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蛾夢(がむ)〜 一夜だけ花開く月下美人

作者: 宮田 歩

がむ


メキシコに赴任して3か月、瀧本明信(27)は、異国での生活に疲れ切っていた。


言葉も文化も違うこの地での日々は孤独そのものだった。仕事以外の時間はほとんど家に閉じこもり、心が晴れることは少なかった。


そんなある日、交通量の多い道路で大きなイモムシを見つけた。異様な姿に思わず後ずさりしたが、そのまま見過ごすこともできなかった。


今にも車に轢かれそうだったからだ。


瀧本は近くに落ちていた大きな葉っぱを拾い、イモムシをそっと乗せた。


「危ないから、どこか安全な場所に放してやろう」


そう思ったものの、適切な場所が見つからず、結局そのまま自宅まで連れ帰ってしまった。


「ここまで来たのも何かの縁だな」


そう呟きながら、瀧本は空いていた水槽にイモムシの新たな住処を整えた。

その瞬間、自分の中で小さな温もりが芽生えるのを感じた。


瀧本はイモムシに名前をつけることにした。名前は「カスケード」庭園の連続する小さな滝の事である。自分の名にちなんだものだ。


孤独で辛い日々を送っていた瀧本にとって、カスケードとの暮らしは新たな意味を持つ時間となった。


瀧本は毎日、カスケードのために新鮮な葉を与え、フンの掃除をし、その成長を見守った。カスケードが食欲旺盛に葉を食べる姿や、日に日に大きくなる様子は、瀧本の心に小さな喜びをもたらした。


「君もこんな知らない場所で、心細いんだろうな」


そう呟きながら、瀧本はどこか自分自身をカスケードに重ねていたのだ。


やがてカスケードはサナギになり、蛾へと姿を変えた。


その羽化の瞬間は、瀧本にとって感動的だった。そして、蛾となったカスケードが飛び立つ日、肩にしばらくとどまり、(はね)を震わせた。


まるで別れを惜しむかのようだった。やがて翅を羽ばたかせ、夜の闇の中へと消えていった。


「元気でな、カスケード」


瀧本はそう囁き、小さな命の旅立ちを見送った。


瀧本はカスケードが飛び立ってから、再び孤独な日々を送っていた。


カスケードの成長を見守ることが、いつの間にか瀧本の心の支えになっていたのだ。異国の地での孤独を埋めてくれていた存在がいなくなった今、部屋の中の静寂が以前にも増して重く感じられた。


そんなある夜、家の前で一台の車が立ち往生しているのを見つけた。車種は真っ白なクラシックビートル。

どうやらパンクしたらしい。車の傍らには金髪の美しい女性が立っていた。


彼女の金髪は満月の光を受け、淡い光のヴェールをまとっているかのように揺らめいていた。真っ白なワンピースは風にそよぎ、月明かりに照らされた肌は、触れると消えてしまいそうなほど柔らそうで、儚げだった。


彼女からは芳醇な花の香りが漂い、静かな美しさとともに、夢の中に迷い込んだかのような錯覚を覚えさせた。


瀧本は一瞬、言葉を失ったが、すぐに声をかけた。美女だったからというわけではない。イモムシを助けるような瀧本の優しさが、そのまま彼女への行動にも表れたのだ。


「どうしました?パンクですか?」


彼女は驚いたように振り返り、微笑んだ。その笑顔は月明かりに溶け込むようで、どこか現実感を欠いているようにすら見えた。


「ええ、そうなの。困っていたところだったの」


柔らかな声で答えた彼女は、自分の名前を「リサ」と名乗った。彼女の声は、どこか風に乗るメロディーのようで、瀧本の胸に静かに響いた。


瀧本はすぐにフロントパネルを開け、スペアタイヤを取り出して交換を始めた。


リサはじっとその様子を見守りながら、時折感謝の言葉を口にした。その声もまた、甘くて優しかった。


スペアタイヤの交換を終えると、リサは瀧本に向かって柔らかく微笑んだ。


その笑顔は満月の光を浴びてさらに輝いて見えた。そして、彼女は軽く手を胸に当てる仕草をしながら言った。


「本当にありがとう。助けてくれたお礼に、ぜひ食事をご馳走させてほしいの」


彼女の声は柔らかく響き、耳に心地よかった。だが、瀧本は首を傾げた。


「そんな、お礼なんていいですよ。それに食事って言っても、この辺りにレストランなんてないですよ」


そう返すと、リサは可愛らしく微笑んで答えた。


「大丈夫よ。私はシェフなの。どこででも美味しい料理を作れるわ。それに、必要な食材なら車に積んであるの」


「え?車に?」と、瀧本は目を丸くした。


「そうよ。もしよかったら、あなたの台所を少しお借りしてもいいかしら?そこで何か作らせてもらいたいの」


思いがけない提案に、瀧本は一瞬戸惑った。

しかし、異国の地での寂しい日々を過ごしていた彼にとって、目の前の出来事はまるで夢のようだった。


こんな夜に、こんな美しい女性が、自分の家で料理を作ってくれるというのだ。


「もちろん、大歓迎です。でも、簡単なキッチンですよ?」


「それで十分よ。お楽しみにね」


リサの言葉に、瀧本は胸の奥が温かくなるのを感じた。二人はそのままリサの愛車のビートルから食材を運び出し、瀧本の家へ向かった。


リサは台所に立つと、見事な手際で料理を作り始めた。その所作は流れるように美しく、余計な動きが一切ない。手元から生まれる料理の香りが部屋に満ちていくにつれ、瀧本はリサがシェフであるという言葉を疑う余地すらなくなっていた。


できあがった食事はなんとフランス料理のフルコースだった。


香り高いスープに、完璧に焼き上げられたメインディッシュ、そして繊細なデザート。


しかも、リサはビンテージのワインまで取り出してきた。どれも完璧で、その優雅さに瀧本は言葉を失った。


食事が始まると、リサの話術にも驚かされた。彼女は聡明で、話す内容も知己に富んで面白い。言葉には、どこか懐かしさと親しみを感じさせる不思議な力があった。


美味しい料理と心地よい会話に包まれ、時が経つのも忘れるほど楽しい時間が流れていった。


食事を終えると、リサは静かに立ち上がり、部屋の明かりを全て消した。瀧本が驚く間もなく、窓から差し込む満月の光が部屋を優しく照らした。


リサはその光の中でたたずみ、横顔が月明かりに浮かび上がった。


まるで夢の中にいるかのようだった。リサの姿はあまりにも美しく、触れたら壊れてしまいそうなほど儚げだった。


リサはそっと目を閉じた。その仕草に誘われるように、瀧本は我慢できず、彼女を抱き寄せて唇にキスをした。


リサの唇からは芳醇な花の香りが漂い、甘い蜜のような極上の味がした。夢のようなひとときだった。


しかし、次の瞬間、瀧本は自分のベッドで目を覚ました。窓の外にはすでに朝日が差し込んでいる。リサの姿はどこにもなかった。


「夢だったのか…」


呟いた瀧本の胸には、まだ彼女の花の香りや甘い蜜の様な味が微かに残っているような気がした。


瀧本は幸せな気分に包まれていた。


リサとの夢のような時間がまだ心に鮮やかに残っている。


もう一度その夢の続きを見たいと願いながら、そっと目を閉じた。


すると再び夢が訪れた。


育てたカスケードが蛾となり、満月の夜空に向かって飛び立つ光景だ。


小さな翅を広げ、空を切るように軽やかに舞うその姿は、どこか誇らしげで美しかった。


蛾は森の中を進んでいった。


そして、満月に照らされた奥深い場所にたどり着いた時、そこに一輪の大きな白い花が咲いているのを見つけた。


花びらは純白で、柔らかな光を放っている。


月下美人──その名の通り、一夜だけ咲く儚い美しさが静寂の中に光り輝いていた。


カスケードは月下美人に引き寄せられるように近づき、静かに蜜を吸った。


その瞬間、瀧本の心にリサの静かに目を閉じた顔が浮かんだ。


彼女が見せた優しさ、美しさ、そして儚さ。それはまるでこの月下美人と重なり合い、心に深く刻まれていく。


目が覚めた時、瀧本の胸には不思議な充足感が残っていた。


リサの姿も言葉も夢の中の出来事だったのかもしれない。


それでも、瀧本の中に芽生えた何かが確かに現実を変えていた。


孤独に覆われていた心は、今、温かな光で満たされている。


「ありがとう、カスケード。そして…リサ」


瀧本は窓の外に浮かぶ満月を見上げ、そっと微笑んだ。


その先には、新たな日々が待っているかのようだった。



読んで頂きありがとうございました。

もしよかったら、他の作品も読んでください。

よろしくお願いします。

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