信じ過ぎた男
転職して新しいアパートに引っ越し、荷物をほどいて一息つこうと近くの公園に足を運んだ。途中にある自販機で買った、冷えた缶コーヒーを飲み干す為にベンチへ座ろうとすると、偶然ながら新居の大家が先に腰を下ろしている。多少の気まずさを感じつつも俺は軽く挨拶をしたが、相手の様子がどうもおかしい。
契約の時に会った時は快活で健康そうだったのに、今は顔色が悪く、ぐったりしている。俺は慌てて老人に近づき声をかけた。
「お、大家さん!大丈夫ですか?」
俺の声を受けて老人は傍らに置いた黒革のバッグを震える指で指し示した。
「中に……入っている水筒を……」
しわがれた声に従い、俺は急いでバッグから白い水筒を取り出すと蓋を開けて大家に手渡した。彼は飲み口を唇に押し当てると中の液体を飲み始める。すると驚くべき変化が起こった。
土気色だった皮膚が見る見るピンク色に染まり、ツヤさえも出てくる。顔から水筒を離した時には、老人はすっかり元気を取り戻していた。精気すらみなぎった、張りのある声で大家は礼を言う。
「いやあ助かったよ!本当にありがとう!」
何が何やらわからず俺は問いかける。
「本当に大丈夫ですか?医者に行った方がいいですよ?」
大家は手にした水筒を軽く振って答えた。
「俺には持病があってね。この中には医者が作ってくれた特効薬が入ってるのさ。これがあれば病気なんて屁でもねえ。発作が起きたらこいつを飲む事にしてるんだが、さっきはつい居眠りしちまった。間一髪セーフだよ」
「そ、そうなんですか。お大事に……」
「あんたが来てくれて良かったよ。お礼に今月の家賃はいらないから」
「えっ、いいんですか?」
「もちろんさ。じゃあな、本当にありがとう」
大家は満面の笑顔で去って行った。俺はその背中を見送りながら、思わぬ幸運に缶コーヒーで祝杯を上げた。
しかし喜ぶのは束の間だった。急に長期出張が決まり、俺は2カ月も家に帰れなくなる。報酬の高さで転職したのだから仕方がない。俺はぼやきながら部屋を後にした。
2カ月後、仕事が終わりようやく帰宅した俺が聞いたのは大家の訃報だった。
俺が出張して数日後、ゴルフ場で倒れて病院に運ばれたが助からなかったらしい。俺は驚きと共に、特効薬があったのに何故と疑問に思った。当然ながら葬式には間に合わず、俺は遅ればせながら大家夫人にお悔やみの言葉を伝える為、仕事休みの日にお宅に伺った。
いかにも人の良さそうな老婆は、容姿に違わず不義理を詫びる俺を快く赦してくれた。
「せっかくだからお墓参りをしてくれませんか?この間出来たばかりで、私もお骨を納めてから初めて行くんですよ。近場なんですぐに済みますから」
そう頼まれれば断れないし、これも何かの縁だと思ったから手提げ袋を持った夫人に同行することにした。道すがら、彼女と話をする。
「大家さんのご不幸には驚きました。特効薬があるから大丈夫だとおっしゃっていたので……」
俺の言葉に夫人はため息を吐いた。
「あの水筒ね。実はあれ、中身は水なのよ」
「え?水だったんですか?」
「ビタミンを混ぜて少し味付けをしているけど、基本的にはただの水よ。あの人の持病には治療法がなくて、ずいぶん前に病院のお医者様が気休め程度にあの水を特効薬だと言って飲ませたのよ。そうしたら本当に効いちゃって。病院も私もびっくりよ。普通ならとっくの昔に亡くなっている筈なのに、今まで生きてこられたの。元々素直で何かを信じやすい人だったから、身体の方もそういう体質だったのかもね……」
プラシーボ効果というものか。2カ月前に公園のベンチで俺も見たが、水筒の中身を飲んだ大家の変化はあまりにも劇的だった。しかしそれならば、何故こんな事に?
「あの水を信じ過ぎてしまったのね。あれさえあれば生きていられると、何処で何をやるにも肌見放さず水筒を持ち歩いて。私が止めても趣味のゴルフはやめなかった。でもあの日、歳のせいか運悪く水筒を家に忘れてしまって。私も外出していたから気付かなかった。本当なら発作で倒れても病院で処置すれば、しばらくは保ったのに、水筒が手元になかったから、自分はもう駄目だと思ったんでしょう。殆ど即死だったわ」
悪い方に信じてしまったという事か。思い込みというのも良し悪しだなと俺は感じた。
そうこうしている内に墓地に到着し、俺達は大家の眠る黒光りする真新しい墓石の前に立った。夫人の後に線香を焚く。
二人で横並びになって墓前で手を合わせ拝んだ後、夫人が涙声で墓石に声をかけた。
「あなた。何をお供えしようかと考えたけど、やっぱり一番大好きなものがいいと思ったから、これを持ってきたわ」
夫人は手提げ袋から、俺がかつて見た白い水筒を取り出した。
「奥さん、それって……?」
俺の問いに夫人は悲しげに微笑む。
「あの人の特効薬よ。今更しょうがないけどね……」
夫人は水筒の蓋を開けて、中にある液体を墓石の上からかける。なるほど、ただの水に見えるその液体は墓石を万遍なく濡らして地面に染み渡っていった。
水筒を空にした夫人は再度墓前に拝み、呟く。
「苦労もしたけど、幾つになっても変わらなかった、あなたの素直さに惚れていたわ……」
そして彼女は、少しだけ晴れやかな声で俺に言った。
「さあ、帰りましょう。お時間があるなら、宅でお茶とケーキでもいかがですか?」
この老婦人に好感を抱いた俺は頷いた。
出口に向かおうと背を向けた二人の耳に、後から鈍い物音が届く。
振り向いた俺達の視界には、前後左右にごとごとと音を立てて揺れる黒い墓石があった。夫人が悲鳴に近い声を上げる。
「そんな、そんな!もう骨になっているのに!」
愕然とする俺達の前で、まるで地面から突き上げられているかの様に墓石の揺れは更に大きくなっていった……。