第十五話:焼けたような
『───ごめん、遅いのに。ちょっといいかな。』
カウントダウンは、突然始まった。
『聞こえなかった。もっかい言って。』
『だーから、癌だよ癌。ガーン。』
『なんで。』
『なんでも何も、なんでかよく分かんないのが癌でしょ。』
『ちょっと待って。待って待って待って。まって。
いっかい冷静になる。』
『そうして。』
『前の時は見付かんなかったんだよね?なんでこんな急に?』
『一年でモリモリ増殖しちゃったんじゃない?
それだけ、わたしの体が居心地いいってことね~。』
『子宮系の癌って、いきなり癌にはならなくて、なんとか異形成?ってのを経て、徐々にって聞いたことあるけど。』
『よく知ってるね。』
『……治るんだよね?』
『んー。
ま、なるようになるっしょ。』
"病気になっちゃった"。
口ぶりは他人事のようでも、必死に嗚咽を堪えているのが、スピーカー越しにも分かった。
ステージ1の子宮頸がん。
昨年の検診には居なかったはずの"そいつ"は、着々と先生の体を蝕んでいった。
「───てんい、」
「する前に、元を取っちゃうの。」
「他に……、方法ないの?」
「なくはないけど、後手後手になっちゃうから。
どっちみち進行は止められないし。」
「だからって……。
なくなるんでしょ。体の一部。消えちゃうんでしょ。怖いでしょ。」
「怖くても、命なくなるよりかマシってね。
いやー、結婚してなくて良かった。」
「………。」
「そういうわけで、別れてください。」
「ふざけんな。絶対やだ。」
「こっちのセリフ。
子宮頸がんの主な原因、調べたんでしょ?
残念ながら、わたしは清廉潔白じゃあないのよ。」
「30年も生きてりゃそんくらいあるでしょ。
前は普通に彼氏いたってのも聞いた。」
「それともなーに?
カラッカラのミイラになってく様をお披露目しろっての?」
「そうだよ。」
「今より益々しんどくなるんだよ、お互いに。」
「分かってる。」
「分かってない。」
「分かってないのはアンタの方。
病気の恋人捨ててくなんて、私に十字架背負わせるつもり?
下の世話でも何でも、させてよ。」
「……ほんとに、言うようになったなぁ。」
ステージ1だから。
早期の範疇だから。
前向きでいられたのは、最初のうちだけ。
癌とは、血気盛んな若者こそ抑えるのが難しい病。
先生の場合も例外ではなく、あっという間にステージ1から2、2から3へと移行し、子宮の全摘出を余儀なくされた。
「───そんな泣かないでよ。目腫れるよ?」
「代わってあげたい。」
「断固拒否。」
「アンタばっかりこんな、かわいそう。」
「女じゃなくても愛してくれるかい?なんちゃって。」
「当たり前でしょ。
ミイラになってもババアになってもキスしてやるよ。」
「ミイラからババアなの?ふつう逆じゃない?」
"女じゃなくなっちゃった"。
また他人事のように笑った先生は、子宮どころかおっぱいの肉も削げ落ちて、本当に性別を失くしたみたいだった。
私はなんと言葉をかけて良いか分からず、どんな姿になっても貴方を好きだと伝えることしか出来なかった。
「───ほんとに誰も来ない?」
「当分はね。
で、どうやって持って来たの?」
「これ。」
「水筒じゃないか。小学生の遠足みたいだ。」
「中身は大人の飲みモンだけどね。はい。」
「ありがとう。キミも。」
「ん。」
「改めて、ハタチの誕生日おめでとう。」
「ありがと。
80まで祝ってね。」
「おや、あと60年ぽっちでいいのかい?」
「じゃあ100まで。」
「その頃には……、わたしは114かぁ。」
「イイヨー、の年じゃん。」
「イーヨー。
あはは、ほんとだ。」
宣告から一年後の秋。
闘病も虚しく、先生は天国へと旅立った。
私の成人祝いとして、周りの目を盗んで酌み交わした、三日後のことだった。
「───まさか、気付かれていなかったとでも?」
「え……。」
「僕が許可を出したんです。
まだ味覚がハッキリしているうちにと、ご本人から要望があったので。
だから特別に、目をつむったんですよ。」
「そうだったんですか……。」
「……喜んでおられましたか?」
「……はい。とても。」
直前にお酒を飲ませたせいに違いないと、私は担当医に白状した。
担当医は飲酒との因果関係を否定し、いつ息を引き取ってもおかしくない状態にあったと付け加えた。
もしかしたら、あなたが大人になるのを待っていてくれたのかもと、看護師さん達には慰められた。
「───志帆ちゃん。」
「あ……。おばあちゃん。」
葬儀は密葬。
先生の親族と、先生と親しかった一部の友人のみで、内々に執り行われた。
そこで私は、先生の生い立ちを知った。
「てことは、先生のご両親がお見舞いに来なかったのって───」
「連絡はしたんだけどね。何度も。結局、返事はこなかった。」
「入れ違い、なんだと思ってました。私とは時間帯が別なだけで、私のいない時に、ご両親と会ってるものとばかり……。」
「そう……。
話してなかったのね、あなたには。」
「どうして、言ってくれなかったんでしょう。
実は疎まれていたんでしょうか。」
「逆ね。大切だったのよ。
だから変に心配されたり、同情されたくなかったんだわ。」
「心配、させてほしかったのに。」
「ありがとう。
あの子を支えてくれて、あの子を好きだと言ってくれて。
本当に、ありがとうね。」
先生の父親は、彼女が生まれて直ぐ出奔。
母親もシングルマザーとしては生きられず、実家に先生を押し付けたらしい。
おじいちゃん・おばあちゃんに育てられたとは聞いていたが、仕事で忙しい両親に代わってなんだと解釈していた。
両親の存在自体が抜け落ちていたとは、想像もしなかった。
だって、そんな素振り皆無だった。
底抜けに明るくて、なんとかなるさが口癖だった先生が、実は深い悲しみを抱えていただなんて。
「いかないで、」
子供っぽいと、この人には私が付いていてやらないと駄目なんだと、思っていた。
違った。
先生はとても大人で、私が先生を必要としていたんだ。
「もえないで、」
碌にお礼も、生意気に接してきた詫びも出来なかった。
先生と出会えたおかげで私の人生は始まったことを、ちゃんと伝えられなかった。
「きえないで、」
もっと堂々と、イチャイチャしておけば良かった。
誰に後ろ指を差されようと、恋人なんだと皆に自慢して、真昼でも手を繋いで歩けば良かった。
もっと、何度でも、一生分を前倒しにするくらい、愛していると言えば良かった。
「やっぱり、お酒は嫌いだ。」
抜け殻のようにして迎えた49日。
先生と最期に酌み交わした日本酒は、一人で飲むと味がしなかった。




