第十六話:燃えるように
先生が亡くなった翌年の春。
まるで後を追うように、私の父が急逝した。
アルコール過多による動脈硬化が招いた脳卒中。
平たく言うと、お酒の飲み過ぎが祟って、頭の血管ブチ切れて死んだ。
病院へ運ばれた頃には、既に手遅れだったそうだ。
「───これからは、私とお前の二人きり。
あの人のいない分まで、支え合って生きていきましょう。」
「……はい、母さん。」
不思議なほど、なんの感情も湧かなかった。
ずっと死ねばいいと、殺してやりたいとさえ願っていたのに。
現実には嬉しくも悲しくもならなかった。
先生の死から間もなかったこともあるので、こっちにまで気持ちが回らなかったのかもしれない。
「───急なことで、さぞ大変だったでしょう。」
「ええ。
でも娘がいてくれますし、遺産も少しはあるので。」
「そうね。
せめて娘さんが成人した後だったのが、不幸中の幸いね。」
「ええ。
本当によく出来た子で、頼りにしています。」
どうせ死ぬなら、先生の分も引き受けてほしかった。
先生の分まで、お前が二回死んでくれたなら、誰も不幸にならずに済んだのに。
父方の親戚に香典返しへ伺った際にも、そんな不埒を考えていた私は、とんだ欠陥人間だ。
「───"アルコールが齎す人体への影響"……。
これはまた、下世話なテーマを持ってきたな。」
「下世話だからこそ、切っても切れないと思ったので。」
「なるほど。
うちの学部では扱った例が少ないし、悪くないんじゃないか?」
「ありがとうございます。」
「にしても、なんで酒について書こうと思ったんだ?
好きなの?」
「逆です。
大嫌いだから、正体を暴いてやりたいんです。」
立て続けの不祝儀を経て、ようやく日常が戻ってきた大学四回期。
卒論のテーマをどうするか迫られた私は、お酒と人の付き合い方について考察することにした。
飲まないと居られなかった父と、好みはするが呑まれることはなかった先生。
同じ酒好きにして、ああも差が生じたのは何故か。
精神と肉体の両面にスポットを当て、"お酒とは何ぞや"を私なりに突き詰めた。
父を狂わせた元凶を解き明かせば、少しは赦してやる気になるかもしれないと、淡く期待して。
「───卒論ってもっと、地球とか宇宙とか、夢のある大っきなテーマを掲げるもんだと思ってたよ。
あ、悪い意味じゃなくてね。身近な問題を攻めてやろうなんて、なかなかシブいことするなーってさ。」
期待は見事に打ち砕かれた。
父は、お酒のせいで狂ったのではなかった。
元から狂っていた父を暴いてくれたのが、お酒だった。
「───ウチは一応、大正の頃から続いてますから。
先輩方にしてみれば、それでもヒヨッコの部類なんでしょうが、プライドはありますよ。自分の代で途絶えさせる訳にもいきませんのでね。
良かったら、いくつか試飲していかれます?」
「───もちろん、妙なのも来るには来ますけど。数えてみれば案外、一握りですよ。
大概の人は、こっちが注意しなくても、自分でマナーを守ってくれます。
我々は後者のような、正しく楽しんでくれる人に、楽しい時間と空間を提供するのが役目です。」
老舗酒蔵の当代も、流行りのラウンジオーナーも。
みな、誇りを持って仕事をしていた。
人々の暮らしを豊かにするため、彼らは酒を作り、売っていた。
単に金儲けの場合もあるとして、私が取材した限りには当て嵌まらなかった。
「───本当に出ていくの?
家からだって、通えなくはないんでしょう?」
「通えても、朝帰りすること多いらしいから。
不規則な人間と暮らすのは、そっちのがしんどいよ?」
「私は別にそれくらい───」
「そういうわけだから。元気でね、母さん。」
残念ながら、卒論は及第点に終わったけれど。
先の一件で、私は三つのものを得た。
一つは働き口。
取材先であるバーラウンジにて、オーナーさんにスカウトされた。
お酒に対する暗いイメージは払拭されたし、店の雰囲気にも惹かれたので、口約束ながら了承した。
二つは恋人。
別の取材先である酒蔵にて、跡取り娘にアプローチされた。
当面は恋愛をしない気でいたが、あまりに熱心に迫ってくるので、白旗を上げざるを得なかった。
三つはパーソナルスペース。
自立するに伴って、生家を出た。
母からは相当に渋られたが、絶縁するわけでなし、たまには様子を見に来るし電話もしてやる。
親離れ子離れをするには、丁度いい機会だった。
「───志帆ちゃん、これ。」
「なんですか?」
「ラブレター。
今週入って三度目ね。」
「相手は?」
「30代半ばくらいの、OLさん風のお姉さん。」
「夜の魔法は恐ろしいですね。」
「またまた謙遜しちゃって~。
おかげ様で売上も好調だし、すっかり招き猫ちゃんだ。」
「招いてもネコはやらないですよ。」
「おっと、そうだった。
ま、ぼちぼち対応してやって。」
仕事は順調。
真面目な働きぶりを評価され、一介のスタッフからバーテンダーへの転身を奨められた。
腰かけ同然に始めた水商売は、まさかの天職だった。
「───しーいちゃん、みてみて。」
「メガネ?」
「そう!ダテなんだけどね、友達に貰ったんだー。
アラレちゃんみたいで可愛いでしょ?」
「うん。かわいい。」
「……もしかして、先生と重なっちゃう?」
「………ごめん。」
「謝んないで。こっちこそ、無神経でごめんね。
やっぱりこれ、しいちゃんの前では掛けないようにするから。」
「そんなこと言わないで。よく似合ってる。」
「でも────」
「今の私は、君が好きだから。」
「……うん。
あたしも、今のしいちゃんが好きだよ。」
恋愛の方も存外、順調だった。
跡取りのお嬢さんは色んな意味で真っすぐで、その純粋さと力強さが私の傷を癒してくれた。
先生の手前、罪悪感がなくはなかったけれど。
すべてを引っくるめて、お嬢さんは私を愛してくれた。
「───どうしたのよ、それ。」
「ピアス?開けた。」
「どうして。」
「なんとなく。」
「"なんとなく"で親から貰った体に───」
「タトゥー入れるよりマシでしょ。これ今月分。」
「ちょっと待ちなさい志帆。
こないだも突然、髪染めたりして、一体なんだっていうのよ。
私への当て付け?」
「来月からはまた振り込みにしておくから。」
「志帆!!」
変わりたかった。
変わる努力をした。
コンペに出るためバーテンの腕を磨き、お嬢さんともデートを重ねた。
以前の私と逆をいけば間違いないだろうと、信じていた。
「───それって、いつ頃から始まったの?」
「たぶん先月。
厄年でもないのに、ほんとヤんなっちゃうよ~。」
カウントダウンは、また突然始まった。
「───てなわけで、じゃん。ニューモバイル。」
「おおー。CMのやつ?」
「あたり!」
「使いやすい?」
「まあまあかな。
問題はデータよ。しいちゃんとの思い出、ほとんど消えちゃった。
こんなことなら、まめにバックアップ取っとけば良かったぁ。」
「……また、増やしていけばいいじゃない。
消えないように、今度はちゃんとしたカメラでも撮ってさ。」
「だね。
思い出自体が無くなるより、よっぽどマシだよね。」
"聞いて、またアンラッキーがね"。
いつからか恒例となった、お嬢さんのトラブル報告。
何もないところで転びやすくなったり、手回り品を紛失しやすくなったり。
ある時から不運の連鎖が始まり、日に日にエスカレートしているという。
私は俄に胸騒ぎを覚えながらも、埋め合わせの利かないことはないからと、お嬢さんを励ました。
励ますしか、しなかった。
『───志帆ちゃん?』
コンペを控えた週末。
毎日欠かさなかったお嬢さんとのメールが、途絶えた。
手隙もないほど忙しいのだろうと配慮して、その場では催促せずに返信を待った。
『いつも、娘がお世話になっています。
今日は、娘に代わって、お伝えしなければならないことがあって。
私の方から、ご連絡させて頂きました。』
三日後。
知らない番号から、私の携帯に電話があった。
娘が交通事故に遭い、亡くなったと。震える声の主は、お嬢さんのお母様だった。
メールが途絶えた当日に、お嬢さんは酒気帯びの車に轢かれて、死んだ。
搬送するまでもなく、即死だったそうだ。
「───毎日毎日、今日はシイちゃんとこんなことをした、こんな話をしたって、そればっかり。
私たちが笑って、ハイハイってあしらうまでがお決まりだった。」
「はい。」
「過去にお付き合いしていた、どんな男の子より、あなたに夢中だった。
あの子が選んだ相手ならって、私たちも納得できた。」
「はい。」
「いつか、日本でも同性婚が認められたら、シイちゃんと二人で、一番キレイでゴージャスなドレスを着るんだって。
さすがに気が早いんじゃないって、また皆で笑って、なんだかんだ皆で、楽しみだった。」
「はい。」
「人って、本当に、いきなり死ぬのね。」
「………。」
「あなたのおかげで、あの子は幸せだったわ。」
「いいえ。」
「ありがとう、志帆ちゃん。
あなただけでも、どうか、健康に、長生きしてね。」
死んだ。また死んだ。
知り合って二年、付き合って一年。
恋人が、また、死んだ。
お嬢さんは、先生とは真反対のタイプだった。
髪型は先生と違って短髪で、体型は先生と違って小柄で、顔立ちは先生と違って可愛い系で。
年齢も先生と違って、私より年下だった。
先生とはやらなかったことも、たくさんした。
手を繋いでデートにも行ったし、ご両親へ挨拶にも伺ったし、"大好き"も"愛してる"も伝え合った。
なのに死んだ。
先生みたいに、恋人になって一年で死んだ。
さすがに二人連続となれば、ただの偶然とは言い難い。
もともと死ぬ運命にあった人を私が選んでいるのか、私が選んだせいで死ぬ運命を辿ってしまうのか。
かなり際どい二択だが、重要なのはそこじゃない。
「───気持ちは分かるけど、でも……。
あんなに頑張ってきたのに……。」
「いいんです。
こんな状態で臨んでも、お店の評判潰すような結果しか、出せないですから。」
お祓いをした。
オカルト雑誌を読み漁った。
祖先や生家のルーツを洗った。
なにが原因なのか、調べて調べて調べ尽くした。
なにも分からなかった。
私が悪いとも、相手が悪いとも、確証はどこにもなかった。
改善のしようがなかった。
樫村志帆の恋人だった女性が、死んだ。
耳を塞ぎたくなる事実だけが、残った。




