ベランダ庭園を散歩する
五階にある緩和ケア病棟には、車椅子に乗って散歩ができる小さな庭がある。
やわらかな陽が射す穏やかな小春日和に、母は窓を眺めて外に出たいと言った。
今日は比較的に意識ははっきりとしている。
「じゃあベランダに出てみようか?」
そう言うと、母は幼い子どものようにこくんと頷いた。
病室を出ると車椅子を押してベランダへと向かう。廊下の壁には一週間後に開かれる病棟内のクリスマス会のポスターが貼られていた。ポスターと一緒に、赤や緑色の折り紙で創ったサンタクロースや樅の木も飾られている。
「クリスマス会があるんだって。ケーキも出るみたい。楽しみね」
わざと明るい声を出した。母は「そうね」とだけ言って微笑んだ。
廊下の突き当たりから続く広いベランダは、ちょっとした庭園のようになっている。大きな鉢植えには背の高い木も植えられていた。この季節でも落葉することはなく、葉を繁らせている。並べられたプランターには、名前を知らない花たちが陽光を浴びてのびのびと咲いていた。
その間をゆっくりと車椅子を押した。陽射しは暖かいが、影に入ると途端に空気は季節相応に冷たく肌に触れる。
「あなたが小さかったときは……お母さんが……ベビーカーを押していたのに」
母の肩から落ちそうになった厚手のストールを掛け直すと、わたしの手の上に母の手が重ねられた。冷たくはないが温かくもない体温。食べることができなくなってすっかり体重は落ちてしまったのに、浮腫んでいるせいで指や手の甲は膨れていた。
その手をきゅっと握り返す。
「あのベビーカーね、憶えてる」
幼いわたしをベビーカーに乗せた母は、近所のスーパーに買い物に行っていた。片手でベビーカーを押して、二つ年上の兄の手をしっかりと繋いで歩いた。兄の歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、わたしと兄の好きな童謡を歌ってくれた。ベビーカーに座りながら眺めた空や一緒に口ずさんだ歌。若かった母の笑顔を今でも思い出せる。
「ねえ。またあの歌を歌ってよ」
風を避けられる日向に車椅子をとめた。眩しくならないように背中に陽を受けながら。
「……じゃあ……一緒に歌ってね」
「うん。お兄ちゃんもまだ憶えてるかな?」
「憶えてるよ……あの子も……好きな歌だから」
「そっか……そうだね」
ぽつりぽつりとメロディを口ずさむ母。細くて小さな母の声とわたしの声。薄い肩は微かに揺れる。
歌声は幼い日の思い出と交差して、陽だまりの光の中に溶けていった。
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