第二十三話:『死んでも貴女と』
「───こんばんは。」
午後8時。
本日の営業を終え、最後のお客さんを送り出して間もなく。
後片付けを行っていたところへ再び、ドアベルが鳴り響いた。
お客さんの誰かが、忘れ物を取りに戻ったのだろうか。
カウンターから何気なく振り返ると、見知らぬ人物がドアの前に立っていた。
「クローズなのに、すいません。ちょっとだけ、いいですか。」
見知らぬ、じゃない。
この優しい低音は、私が焦がれてやまなかった声。
音ちゃんの声だ。
「もしかして───、音ちゃん?」
音ちゃんは暗がりから数歩踏み出して、証明するようにマスクを下げてみせた。
やっぱり、音ちゃんだ。
前より静観な顔付きになったけれど、確かに音ちゃんの顔だ。
「お久しぶりです。
入って構いませんか?」
「ど、どうぞ。」
マスクを戻した音ちゃんは、一言断ってカウンターに近付いてきた。
「ほんとに、久しぶり……。生きてたんだね。」
「ええ、まぁ。」
「というか、───変わった、ね。」
「……ええ、まぁ。
一年以上、経ちますから。」
照明の下に出ると、顔付き以外の変化も見て取れた。
髪色は、金から緑に。
装いは、フォーマル寄りカジュアルから、暴力団の下っ端風に。
良くも悪くも、大胆なイメージチェンジだ。
念願の再会が、こんな形で実現するとは。
「と───にかく、よく来たね。
せっかくだし、一杯ご馳走させてよ。ノンアルコールも充実させたんだよ。」
ポーカーフェースを気取りながらも、私は内心で大喜びした。
犬だったら尻尾を振ってるってくらいに、自分から突き放したことは棚に上げて。
「いえ。すぐ帰るんで。」
「あ、そう……。」
対して音ちゃんは、実際のポーカーフェースだった。
やけに淡々とした口調で、目線も下を向いたまま。
あの音ちゃんと本当に同一人物なのか、疑わしくなるほどに雰囲気が暗い。
嫌な言い方をすると、荒んだとか、やさぐれたって表現が適当だ。
「それで、改まってどうしたの?なにかのご挨拶?」
そうだよな。
こうも身勝手なオバサンを、いつまでも好きなわけないよな。
未練があるのは、私だけだ。
「こないだのニュース、見ましたか。」
「ニュース?」
えらく突拍子のない、ざっくりとした切り口。
私が首を傾げると、音ちゃんは重ねて問うた。
「同性婚を認めないのは違憲だってやつ。
全国のセクマイが沸いたやつですよ。」
「ああ、あれか。」
長らくタブー視されてきた同性婚に対し、タブー視自体が違憲であると、札幌地裁が判断した問題。
まだ地裁の域は出ておらず、その他主要国と比べると遅まきも甚だしいが、それでも大きな前進。大いな躍進だ。
音ちゃんの言うように、全国のLGBTが沸き立った嬉しいニュースを、当事者の一人である私が知らないはずなかった。
「もちろん見たよ。
まだまだ先行きは長そうだけど───」
「私考えたんです、」
私の返事に被せて、音ちゃんは続けた。
「例の呪いだか体質だかって話。
あれ、恋人同士って括りになると駄目なんですよね?」
一年ぶりに持ち出された議題。
全くの別件で訪ねたのかと思いきや、そのことについて言及しに来たのか?
わざわざ?今になって?
互いに適う妥結はないと、互いに悟ったからこそ、一年も音信不通だったんじゃないのか?
「括りっていうか、まぁ……。
それに近い関係になると、かな。」
「じゃあ────」
パーテーション越しに、ずいっと顔を寄せられる。
「"恋人以上"の関係になれば、レッドゾーンから抜けられる可能性ありませんか。」
「は?」
なんのこっちゃ、と私は呆けた。
音ちゃんは歩きながら話し、今度はカウンターの中に入ってきた。
「同じくらい親密でも恋人は駄目で親友はオーケーなのってきっと恋愛感情が伴うか否かの問題ですよね。
私が思うに恋人であり親友のような関係こそ夫婦の在り方なので、夫婦になれば恋愛感情プラスその他諸々が必然に付与されるわけです。
つまり恋人を対象に発動するっていう志帆さんのアレも、夫婦にランクアップしたらハードルダウンってか中和されることになりませんか?」
「そ、ソーシャルディスタンス……、」
「PCR受けてきたんでご心配なく。」
音ちゃんの息が途切れた頃には、私は壁際まで追いやられていた。
このまま音ちゃんが手でドンしたら、少女漫画界隈で一時期流行った構図の完成だ。
「ンー……と?
友愛的・慈愛的感情を含む、"パートナー"および"家族"になれば、単なる"恋愛"って括りではなくなるから、ノーカウントのギリギリセーフになるんじゃないかってそういう……?」
「そういう。」
恋人でいられないのなら、夫婦になってしまえばいい。
"あるたいへんに身分の高い女性"を彷彿とさせる理屈だが、音ちゃんの言い分は大体わかった。
つまり音ちゃんは、私との未来を諦めていなかった。
音ちゃんの方も、まだ私を好きなんだと、都合よく解釈していいのだろうか。
「色々めちゃくちゃだけど……。
言いたいことは一応、わかったよ。
でも、同性婚が実現するのなんて、いつになるやらだし。
実現したとして、社会での扱いがほんの少し変わるだけだ。
互いの関係値や感情まで左右されるとは思えない。パートナーシップ制度にしても同じだ。
リスクがゼロとは言えない以上、承服はできない。」
しかし、そこはそれ。これはそれ。
手放しでは賛同できないし、受け入れられない。
私は音ちゃんを諭して、ようやく一息ついた。
「───私ね。
半年前、癌になったんです。」
ディスタンスが保たれる位置まで引き下がった音ちゃんは、俯きがちに語りだした。
またもや突拍子のない切り口に、私はせっかくついた息を止めた。
「幸い、早期発見だったんで、手術を受けて根治できました。
お医者さんが言うには、若い女性がなりやすいタイプのだって。ただし、20代で罹患するのは、極めて稀だとも。
なんでそんなものが見付かったか、分かりますか。」
半年前となれば、別れてからの半年後だ。
私の呪いが尾を引いて、時間差で音ちゃんに影響した可能性が十分ある。
いや、そうとしか考えられない。
「なんで、て……、」
なんて答えればいい。
とりあえず質問で返すか?先んじて謝るか?
いや、謝ってなんになる。
私に謝ってほしくて、音ちゃんはそんなことを言い出したんじゃないだろう。
ぐるぐると巡る思考とは裏腹に、硬直した体は正常に語彙を拾えない。
「人間ドックに行ったんですよ。生まれて初めての。
こういう時期だし、控えるべきとも思ったんですけど、怪我のこともあったから、念のためって。
そしたらこうなった。」
何もかもお前のせいだ、と詰るのではなく。
貴方のおかげなんだと、音ちゃんは笑った。
「志帆さんの存在がなければ、私ずっと、人間ドックなんて行かなかったと思うんです。
なんだかんだ若いし、今まで大病したこともないしって、余裕ぶっこいて、適当な生活送って。
なんか最近体調おかしいなって、気付いた頃には手遅れだったって、なるはずだったんですよ。本来は。
それが、思い付きで検査してみたらドンピシャで。
再発しないようにって、健康志向に努めるようにもなった。志帆さんと約束した以上に、徹底して。
今じゃ、あと少しでオールAってとこまで来てんですよ数値。すごくないですか?」
「えっと────」
「逆転の発想ですよ、志帆さん。」
パッと顔を上げた音ちゃんは、爛々とした目で私を見据えた。
「志帆さんのせいで、みんな不幸になったんじゃなく。
みんなの不幸を、志帆さんだけが予知できたんだとしたら?」
「もともと、そういう運命にあった人を、私が選んできたと?」
「そう。」
「……前にも話したと思うけど、その可能性ももちろん、考えたよ?
でもそれとこれとは───」
「だって、きっかけがなかったら私は、病院へは行かなかった。
志帆さんと出会ってなかったら、自分を省みることすらしなかったかもしれない。」
「君は────」
「ね、よく思い出してみて。
お三人が亡くなられた理由。原因って言うべきか。
よくよく突き詰めてみたら、志帆さんとは関係ない因果も絡んでたんじゃないですか?」
因果。
言われてみれば、彼女たちの死からは因果の匂いがした。
先生を蝕んだ病気は過去の性体験が元で、お嬢さんを轢いたドライバーは酒蔵の取引相手。
彼女を殺した犯人は、彼女に付き纏っていたストーカーだった。
いずれも、私と出会う前からの縁。
直接の死因を含めて、私は知らぬ存ぜぬを通せなくはない、けれど。
「私が癌になったのだって、志帆さんと別れた後です。
志帆さんと関わりさえしなければ安全、って仮説も、これじゃ成立しないですよね?」
「そうだけど、」
「コロナで辛いのも私だけじゃないですし、まさか世界規模の厄災まで自分のせいとか言わないですよね?」
「そ、だけど───」
「わかってます。ええ。
あなたが死ぬほど頑固で卑屈ってことくらい。
何をどう言っても、納得はしてくれないんですよね。」
音ちゃんの冷たい手が、私の頬を撫でる。
私は金縛りに遭ったように身動きが取れず、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「だから、もう一年待ちます。
一年後にまた、プロポーズをしに来ますから。
その時まで私が生きていられたら、今度こそ素直な返事をください。」
一方的に告げると、音ちゃんは私にキスをした。
頑なに封じてきた唇に、分厚いマスクを隔てたキスを。
「次は、こんなもんじゃ済まさない。」
この日を境に、音ちゃんは再び姿を消した。




