第十二話:マッドジンクス
「───じほざんは、」
ずびずびと鼻を啜りながら、志帆さんの方に振り返る。
「志帆さんは、なんでだったんですか。
男に生まれなくて良かったって、思ったの。」
薄く笑った志帆さんは、私の涙を拭ってくれた。
「私も、父親だったよ、クソ野郎。」
「どんな……?」
「お酒で暴れるタイプの人。
酔うと色んな箍が外れて、母と私をビール瓶で叩いた。」
「……離婚は?しなかったんですか?」
「する前に死んだ。
飲み過ぎが祟って、頭の血管ブチ切れて地獄行き。
でなきゃ私が殺してた。」
涼しげに毒づく志帆さんだが、不思議と悪い印象は覚えなかった。
むしろ、志帆さんほどの人でも、クソ野郎とか殺すとか、口汚くなる一面があるんだと。
亡き父親に対する憎悪さえ、酷く扇情的に感じられた。
「じゃあ、せめてもの幸い、でしたか。
クソ親父いなくなれば、お母さんと二人で静かに───」
「静かに、生きられたら良かったんだけどね。」
指先で私の鼻を摘まんだ志帆さんは、力なく壁に凭れ掛かった。
父親が早死にしてくれて万事解決、とはいかなかったようだ。
「お母さんとも、なにかあったんですか。」
「それこそモラハラってやつだよ。父親が生きてた当時からね。」
「どういう?」
「一人娘として、一人の女の子として、模範的であるようにって、幼稚園の頃から教育されてた。
父親があんな調子だったから、余計に私に執着したんだろうね。
よく私のことを、"生き写し"だの、"もう一人の自分"だのって言ってたよ。」
志帆さんのお母様は、"我が子に自分を投影する"タイプだったようだ。
"この子だけは、いつでも自分の味方でいてくれるはず"。
"この子には、自分が叶えられなかった理想の人生を送ってほしい"。
お腹を痛めて産んだからこそ、盲目的に信頼するし執着する。
一見には愛情が深いようでもあるが、突き詰めればエゴイズムに他ならない。
"子"としての志帆さんばかりを求め、"個"としての志帆さんを蔑ろにする。
ある意味で、私の母が父に受けたそれより残酷で、救えないかもしれない。
「今はどうされてるんですか?」
「稚内の、どこだったかな。
学生来の親友が同じように、配偶者に先立たれたとかで、合流したんだよ。
独り身同士、一緒に暮らそうってさ。」
「子離れしてくれたんですね。」
「向こうがっていうか、私が突き放した。
ちょっとずつ家を空ける機会を増やしていって、私がいない環境に無理やり慣れさせた感じ。」
「……う、上手くいって良かった、ですね。」
「苦労したけどね。
月一で電話はしてるから、それくらいの距離感で丁度いいんだよ。
あの人も、私も。」
志帆さんの纏う色気は、ひとえに才能でも、天性でもなかった。
壮絶な幼少期を経て、数多の苦難と絶望を乗り越えた末に、レズビアンでボイタチでふんわりサディストでバーテンダーの樫村志帆となったんだ。
どうりで私は、本来の好みから外れた彼女に、こうも惹かれてしまったわけだ。
「お酒で苦労したのに、バーテンダーになろうと思ったのは?」
「お酒が人を悪くするんじゃなくて、悪い人をお酒が教えてくれるんだ、って気付いたから。」
「なんか聞いたことある。」
「テメエの本性あぶり出すツールと思えば、お酒ほど合理的なものもないでしょう?
悪酔いしておイタする奴がいたら、さっさと叩き出してやれるしね。」
ニヒルな志帆さんがカッコ良くて、流した涙がすっかり乾いた。
酒の勢いで言動が荒くなったりすれば、私も容赦なくフロムニキータを出禁にされるんだろうな。
恐ろしくて、なんだか嬉しい。
「"あんまり見せたいものじゃない"。
ってのも、そういう理由だったりしますか。」
志帆さんと同じ目線まで起き上がる。
志帆さんは再びこちらに背を向けると、シャツのボタンを外し始めた。
「汚いでしょ。
コーヒー零したみたいで。」
露になった志帆さんの背中には、茶色い染みが点々と広がっていた。
色素沈着でこれだけ濃いのだから、生傷はさぞ痛々しかったことだろう。
私は返事をするより先に、"コーヒーを零したような"背中に手を伸ばした。
「痛かったですか。」
「忘れた。」
「忘れるわけないでしょ。忘れたいだけ。」
盛り上がった肩甲骨と、浮き上がった脊柱に、指を這わせる。
辛うじて女性性を残した、志帆さんの体。
柔らかさも温もりも人並みに足らないけれど、好きな人の一部とあれば、無条件で愛おしい。
「ね。気持ちいい。」
タオルケットを開けて、後ろから志帆さんを抱きしめる。
肌と肌を重ね合わせて、私の鼓動を直に伝える。
無言で抱擁を受けた志帆さんは、私の回した腕に恐る恐ると触れた。
「好きです。」
「目覚ませって。」
「覚めてます。」
「君はいい子だ。
素晴らしいお母様の教えを大事に、悪い父親の影と一生懸命戦ってる。」
「志帆さんだって。」
「私は戦う前に死んだ。
君と違って、母親もまともじゃなかった。
生まれも育ちも野蛮なんだよ。」
「だったら世界イチ綺麗な野蛮です。」
「聞き分けがないなぁ。」
何度繰り返したか分からない押し問答。
志帆さんが呆れて喉を鳴らす。
そのまま諦めてよ。
私を諦めさせることを。
「こうなったら、切り札を使うしかないね。」
「切り札?」
「私の愛した女たちが、どういう末路を辿っていったか、教えてあげよう。」
抱擁を解いた志帆さんは、私の心臓のあたりを指差した。
「死ぬんだ。」
「は、」
「一人は病気で死に、二人は事故で死に、三人は殺された。
三人が三人とも、原因は別でも、最後には死んだ。
私と恋をするってことは、そういうこと。」
志帆さんの冷めた息遣いが、淀んだ眼差しが、ブラフでないと駄目押ししてくる。
死ぬ。
志帆さんの恋人となった女性は、漏れなく死ぬ。
じわじわと進んでいった不幸が、最終的に死を招く。
さすがの私も、それくらいヘッチャラだと、即答はできなかった。
「この三ヶ月、一緒に過ごしてみて、君が見た目以上に素敵な子だと分かった。惹かれ始めてるのも白状する。
だからこそ、もう駄目だ。今ならまだ引き返せるから、終わりにしよう。
友達としてなら、末永く、仲良しでいられるはずだから。」
私の胸板に、志帆さんが額を預ける。
きっと、悲しい顔をしているんだろう。
もしかしたら、泣いているかもしれない。
反対に私は、目一杯に口角を吊り上げた。
「やです。」
「おい。」
志帆さんの潤んだ瞳に睨まれる。
泣きそうだけど、泣いてはいない。
「だって今、"惹かれ始めてる"って言った。」
「だから駄目なんだって───」
「"最後には"、死ぬんですよね?
段階があるなら、付き合ってすぐ死ぬわけじゃない。」
「屁理屈だ。」
「屁理屈上等。
ンなふざけたジンクスに、いつまでものさばられて堪るか。」
先程されたように、鼻を摘まみ返してやる。
志帆さんは"ふぎぃ"と、子豚に似た声を発した。
「これからはもっと野菜食べて、運動して禁煙して、お酒も程々にします。
間違っても自分で死んだりしません。」
「………。」
「烏にフン落とされたり、道端のガム踏んだりした時は報告します。
どんなに些細なことでも、アンラッキー起きたら逐一教えます。」
「音ちゃん、」
志帆さんの頬を両手で包み、軽く持ち上げてやる。
「絶対死なないから。
少なくとも10年、いや20年は、志帆さんの目の黒いうちは、絶対死なないから。
いいかげん聞き分けろって、樫村志帆。」
堪えきれず表情を歪めた志帆さんは、今度は正面から私を抱きしめた。
「この大馬鹿者、」
やっと泣いたか、大頑固者。




