造花
暗い病室。心音モニターがあるにも関わらず静寂に満ちたこの部屋に、制服を着た背の高い少年が呆然と屹立している。寝具の傍らに置かれた点滴が役目を終えてジッと立っている。無気力にぶら下がるチューブの先には一人の少女が横たわる。十八年間働き続けた横隔膜はピタリと止まって再び動き出す気配もない。死という変えようのない事実だけがそこに存在していた。
一人残された病室で嗚咽の混じった叫び声が響く。本当なら、もっと静かで安らかに寝かせてあげたいが、堪えようとすればするほど涙が溢れてくる。なにより、人生で一番多くの時間を共有した思い人を失って平静を保てるほどの強靭な精神は持ち合わせていなかった。脚の力はみるみる抜けていき、ついに体を支えるに足る力も失われた。崩れ落ちた体は床にぶつかって首の皮一枚繋がった。目線の高さになったベッドを見ると息が荒くなる。視界はどんどん霞んで意識が朦朧としてくる。
ドアの開く音と同時に、二人分の足音が聞こえてくる。彼女の主治医と、よく面倒をみてくれた看護婦だった。泣きじゃくる少年に別れの席を譲ってくれた優しい人たちだ。
「尾﨑さん。これは彼女……三枝雪奈さんがあなたに渡してほしいと遺したものです」
少年が歪む視界で捉えたのは一本の小さな花だった。茎を含めても手のひらほどの大きさの、小さな黄色いガーベラだった。脳裏には在りし日の少女が蘇る。彼女は花言葉を調べることにハマっていた。病室を訪れる度に草花に関する新しい本を抱えながら知識を披露してくれた。
「ガーベラの花言葉は常に前進。他にもあるけど、基本的に前向きなメッセージが多いみたい」
いつもの雑学だと思って何の気なしに聞いていたはずだったのに、いつの間にかどんな名言よりも心に残っていた。そのときの彼女の目に淡い絶望を感じたからだろう。自分の命がもう長くないと察してもなお平静を保ち続けた彼女が気を抜いた、ふとした一瞬。今にして思えば、あれが本当の彼女をみた最初で最後の機会だったのかもしれない。
「……雪奈は、他に何か言っていましたか?」
あまりにも震えた声だった。焼けるように熱く痛い喉のせいだ。
「いえ、残念ですが何も」
返答の内容は分かりきっていた。多くを語らない彼女がこれ以上何かを用意しているなんてありえない。一の行動で十も百も伝える。それが三枝雪奈という少女なのだ。
「そうですか」
看護婦からガーベラの造花を受け取り、改めて部屋を一瞥する。冷徹に見えた医者も肩を揺らしながら俯いている。三枝雪奈という、たった一人の少女が連れてきた喪失は彼女に触れた者全員に底知れない悲しみを与えた。少年にとって身近な誰かが永遠にいなくなるというのは人生で初めての経験だった。高校三年生の二月、クラスメイトたちよりも一足早く、再会のない別れを終えた。
大学入学と同時に実家を離れることになった尾﨑は、駅のホームで新幹線を待っていた。大きな荷物は既に郵送していて、手元に残ったのは大きめのリュックが一つと小さな造花が一本だけだった。
「二番線に電車が参ります」
慣れ親しんだ土地を離れる恐怖と興奮、不安と希望が一気に押し寄せる。踏み出す一歩に躊躇いながらも、前に進む。新幹線が出発すると睡魔が襲ってきた。しばらくは怒濤の日々が続く。その前にしっかり寝ておこうと抗うこともなく眠りについた。
懐かしい夢を見た。登場するのは少女時代のあの子。優しく、聡明で多くを語らないのは出会ったときから変わっていない。凛として佇む彼女にきっと僕はどうしようもなく惹かれたんだ。一目惚れなんてチンケな言葉では表せないほど、心の底から彼女を求めた。ただ遠くから見えただけの少女に恋焦がれた。
「ねえきみ!名まえは?」
頭より先に体が動いた。酷く間抜けな声の掛け方だった。それでも返事をしてくれたのはただの気まぐれか、友人という存在への羨望か。それは十年経った今でもわからない。
「……三枝雪奈。あなたは?」
雪奈はとても同じ八歳とは思えないほど大人びていた。そのときの僕は応えてくれたのがただ純粋に嬉しかった。雪奈がどんな病気を患っていて、どんな日々を過ごしているのか。その未来には何が待っているのか。あの頃の僕は何もわかっていなかった。「また会いにくるね」と無邪気に約束をして家に帰った。夏休み真っ只中、母さんがちょうど同じ病院に出産入院していたお陰で雪奈に会いに行くことは難しくなかった。
「ゆきなはいつまでこの部屋にいるの?」
幼心から生まれたほんの小さな疑問だった。雪奈と出会った頃に入院した母は退院予定日が決まっているのに、外見は健康そのものの雪奈が何故ずっと入院しているのか不思議に思ったのだ。雪奈はとても困った顔をしていた。どう答えたらいいのかわからなかったのだろう。なにしろ、その問いへの答えは誰も持ち合わせていないのだから。
「わからない。一週間後かもしれないし、五年後かもしれない」
長らく考え込んだあとにそう答えた。雪奈は最初からずっとゴールの見えない戦いを続けていたのだ。年端もいかない少女がたった一人で。
「そっか……じゃあ、ゆきなが寂しくならないように、これからもずっと会いにくるよ!毎日はむりかもしれないけど」
「……ありがとう」
雪奈が笑ったのはこれが初めてだった。雪を溶かす春の木漏れ日のように柔らかく、暖かい笑顔だった。この笑顔がまた見たいと、心の底からそう思った。それから僕は今まで以上に雪奈に会いに行った。学校のどんな友達よりも雪奈と過ごす時間の方が楽しかった。
だけど、楽しい時間も長くは続かない。雪奈の容体が急激に悪化したのだ。高校二年生の春だった。しばらくは面会謝絶の期間が続いた。初めてのことで気が動転した。次に目が覚めたら、雪奈が消えてしまっているのではないかと不安になった。学校では常に上の空で、夜も眠れない日が続いた。何をやっても集中できず、ただネガティブな考えばかりが引き起こされ続ける。一度始まってしまった思考は止めようと思うほど加速していった。絶望の淵に追いやられた僕が救われたのは、面会謝絶期間が一週間を迎えたときだった。命の心配がなくなったと彼女の主治医から連絡を受けた。たった十文字の言葉に酷く安心した。褪せた世界に色が戻ってくるのをありありと感じた。
再会した雪奈は驚くほどいつも通りだった。その姿を見てホッとするのと同時に、不謹慎だが弱った雪奈が見られる貴重な機会にならなくて少し残念だった。
「絶望しても仕方ないから」
本に目を向けながら雪奈はそう言った。いつ死んでしまうかもわからない状態で前を向けるのはこの考え方が根幹にあるからだろう。ただ、そのときの雪奈の笑みは、心配させまいと親に傷を隠す子供のようだった。雪奈には心の底から笑ってほしい。でも今の僕にその願いを叶える力はない。雪奈を笑顔にしたいと思えども、面会頻度は落ちていった。会いたいという気持ちは強かれど、病院側からストップをかけられては無理に押し通すこともできない。最期に生きている雪奈に会ったのは、彼女と二度と話せなくなる五日前だった。もう起き上がれなくなって、少しの言葉を交わすのもやっとの状態だった。こちらが一方的に話しかけるだけだったが、彼女は終始幸せそうな表情を浮かべていた。
「次は品川、品川。お降りの際はお手荷物のお忘れにご注意ください」
目が覚めると、顔が熱かった。濡れて乾いてカサカサになった涙が顔にへばりついている。片手には一本の造花が、爪が食い込むほど強く握られている。ゆっくりと開いた手はあとに響く痛みを残している。造花は本物のガーベラのように精巧で可憐に花を開かせていた。花瓶にでも入っていたら、それが造花であるなど気づきはしないだろう。
ガーベラの花言葉は希望、前向き、そして常に前進。思い人を亡くした少年は彼女の遺思に沿って進み始める。夏の暑い日、運命の出会いを果たした幼い少年は暖かい陽気が訪れる少し前、寒さに満たされた最後の瞬間に別れを経験した。それでも大人になった少年は前を向いて進んでいる。いつかまた、初恋の少女に「がんばったね」と笑って言ってもらえるように。
(僕は三枝雪奈を愛している。君はどうだったかわからないけど……)
青年になった彼の胸には一輪の小さな花咲いている。永遠に枯れることのない、造花のガーベラが。




