第壱刷 継承の重み
僕は小説に呪われた。
世界から消え掛かっていた物語の魔力を、受け継いでしまったからだ。
世界はかつて、人々の生み出す物語によって動いていた。
文学史は作家たちのペン先により紡がれ言葉は剣よりも鋭く、時に人の命を奪った。
だが、今は違う。
そんな力は文明の発達した現代には不要だと、誰もが思っている。
僕の名前は津島 綾人。文豪・太宰治の血を継ぐ少年。
物語の魔力──
この呪いとも祝福ともつかない力を背負うただの少年。
しかし、僕はまだ──
──己が何を書けば良いのか分からない。
初夏の日差しが僕たちの教室を熱気で包み込んでいた。窓の外では木々が揺れている。風に揺れる葉の音さえ、微かなざわめきとなり薫風に乗って僕の耳に届く。
教室はいつものようにざわつき、無数の声が重なり合ってまるで生き物のように蠢いている。
そんな中でも僕の視線はただ一つの小説に向けられていた。
物心ついた時から僕の周りには物語があった。
たくさんの物語に触れ、何人もの偉大な小説家を知った。
そして僕の曽祖父。太宰治もその1人であった。
物語だけが僕の居場所であり、ペンを握ればいくつもの物語を思いついた。
中学3年の夏。僕は文学とともに生きていく運命にあるのだと確信する出来事がった。
なんとなくで書いた小説が反響に反響を重ね書籍化の声が届く程までに広まった。
ただ、この時は親の許可が降りずにこの話はお蔵入りに。
しかし、この出来事があったから僕は今も小説を書き続けている。
読んでいた物語に栞を挟み机にしまい。それと入れ替えるように筆記用具と400字の原稿用紙を取り出して僕は机に頬杖をつき窓の方を眺めながらため息をこぼした。
わずかな違和感──
去年の冬あたりから時々感じるようになった。
手のひらに感じるペンの冷たさ。
窓から差し込む陽光の熱。
教室のざわめきと、自分の鼓動が重なり合う絶妙なタイミング。
一見すればただの日常風景なのだが、その一つ一つがどうしようもなく。
不確かに感じられた。
きっと僕はこのいつも通りの日常の中に、ほんの少しだけ歪みができていることに気づいてしまった。
その刹那。頭の中にふと言葉が浮かんだ。
知らない言葉。忘れられた言葉。
僕は本能的に脳内に浮かんだ言葉を目の前の原稿用紙に殴り書いた。
『悔い。いくつもの運命が重なり合い。猫に名を与え、生涯の意味を告げる。下人の行方を知り、大きな暗の中を乗り越える。物語を紡ぐものとして生きることへの希望とともに物語の危うさを知るべきである』
自分で書いておきながら何一つ意味を理解することができなかった。
だが僕の五感は、それを確かに捉えていた。
指先に感じる風化した羊皮紙のざらつき。
時代の狭間で鳴り響く、名もなき声のざわめき。
紡がれなかった物語たちの悲しげな叫び。
それらはまるで誰かが僕の心の奥深くから囁きかけているかのようだった。
教室の風景がほんの一瞬だけ歪んで見えた。
おそらくこの世界で僕だけが気づいた。
世界の底で、静かに燃え始めた炎に。
誰も見えない『物語』というどんな文化よりも異質な影が、静かに、しかし確実につかづいていることを。
文豪の血を継ぐというのはこういうことなのだろうか。
この感覚が呪いなのか。
それとも、祝福なのか。
今の僕にはそれを知る余地はない。
けれど、その力は僕の意思に関係なく僕自身を動かし始めている。
過去の偉大な文豪たちの影が、重く僕の肩にのしかかっているような気がした。
彼らの残した言葉が、今、僕の中で目覚めようとしている。
僕は何を書けばよいのだろうか。
誰かを救う物語か、それとも誰かを滅ぼす呪いか。
その選択の重みが僕の胸を締め付ける。手の中のペンが、小さく震えた。
僕はまだその原稿用紙に何も書いていない。だけれども、静かに世界が変わろうとしていることは、文字に起こされていなくとも感じることができる。
それは誰にも見えない。そしてだれもとめることのできない。
僕だけの世界で静かに動き始めた『物語の魔力』のめざめだった。