四葉のクローバー 〜昔交わした約束と、綺麗になった幼なじみ、本当の俺を君はまだ知らない〜(柾樹視点)
(いつからだろう)
柾樹は、ふとそんなことを思った。“美奈木ちゃん”を、ただの子どもとして見られなくなったのは。
俺の声が少しずつ低く変わっていった頃か。背が伸びて、並んだときに視線の高さが近くなった頃か。それとも。彼女の制服姿を初めて見たときだったかもしれない。
(……いや)
そこまで考えて、柾樹は小さく息を吐いた。そんなはっきりした境界線があるわけじゃない。気づいたときには、もう遅かったのだ。
昔みたいに軽く頭を撫でるのが、少しだけ躊躇われるようになっていた。近づかれると、どこに視線を置けばいいのか分からなくなる。
だから結局、距離を置くしかなかった。自分から一歩引いていないと、簡単に線を踏み越えてしまいそうだったから。美奈木ちゃんは大人になるにつれて、綺麗になっていく。その変化に気づいているのに、目を逸らすことができない。
昔知っていたはずの幼い姿と、今目の前にいる彼女が、ふとした瞬間にずれる。そのたびに、どう接すればいいのか分からなくなる。近づきたいのに、これ以上近づいてはいけない気がして。
結局、自分から冷たい壁を作るしかなかった。それだけが、ずっと胸の奥に苦い澱のように残っていた。
◇
「ーーーぎ……ーーーなぎ? ーーーー聞いてる? ちょっと、美奈木?」
おばさんの声に、美奈木ちゃんが「え?」と小さく肩を揺らした。どうやらソファーに座ってからずっと、上の空でぼんやりしていたらしい。
「あ……ごめんなさい。少しぼーっとしちゃってた。」
「もー、しっかりなさいよね。あんた来年受験生でしょ……」
慌てて頭を下げる彼女を見て、俺は小さく口元を緩めた。相変わらずフワフワしたところがある。
おばさんは小言を言いつつも、ふと思いついたように俺に顔を向けてきた。
「ねねね、柾樹くん。さっき家庭教師のバイトを探してるっていってたわよね? 美奈木の家庭教師をしてみない?」
「え……お母さん……?」
美奈木ちゃんが驚いたような声をあげる。するとすかさず、隣にいる彼女の姉の美紗木がニヤニヤと笑みを深めて乗っかってきた。
俺と同い年のその幼馴染は、昔からこういう時の嗅覚がやけに鋭い。
「それ、いいじゃないの。柾樹も美奈木なら知り合いだし、変な事にならないんじゃないの?」
恐る恐る、美奈木ちゃんがこちらを見て、目が合った。その瞳が「私なんかで申し訳ない」と揺れているのが分かって、胸がちくりと痛む。
「こちらとしてはありがたい申し出なので、是非ともさせていただきたいです」
トントン拍子に話は進み、俺は彼女の受験終了まで家庭教師をすることになった。距離を置くために離れたはずなのに、まさかこんな形で、彼女のプライベートな部屋に週に何度も通うことになるなんて、思いもしなかった。
◇
夏休みに入り、美奈木ちゃんの部屋の机に並んで座る。冷房は効いているはずなのに、妙に肌が熱い。
「美奈木ちゃん、手が止まってるよ」
「……だって難しいんだもん」
机に頬杖をつき、ノートと問題集ににらめっこしている彼女を横目で見る。
昔と変わらない、少し子供っぽい拗ねた声。なのに、ふとした瞬間に見える横顔のラインは、確実に俺の知らない「大人の女性」のものになっていて。視線の置き場に困り、俺は誤魔化すようにノートへ手を伸ばした。
「ここ、途中の式抜けてるよ」
「あ……」
ノートを覗き込むようにして、少しだけ体を傾ける。椅子が軋む小さな音。手を伸ばした瞬間、彼女の肩が触れそうなほど近づいた。
(近いな……)
シャンプーとは違う、女の子特有の少し甘く爽やかな匂いがして、俺の方が背筋を固くしそうになる。
「……美奈木ちゃん?」
「な、なに?」
「顔赤いけど。クーラー効いてない?」
覗き込むと、彼女の顔が林檎みたいに真っ赤になっていた。
「ち、違う! 暑いだけ!」
「……ふーん?」
慌てて首を振る彼女に含みを持たせた声を返したが、実は誤魔化すのに必死だったのは俺の方だ。
問題の説明に戻るため、すっと視線をノートに落とす。心臓の音がうるさかった。自分の耳が、ほんのりと熱く色づいていくのが分かった。
◇
二時間ほど勉強を教えた頃、休憩としてペンを置いた。案の定、美紗木が「アイス食べたくない?」とわざとらしく部屋に顔を出してきた。
「柾樹、悪いけど美奈木と一緒にコンビニ行ってきて」
「は?」
露骨に嫌そうな声が出る。いや、嫌なわけがない。二人きりで外を歩くなんて、俺の理性が持つか分からないから嫌なのだ。
「……別に俺だけで行けばいいだろ」
「はぁ? せっかくなんだから美奈木も連れていきなさいよ。女の子ずっと家に閉じ込めとく気?」
「言い方……」
結局、半ば追い出されるようにして二人で外へ出た。
むわりとした熱気が身体を包む。
コンビニまでの徒歩五分。昔は当たり前だった距離が、今は遠く感じられるほど会話が途切れる。
「……柾お兄ちゃん」
「ん?」
「変わったね。うん……なんか、大人になった」
俯きながら小さく呟いた美奈木ちゃんに、胸の奥がドクンと跳ねる。
「美奈木ちゃんも……綺麗になった」
本音が、そのまま口から溢れていた。帰り道、夕焼けに染まる道で、彼女の手元から溶けたアイスがぽたりと垂れる。
「……何やってんの」
呆れたように笑いながら、無意識に彼女の手首を掴む。ひやりとした細い手首。
「ほら」
親指でそのアイスを拭う。俺は、自分でも信じられない行動に出た。拭った自分の指先を、無意識に舐め取ってしまったのだ。
「甘」
本当に、他意はなかった。昔、彼女の手が汚れたときに同じように拭ってやった記憶があり、無意識に身体を動かしただけだった。
なのに、目の前の美奈木ちゃんは顔を真っ赤にして完全に固まっている。その反応を見て初めて、自分がとんでもなく破廉恥なセクハラまがいの行動をしてしまったのだと気づき、一気に血の気が引いた。
「み、美奈木ちゃん??」
(やばい、何やってんだ俺は……)
「……ごめんね」
低く落とした声が、夏の熱気の中に消えていく。それからはお互いに口数が減った。
家までの道が、もっと長ければいいのにと、そんな往生際の手悪いことまで考えてしまう自分が嫌だった。
◇
部屋に戻り、冷房の効いた空間で再びノートを開く。けれど、彼女の薄い生地の部屋着が、冷房の風でふわりと揺れた瞬間、俺の理性が限界を迎えた。
「……征お―……」
俺を呼ぼうとした彼女の声を遮るように、深く息を吐き、眉間を押さえた。
「……美奈木ちゃん。その格好、他の男の前でもしてる?」
「え……?」
「……いや、何でもない気にしないで……でも」
これ以上、俺を煽らないでくれ。
「少しは危機感持った方がいいよ。……俺も、男だよ?」
いつもの“お兄ちゃん”の仮面が、完全にひび割れていた。戸惑うように俺の名前を呼ぶ彼女の反応に、降参する。
「……そういう反応するの、反則」
観念したように苦笑するしかなかった。
「……男に、あんまり気を許しちゃだめだよ」
それは彼女への忠告であり、これ以上理性を壊されたくない俺の、必死の防衛線だった。
◇
家庭教師の時間を終え、俺は美奈木ちゃんの部屋を後にした。階段を降りながら、小さく息を吐く。
(――完全にやらかした)
「重症ねぇ」
玄関へ着くと、背後から呆れ半分の声が降ってきた。振り返ると、腕を組んだ美紗木が壁に寄りかかっていた。
「……盗み聞きかよ」
「いやー? 聞こえちゃっただけ~。美奈木を意識しすぎでしょ。昔はあんな子ども扱いしてたくせに」
「……うるさい」
低く返すと、美紗木は少しだけ目を細め、どこか呆れたように笑った。
「高校入った頃から急に美奈木を避け始めたくせにね。前まであんなに構ってたのに、急に距離置きだしたら周りには分かるって。あの子、急に避けられて『嫌われちゃったのかな』ってずっと気にしてたんだから」
「っ……」
図星を突かれ、言葉に詰まる。美奈木ちゃんにそんな思いをさせていたのかという罪悪感が胸を突いた。
「まあ、安心しなさいな。あの子は今でもあんたのこと大好きだし、嫌ってないって分かってよかったじゃない。このまま気持ちごと誤魔化して逃げるのかと思ってたから、安心したわ」
「……別に、そういう話じゃない」
そう返しながらも、否定が薄いことに自分で気づいてしまう。美紗木はそれ以上踏み込まず、意味深に笑うだけだった。
認めないようにしていただけだ。
"四つ年下の幼なじみ"
そう言い聞かせて、ずっと線を引いてきた。けれど今日、あんな無防備な姿を見て、もう“お兄ちゃん”のままではいられないと、思ってしまった。
◇
次の家庭教師の日。
インターホンを押し、美紗木にニヤニヤされながら彼女の部屋へ向かう。部屋へ入ると、クーラーの風が静かにカーテンを揺らしていた。ノートを開いても、お互いに手が動かない。からり、とアイスティーの氷が鳴る。
(……集中できてないな)
それは、俺の視線が、彼女の胸元に釘付けになっていたからだ。淡いクリーム色の部屋着。その鎖骨の上で、小さな銀色の四つ葉のクローバーが揺れていた。
(……これって、俺が中学のときに渡したやつか……?)
「どうしたの?」
と顔を上げた彼女に、懐かしさに任せて声をかける。
「まだ持っててくれたんだ。……懐かしいな。昔、よくシロツメクサ摘んでたよね」
「あっ、覚えてる?」
「覚えてるよ。花冠作って、“結婚式みたい”ってはしゃいでた」
「わ、忘れてあんなの……!」
美奈木ちゃんが真っ赤になる。
「無理」
くすり、と笑いながらも、俺の胸の奥の熱はどんどん膨れ上がっていた。あの公園での思い出。ただの幼馴染の遊びのはずだったのに、花冠を被って無邪気に笑う彼女が、やけに眩しくて、胸の奥がずっと落ち着かなかった。
(……あの頃からだろうな)
気づかないふりをしていただけで、俺はとっくに、ただのお兄ちゃんではなくなっていた。
「……俺、あの頃から結構本気だったのにな」
ぽつりと漏らした言葉は冗談のようだったかもしれないが、俺の目は笑っていなかった。彼女はうまく聞き取れなかったようで、不思議そうにしている。
「シロツメクサの花言葉は、幼い頃に『私を想って』だって、美奈木に教えてもらったけど……」
俺の指先が、そっと、彼女の胸元のペンダントに触れる。ひんやりとした銀の冷たさが指に伝わる。
「美奈木は、四つ葉のクローバーの花言葉知ってる?」
「……ううん、知らないかも」
まっすぐに見つめてくるその瞳から、もう目を逸らすことはできなかった。
繋いでいた理性の糸が、ぷつりと切れる音がした。
「《私のものになって》——……」
言い切ると同時に、ゆっくりと身を屈める。
彼女の呼吸が、小さく止まるのが分かった。
そっと、銀色の四つ葉へ唇を触れさせる。
至近距離で合う視線。そこにいるのは、もう俺の「妹」なんかじゃない。
戸惑いと熱に浮かされる美奈木ちゃんを見つめながら、俺は、困ったように小さく笑った。
「……もう、お兄ちゃんのままじゃ無理なんだけど」
◇




