をにやにやと見つめていると、どうにも参ったのかかぐや嬢は白旗を上げた。「ならばヒントを上げよう」と私が言うと、こくりこくりとかぐや嬢は頷いた。いちいち愛らしいやつめ。
「かぐやちゃん、らうたし」
「え?」
「かぐやちゃん、いとらうたし」
私は連呼した。初め、かぐや嬢はぽかんとしていたが、私が連呼し続けると、やっと悟ったのか、見る見る間に頬を赤らめていく。りんごというよりは、さくらんぼ。
「もしかして、『かわいい』?」
「正解だ。かぐやちゃん、いとらうたし」
答えが出てからも、彼女の表情があまりにも可愛らしいせいで、私は何度もそのフレーズを繰り返した。あまり広くない店内の私達を除く唯一の客がちらりとこちらを見た。ひとりチャーハンを頬張るその男の視線に気づき、私は急に恥ずかしくなった。女の子にかわいいなどと言ったのは、生まれてこの方初めてのことだった。どこかのぼせていたということは否めない。
皿を空け、少ししてから私達は店を出ることにした。会計は私持ちである。「会計ニ九六〇円になります」私は硬直した。二人合わせてもせいぜいファミレス一食分程度しか食べていないではないか。伝票を見ると、きちんと内訳が記されている。しかし、紅茶一杯八〇〇円はいくらなんでもぼったくりであろう。おごると決めた時点で、かぐや嬢に金銭面の心配がないから、値段まで調べるのを忘れていた。何かを察したのか、かぐや嬢が言う。
「あ、やっぱり私も払ったほうが」
「それには及ばない」
私はこの程度の出費痛くも痒くもないわと言わんばかりに胸を反らし、代金を支払った。財布の大打撃とともに、この店がなぜあれほどまで客入りが悪いのかを知った。
その後、私達はゲームセンターに行った。プリクラを提案されるが恥ずかしさゆえに断ってしまう。かぐや嬢はレースゲームが好きらしく、よく兄とプレイしたそうだ。私はやや不慣れであったが、彼女の隣の座席を陣取り、百円玉を投入した。
ランダムで車体を選択した結果、スマートな赤いフォルムが情熱的で美しいかぐや嬢に対し、私のはくすんだ黄色の、ともすればワゴンと見間違ってしまいそうな、みすぼらしいものになってしまった。ゲームが始まってからもすいすいと進むかぐや嬢と比べ、私は幾度となく壁にぶつかり、エキストラの車にぶつかり、時に空中をニ、三回転した。どこぞの坊ちゃんでもこんな無鉄砲な走法はしないだろう。しかし、そんな雑な運転を行っているにもかかわらず、私の車は決して大破することはなかった。ゲームの使用上当然であるが、どんな目にあっても走り続けるその姿に私は感動さえ覚えた。
危うく一周差をつけられそうなところで私はゴールした。少し誇らしげに胸を反らしたかぐや嬢は、やはりこの上なく美しい。この笑顔を見るためになら、私は何度だって百円玉を投入できるだろう。本屋でぶらぶらした後、駅で解散してから、私はこの日を胸に刻みつけた。
翌日の月曜日、私は学校で頭を抱えていた。
なぜ昨日、私はプリクラを撮らなかったのだ。悩みの種はそこである。
いちいち確認するまでもなく、昨日は私にとって人生初のデートだったのだ。ならば、何か形に残る思い出の品を作るべきだっただろう。私は馬鹿である。ぼったくりレシートのみが、確かなあの日を象徴するものとなってしまった。
手も繋いでしまったほうがよかった。ある程度積極性があったほうが男らしいだろう。いや、しかしあまりがつがつしすぎて軽い男と思われてはたまらない。私がかぐや嬢と築きたいのは、そんな不埒な関係ではない。きっと、彼女の望むところでもないだろう。
藤村が何度か話しかけてきたが、あいにく私は答える気力を有していなかった。
いつまでもくよくよ悩んでいても仕方がない。私はかぐや嬢と都合のあう日を探し、前のデートから二週間後の休日に会う約束を交わした。
当日までに待ち焦がれて我が身が灰と化してしまうのではないかと危惧していたが、何とか持ちこたえ、その日を迎えた。
「やあ。おはよう、かぐやちゃん」
「うん、元気してた?」
私はそれににっこりと紳士的笑みを返す。今日も一段とかぐや嬢は麗しい。現代日本の若者のようなカジュアルな服装に身を包んでいながら、古来よりの「和」を節々から匂わせる。そう、かぐや嬢の愛らしさは、時代を超えるのだ。
私達は駅前でしゃべり始めた。落ち着ける公園があるでもないし、前回のように客入りが少ない飲食店も思い当たらない。二度連続で同じところに行くのは気が引ける分、アイディアらしいアイディアがないのだった。カラオケという線もあったが、付き合ってもない男女が個室で二人っきりというのはあまり好ましくないだろう、かぐや嬢にとって。
それに、これは前回確信したことであるが、かぐや嬢の姿が見えるだけで、その声が鼓膜を震わせるだけで、私の心は満たされるのであった。彼女がいれば、私はどこでも天国にいる心地なのだ。
かぐや嬢ととりとめもない貴重な会話をしていると、かぐや嬢の名前がふと呼ばれた。彼女の視線にあわせて私は顔をぐるりと反転。たったと走り寄ってきたその子は、どうやらかぐや嬢の友達らしい。
「偶然だねっ」
かぐや嬢と両手を合わせながら、三つ編みの彼女は言う。それからやっと、私の存在に気づいた。目をぱちくりと瞬かせる。なんとなく私は縮こまってしまった。
「あれ、もしかしてこの人、かぐやの……?」
などと口を開くものだから、私は困ってうつむいてしまう。かぐや嬢に目を向けると、彼女も同じ心境らしかった。どう答えたものかと悩んでいたが、かぐや嬢は照れを押し隠した声で言った。
「今は、まだ、違う」
「まだ」という言葉に、私の心臓は天にまで跳ね上がった。それは、つまり、いずれ付き合うことが確定的になると思ってくれているからの発言ではないだろうか。小躍りしたくなったが、かぐや嬢のご友人もいるのでとどまった。
ああ、愛しきかなかぐや嬢。もし私が帝なら、天からの使者がきみを連れ去ろうとしても、必ずや引き止めてみせる。
しかし私が感じ入っている間に、なんとかぐや嬢は友人と談笑を開始してしまった。中学の時いた誰それが何がしと云々……、私に入り込む隙間はない。駅前に咲いた会話の花は、遠目に見ても美しいが、それは触れられる位置にあってこそ。一瞬にして孤独となってしまった私はひそかにかぐや嬢の友人を恨んだ。早く帰れ。
その思いが通じたのか、はたまた彼女自身に用事があったのか、かぐや嬢の友達はあまり長居はせず、人ごみにまぎれていった。その後、私達は夕陽が駅前を赤で覆うまで雑談に興じた。それだけしかしなかったのかと誰かが見ていれば感じるかもしれないが、有意義なひと時であると私は思う。
「そうだ。前回もそうするべきだったかもしれないが、今日はかぐやちゃんを家まで送ろうと思う」
「えっ、いいよいいよ。電車も違うし」
私はちょっと、むっとしたように言った。
「男が送ると言うのは、往々にして少しでも長く一緒に居たいがためなのだぞ?」
言ってみて、照れくさくなって私は顔を横に背けた。私らしくない発言であった。しかし本音であるので、訂正はしない。見ると、かぐや嬢は頬を赤らめてうつむいてしまっている。だが、何度か金魚のように口をパクパクさせた後、囁くような声で言った。
「今は、まだ、だめ」
結局彼女の言に従い、私が帰路に着いたことは言うまでもない。かぐや嬢は「まだ」の魔術師である。