今日よ、もう一度。
外一面をやきつけるまっさらな光が、ボクの視界の隅にいる。背中いっぱいに感じる麻の、どこか淋しげな匂いをお腹いっぱいに吸い込んで、ただ、見たことがある天井を目に入れていた。
「暇そうだね」
柔らかい声が通り抜ける。
声のする方には、いとこでボクの3歳年上──高校1年生の芽生お姉ちゃんがいた。
とてつもない強さの陽の照りで、強調されている太ももが視界に入ってきてしまって、ボクはボクへの不快な感情を抱いてしまった。それでもボクの目は、あの透明にも近い白色を忘れようとはしなかった。
「なに、なんか付いてる?」
首をかしげてそう言った、柔らかな声が頭の中に響く。
「なにも......なにも、ないよ」
......息苦しい。それはおそらく暑さのせいではなくて、そんな......そんなボクから、目を逸らしたかった。
すぐに、まどろむ色のしたふすまを目いっぱいに入れた。
この部屋は小さなテーブルが中央に堂々と鎮座している。そして、人肌のような柔らかい色の襖がボクたちを囲んでいた。
一面だけ、部屋の北は縁側になっている。
今は全開になっていて、その姿をまるで見せないが、そこは堅苦しい障子なのだ。
「今日はゲームやらないの? バテちゃったかな、暑いもんね」
言葉とともに、足音がボクの足先の方へと近づいていく。
「私も小学生のころよくやったな。お父さんが私がやってるところみててさ」
無機質で機械的な音が、蝉の鳴き声と混ざり合っていく。
「私、あんまり上手くないから、見てられないのかな。お父さんは『貸せ!』だって。コントローラーをこんなふうにしてさ」
視界を左へ移すと、おんぼろで小さいブラウン管テレビの前に、ほんの少し大きな背中が見えた。左の方にある腕がしなやかに、そして演舞のようにコントローラーを上へと上げ、また元の位置へ戻す。
淡い光を浴びている背中を、以前見たことがあるような錯覚に陥った。
「すぐにクリアしちゃう、お父さん。私は全然だったのに」
後ろを振り返ってあらわになる、繊細で儚げで少し垂れている目は、どうやらボクをすり抜けているらしかった。
その目はすぐに落とされ、可憐でみずみずしさを湛える桃色の爪が、コントローラーへ縦横無尽に這い寄っていた。
10本の指が動く様子が、まるでそのような生き物のように見えて、ボクはまた息苦しさを............何かを、胸いっぱいに感じた。
「私、泣いてたな。お父さんが簡単そうにクリアしてくのを見て」
ふと、お姉ちゃんは目を上げる。
長くて、何色も寄せ付けないような黒さの髪が目にかかっている。ボクをすり抜ける目元のまま、お姉ちゃんははにかんだ。
「悔しかったのかな、わたし。そこからいっぱいゲームやってたし......」
両手が覆いかぶさりながら、コントローラーを畳に返す。
長い髪の間からふと見える、お姉ちゃんのその瞳で、視界はいっぱいになっていた。
「もうやらないな、最近は」
暖かく艷やかな唇から放たれたその言葉は、存外、冷たさを帯びたものだった。
何もしないままでいると、ボクたちをどこかの拍子で壊してしまいそうな蝉の声だけが、耳に、頭に響き続ける。
左を向けば、そこには汚れなんて知らない緑の風景があった。
生き物が飛び交って、音は止まない。陽が上にあって、眠れば土がある。
......いつもの光景だった。そのはずなんだ。
熱を帯びた優しげな風が、ボクたちの間に入り込む。
額から、汗がボクの体を巡っていく。
目を瞑りたくなるほどの青い空は、いつもと変わらず隣にいて、どうしても手が届かないものだった。
ボクはそれが嫌だった。青い空が。どうしても届かない──離れた空が。
喉元に詰まっていた言葉は、もうそこにはいられないようだった。
手で掴めると錯覚してしまうほどに、湿気を帯びた熱風が、今はやけに涼しく感じられた。
「ねぇ」
右にいる、物憂げな少女が、やっとボクへと目を向けた。
「虫取りしに行こうよ」
鳩が豆鉄砲を食ったような......それは多分、今のお姉ちゃんの様な顔をいうのだと思う。
「缶蹴りでも、鬼ごっこでもいいよ」
生唾が喉を通る。喉仏が強く揺れる。低い声が自然の音をかき分ける。
「外、行こうよ」
また、けたたましい音が耳をつんざく。熱風が、お姉ちゃんの髪に優しく触れていた。真っ白な歯が、小さく、薔薇のような唇から顔を出す。
「いいよ。行こっ」
青緑の麻から離れていく足が、四つ。まぶしげな青空が、肺を満たす。
「なにしようか。缶、持ってこうか」
そう言いながら、お姉ちゃんは立ち上がった。クリーム色の襖が、純白のような手で開けられる。
「んー......虫取りがいいかな。最近、昆虫とかの動画見てて」
廊下を一面に張る錆びたような茶色の板が、ボクたちの下で甲高い音を奏でる。
「わかる。なんか、そういうの見る時期あるよね。急に見たくなる」
「なんだ、どこか行くのか、ふたりとも」
今日の日差しとはまるで正反対な、優しげな声がボクたちの間を通った。
髪はすっかり白......もはや銀とも言っていいほどキレイな白髪だが、その風貌はまるで年齢の経過をどこかで止めてきたように見える。
「外で遊ぼうって言うから、虫取りしに行くの。久々だし、楽しいかもって」
「急だな、虫取りだなんて。まぁ、動くのはいいことだから。けど、今日の予報では昼過ぎちょっとしたら雨が降るって。傘も持ってきなさい」
「んー......荷物になるからいいかな。それに晴れてるし。それ多分外れだよ」
「......まぁ折りたたみでもいいから、ちゃんと濡れないようにな」
「晴太くんも、雨に濡れないようにね」
お姉ちゃんとおじさんの優しげなやり取りに、ボクの返す返事は無骨な頷きだけだった。
その対応はボク自身の心にどこか冷たさを感じさせたけど、親と子というものの前には仕方がなくて、良くも悪くもその場は聖域になってしまうのである。
「いってきまーす」
「暗くならないうちにな」
「分かってるー」と、お姉ちゃんの声は硬い玄関の石を弾んでいき、そのままボクたちは、いよいよ玄関を飛び出したのだ。
外に出るとまず、生まれたままの、純真無垢な光が体へと浴びせられた。
まるで海が空にあると錯覚するほどの青空で、目で見えると思えるほどの熱気が立ち込め、蝉のおしゃべりはいまだ続き、みずみずしい草木が地面を優しく覆っている。
「あったよー。いやー、やっぱり暑いね」
お姉ちゃんは襟を仰ぎながらボクの方に近づいてくる。
ボクは視線を青空を泳ぐ散り散りの雲へと、なぜかすぐに移してしまった。
「そうだね。日差しも強くて......お姉ちゃんは平気なの」
汗が喉仏をゆっくりなぞる。雲がボクを見下ろしていた。
「平気だよ。なんか、体質なのか、あんま焼けないし。水だってあるでしょ」
ボクを見下ろしていた雲が、お姉ちゃんの体の後ろへと隠れてしまった。
鼓動が倍々に速くなっていく。
「どうしたの、目瞑って」
視界にあるのはかすかな光だけで、暗闇で覆われているはずなのに、周りには優しさが漂っている。
闇を晴らし、視界いっぱいに光を受け入れた。お姉ちゃんの目は、何よりもキレイな黒色だったとボクはここで気がついた。
「ちょっと眩しくて......でも平気だよ」
すっとした鼻筋が更に、その儚げな目を際立たせていた。
「ホントに? バテてない?」
かすかに声が震えている。その事実だけで嬉しかった。
「うん。早くいこ、虫取り」
お姉ちゃんの真反対に体を向ける。真っ青で、けれど、少しだけ雲の多い空がボクたちを見下ろす。
振り返らずに、腕を大きく......大きく振って土を踏みしめる。
広大な青空の下で、地面を跳ねていく乾いた音が空気に染み込んでいた。
────2時間くらい経っただろうか。焦がすような日差しはどこかへ行ってしまった。
「全然いなかったね、カブトムシ」
空っぽの虫かごをゆりかごのように揺らす背の高い影がある。
「でもいたってさ、捕ったってさ、その後飼ったりするの? お姉ちゃん」
長い虫取り網を担ぐ小さな影が、その高い影の前を歩いていた。
「......え。晴太が欲しかったんでしょ」
乾いていて軽い声が、静かに空気へぶつかる。ボクは視線を横にある木々に移した。今のボクの目に映る木々は、先ほどよりもその幹と葉々に陰を落としていた。
「カブトムシが欲しかったって言うより......虫取りがしたかっただけだよ。別に......虫は、うん......全然」
弱々しかった。ボクの声は小さく、薄れていて、今にもどこかに消えてしまいそうだ。
「そう。まぁ、確かに」
お姉ちゃんの声もまた、ボクのように軽さを伴っていた。
「確かに、楽しいよね。虫取り」
「よくゲームでしてた。目的と手段が入れ替わるんだよね、長くやってると」
お姉ちゃんの声にあった軽さは明るいものであるとわかり、少しだけ安堵がこぼれる。
「タランチュラ取るのは難しかったなぁ。新作でも......ま、全然だけど」
後ろを振り返ると、どこか遠くを、まるで空間の向こう側を見つめているような両目が、そこにあった。
視界を少しだけあげてみると、お姉ちゃんを──正確にはボクたちを──濁った表情の雲が見守っていた。
途端に、不思議な匂いが周りを満たす。
......夏の匂いではなかった。ボクの匂いでもなければ、もちろんお姉ちゃんのでもない。
「ねぇ、これって......」
お姉ちゃんも分かっていた。ボクたちがこれからどうなるのかを。いや、これから空がどうなるのかをだ。
地面のアスファルトに水がはねる。そして木に、草に、土にはねていく。周りは水に濡れてつやつやと輝いていた。
次第に勢いが増していく。もはや糸目をつけず、そこらかしこへ水がこぼれていく。
4本の足が土を駆けていく。2つの体に水が打ち付けられる。
「ここ真っ直ぐ! バス停、屋根があるバス停があるの」
空が奏でる激しい水音に負けじと、柔らかな声が精いっぱいに張り上げられている。
「速く走るよ! 風邪引いちゃうから!」
お姉ちゃんの声は、雨音と風を切る音をかき分けて、よく聞こえてくる。
ボクたちは草木をおいて行ってしまうほどに速く走っている。しかし曇天は......彼はボクたちの一歩先を進む。
肺いっぱいの石の匂いのせいか、浴びている雨のせいか、それとも後ろから聞こえる賑やかな音のせいだろうか。
どうしても──どうしても、笑いが堪えられない!
体は冷たくて、息が苦しくて、何が面白いのか。けれど、ボクの口から笑いが漏れ出してしまうのだ。
空気をつんざく雨の落ちる音。ボクたちで置き去りにする、風の音。
その中に1つ......いや2つ。実に大きな笑い声が、周りに染み込んでいく。
走り続け、笑い続けた。まるで時間さえも置き去りにしてしまったように。
多分、この空は曇り空、雨空と呼ばれるに違いない。嫌な気分で、ジメジメして、頭が痛くなるような空だろう。
そんなことがあるだろうか! これほどまでにキレイな空を......ボクは、見たことがない。
土砂降りの雨を降らす、滲んだ灰色で恐ろしいほどに真っ青な晴天だ。
「お姉ちゃん! バス停は? もう限界!」
途切れ途切れの荒い息に混ざる、2つの大声と笑い声が空気と雨を揺らす。
「もうそこ! もう目の前だよ。晴太はやく~!」
曇天から目をおろすと、そこには木の温かみを感じさせる小さなバス停が独りで佇んでいた。
アスファルトを勢いよく跳ねていた音が止まる。
無機質で、乱れることなく落ちていく水滴の音の中に、乱れた荒い息が混じっていた。
「ハハハ......まさか、ホントに降るとはね」
お姉ちゃんはまた、襟を仰いでいた。
──目を、逸らしてはいけない。いや、逸らす必要はないはずだ。しかしボクは、お姉ちゃんを見ることができなかった。
バス停に着くやいなや、曇天からは一筋の光が突き抜けていた。
「おっ、にわか雨だったんだ。ラッキーだね」
勢いの弱まる雨音に、お姉ちゃんの湿気を含んだ声が重なる。
何も言えないボクは、顔を出し始めたあの憎い青空を目に入れないようにしていた。
「なんかさ......さっきさ......」
お姉ちゃんの声はより湿気を帯びていく。ボクは──お姉ちゃんが何を言いたいのか、分かってしまった。
いや、正確には、もうずっと............この夏から──もしかしたら去年から分かっていたのかもしれない。
耳を塞ぎたかった。息を止めたかった。あの青空を消してしまいたかった。
「なんか、昔みたいだった。晴太がもっと小さかった頃って、あんな感じだったね」
晴れ上がった空は、見事な晴天と言う他なかった。真っ青なキャンバスへ、雲は自由気ままに描かれていた。
濡れた草木は、その滴を地面へと静かに落としている。
小さなバス停には、濡れた石の匂いが漂っているだけだった。
「──うん。懐かしかった」
少年は滴をこぼしながら立ち上がった。
「帰ろうよ。風邪引ひいちゃう」
2人を見ていたのは、晴天だけだった。
──引き戸を引くと、少しだけ歪な音をたてながら、つい先程見た光景を見せてくれた。
「ほらやっぱり。だから傘を持っていけって」
声だけが玄関に届いていた。ボクたちは濡れていたので、そのままそこに佇んだ。
少しだけのんびりして、少しだけ急いだ足音が焦茶の床を揺らす。
「いやぁ、ずぶ濡れだなあ。タオル持ってくるからそこで待ってなさい」
「拭いたらすぐ風呂だな。風邪引いちまうから」
呆れた口調には、確かな優しさがあった。
さっきよりもドタドタと急ぐ足音が、遠めに聞こえてくる。
「ねぇ、どっちが先にお風呂入る?」
「うーん......」
ボクは、やはりまた言葉を失った。
もう、諦めざるを得ない時──それほどまでの時間が過ぎたというのは分かっている。
けれど心は、理屈を認められないほど昂っている。
何も言えずにいると、先程の慌ただしい足音が近づいてきていた。
激しい足音に少しだけ荒い息が混ざっている。2つのタオルを脇に抱えて来たようだ。
「ほら、これで体拭いて、晴太くんも」
ゴツゴツのバスタオルが、優しく体を包んだ。
「で、どっちが先に入る? お風呂は」
視界いっぱい真っ白なタオルのまま、その言葉を聞いていた。
「前みたいに、2人で風呂に入るのか?」
「もうしないよ。高校生だよ? 私」
「ハハ、いや、そりゃそうだよな」
2人の笑い合う声だけが、ボクの頭に響いてくる。
「晴太が先に入りなよ。それでいい?」
声だとかすかに分かるような音を漏らし、体を拭き続けた。ボクが受け入れようとしていたのは、真っ白な視界だけだった。
────その後、すぐに日を跨いでしまった。やはり、昨日の曇天は姿形さっぱり消えたままだ。
「いやぁ、ありがとう、今年も」
「まぁまぁ。来年も来なよ。あぁでも、無理はすんなよ」
お父さんとおじさんのいつもの会話が終わろうとしている。ボクは、心の奥底で、昨日の様な曇天を待ち望んでいた。
「それじゃあ、達者で」
「そっちこそ」
ボクを見ていたお姉ちゃんの目は、底が見えないような闇に包まれているように見えた。
やかましい蝉の鳴き声だけを、耳はかき分けていた。聞こえない何かを聞こうとしていた。心臓の拍動がはやくなっていく。
ボクが進もうとするのとは逆の方向を、ずっと、ずっと見続けた。汗が全身を流れ落ちていく。蝉の鳴き声だけが勢いを増していた。
お姉ちゃんはもう、随分小さく、視界にはちっぽけに映っていた。
その時、ボクを見つめていたあの黒い目が、どこか──ボクの分からないところへと行ってしまった。
やはり熱風だけが、陽をまとって艶を増したその黒髪を触っていた。
もう、振り返ることはなかった。ボクは青空を見つめた。
届くことはなく、そして果てしないほど巨大な青空に、純白を装う雲が住み着いている。
その白く輝く雲に、ボクはお姉ちゃんの肌を見ていた。
────少年の体は、優しく上下左右に揺らされていた。壮大な田園が、雄大な草木が、そして純白の雲が彼を見送った。
──多分、いや、絶対にボクは来年もここに来る。
それはそうなのだ。毎年のことだ、物心ついたときよりも前からここに来ていたのだから。
同じことだ。いつもの繰り返しに過ぎないはずだ。けれど、変わってしまった......いや、変わってしまっていたのだろうか。
激しく拍動する心臓の音を聞いていると、眼の前が一瞬、闇に包まれた。
ここにはほんの僅かだが、トンネルがあったらしい。行きも帰りもいつも寝ていたから、気づかなかったのだ。
まだ、お姉ちゃんの家はそう遠くはない。今歩いたら、案外すぐかもしれない。
土を跳ねるんだ。そして、目の前に広がる緑をかき分けて、踏み倒す。
肌をさす光をくぐっていく、あの青空を泳いでいくんだ。
────時間よ、止まれ......! 止まってしまえ......!
止まったときの中を、ボクは過ごすんだ。何も聞こえない空間で呼吸だけをするんだ。
視界の輪郭がぼやけていく。何もかもが溶けていく。ここにあるはずもない、あの夏の匂いだけが、心の中に漂っている。
ボクは視界を暗闇で埋めた。すべてを暗闇へ託した。電車で冷たい風を浴びながら、身体は熱風を思い出していた。
そして石の匂いが魂を、全身を覆いこんだ。包みこんだ。心臓の拍動は勢いを弱めた。苦しかった息は冷静さを取り戻した。
ゆっくりと、ゆっくりと闇が晴れていく。だが、違ったのだ。何もかも、やはり違った。
青が......青が────落ちてくる!
目の前に、いっぱいの......いっぱいの青が落ちてきた。
青は溶けて、混ざり合って、ぐちゃぐちゃになって、そしてボクを包んだ。
少年は目を瞑っていた。優しげな揺れを全身で享受しながら。
もはや彼の目が追っていたのは、深い黒色だけだった。




