第9話 我儘で、意地っ張りで、怖がりな妻の反撃
「……私は結局、旦那様にとって子供なのだわ」
シュネーはヴェルクが領内の巡回に行ってしまってから、自室にこもるようになった。
義父母に心配をかけないよう昼食だけは一緒に取るほかは、一日中暖炉の火をガンガン燃やして幾つも湯たんぽを入れたベッドの中に潜り込み、図書室から借りてきた郷土資料に目を通していた。
必要があればイルゼにお使いに出てもらって、各所とのやりとりをする。
「せめてもうちょっと女性らしい体型になりたいわ、イルゼ」
ベッドの上に置かれたトレイから熱いお茶を取って、睡眠不足の目を擦る。いつしか寒さで熟睡できなくなっていた。
「……悩むことはないと思いますが……」
「あの方みたいなふくよかなお胸でしたら少しは成人女性として……ねえ、やっぱり私が子供っぽ過ぎるかしら」
「全体的にやや小柄ではあります」
「そうでしょう」
「でも、それが原因ではないと思いますけれど。
……いい加減に出られたらどうです? お医者様も魔術医もどこも具合が悪いとは仰ってなかったでしょう」
ヴェルクは、医師たちが毎日彼女を診察するよう段取りをつけてから出立したのだ。
結果として病気ではなく、原因不明――おそらく環境の変化からくる疲労とストレスであろうという診断だった。
「明日、旦那様がお戻りになられたら、いっそのこと家出でも、お二人で旅行でもなさっては?」
「ちょっと、そんなことをしたら……」
「……嫁いでから大人しくなられましたよね。それに旦那様も曖昧な態度で……」
思わせぶりなイルゼの発言に、むっとしたシュネーは反論する。
「旦那様は良い方ですわ」
「善良というのと、シュネー様にとって良い行動をされる方というのとは別です。ほら起きてください」
もう時間ですよとベッドから引っ張り出され、シュネーは仕方なく毛糸の帽子を被り、上着に毛皮のコートを重ね、暖房用魔導具を内ポケットに入れたまま室外に出た。
今日は久しぶりに、子供たちと雪遊びをする約束をしていたのだ。
***
「これで遊べるのかしら……夏になったらプールでも作ります……?」
地面にしゃがみジョウロのような雪の流れをぼーっと眺める。
雪だるまひとつ作るのにどれだけかかるだろう。
細い川から魔力を汲みだすようにして何とか小山をひとつ作って、ため息をつく。
「これでは雪の象さんが作れませんわね……今までがっかりさせてしまったぶん、滑り台を3つは付けたかったですのに」
「雪遊びだけではなく、お父様の訓練や憧れのお城を見に行く口実にもなっているんですよ。良いことではないですか」
「そうですけれどね……。……それにしても遅いですわね」
約束の時間はもうとっくに過ぎていた。しゃがんでいたので足が痺れてきたし、指先は相変わらず冷たい。
もういいかしらと手袋をポケットから引き出そうとすると、騎士たちの詰所の方がざわざわと煩くなってきたのに気付く。
「何かありましたの?」
「私が聞いてきます」
イルゼが走っていって、それをシュネーはゆっくり追った。ほどなく、先ほどより急いで戻って来たイルゼの顔色が変わっている。
「猪が出たそうです。農地を突き抜けて北の住宅街の方へ。今、外に出ている子供や老人を避難させているそうで――」
「……あの子たちの家がある辺りですわ!」
シュネーは踵を返し、厩舎の方へ突進した。馬の世話をしていた騎士が、目を白黒させる。
「馬を借りますわよ?」
「……奥様、乗馬できるんですか」
馬を物色し奪う勢いのシュネーに慄いた彼は、鞍を付けたままの栗毛の馬を外に出す。
シュネーは、すぐさま毛糸の帽子を追ってきたイルゼに押し付け、飛び乗った。
「当然ですわ。――後はお願いね、イルゼ」
言うなり馬の腹を蹴って駆けだす。
こういう時は誰の言うことも聞かずに飛び出すに限る。でなければ部下は処分されるから。
「奥様!?」
「奥様、お待ちください」
「待ってなんかいられませんわ!」
通り過ぎる残る騎士たちに聞こえなくとも声を投げ、開いたままの城門を潜り抜け、堀にかかった跳ね橋を渡る。
城は丘の上に立っているので、ここから城下町が見通せた。
草原を縫う道を駆けて牧場や小麦畑を、そして街中の大通りを傍若無人に駆け、都市を守る外壁を抜け――ああ、グレッチャーではよくそうしていたなと思い出す。
シュネーはもともと、およそ令嬢らしくない令嬢だった。
「……いましたわ」
外壁の外にできた新興住宅地と農地との境辺りに建つ、二階建ての家の壁際に、見覚えのある3つの輪郭を見付ける。
カールとデニス、そしてエルマーの三兄弟が、老人たちと一緒に、建物の影に隠れて遠くの様子を伺っている。
シュネーは馬を止めると、馬上から声をかけた。
「皆さん、無事ですの!?」
「シュネー様! 約束破ってごめんなさい!」
シュネーはざっと兄弟と老人たちの衣服に破れがないことを確認しつつ馬から降りると、手綱を近くにいた誰かに押し付ける。
「そんなのどうだっていいですわ。怪我はありませんのね? それで猪は今どこに……」
「あれだよ!」
カールが指さした先にはここからは拳大に見える三匹の猪が、畑の作物を食い荒らし、掘り返している。
そばで農民の男性たちが2、3メートルの距離を置いて鍬や鋤を手に追おうとしているが、一向に退こうとしない。
逃げるでもなく、立ち向かうでもない猪の挙動に不審を覚えながらシュネーは駆ける。
しばらくぶりの激しい運動に息が切れ、身体能力強化の魔法を何とか自身にかけつつ猪を凝視する。
(こげ茶の毛に、見覚えのある白い縦線、特徴的な額のバツ模様……)
シュネーは急いで農民の間に駆け込むと、声を張り上げた。
「おやめなさい、あれはただの猪ではありませんわ!」
「え? ……あれ、領主様の奥様!?」
「ええ、私がその奥様のシュネー・フラムですわ! それよりあれは普通の猪ではなく魔獣に属するそれの――」
シュネーが続けようとした時、予想通り、遠くから地響きがした。
「――子供ですわ。だから、親が来ましたわね」
土埃を上げながらやってくるのは、三匹の猪の何倍も大きな、親の猪。
ここからでも目を疑うような大きさだと分かる。図鑑で見た南方の象ほどのサイズで、これなら子供をふつうの猪と見間違えるのも当然だろう。
子供だから人間に対する経験が良くも悪くも無く、今まで戦いにはならなかった。けれど親が敵対したことがあるなら。
「よりによって、何で領主様が出てるような時に……」
「皆さんは避難して、衛兵たちをできるだけお呼びになって。ここは私が食い止めます」
「食い止めるってどうやって」
「経験ならありますわ」
貴族たるもの、領民の前では笑顔でいなければ。
シュネーは今の自分に魔法がろくに使えないことは分かっていたが、おそらく彼女の評判を聞いていただろう農民たちは町の方へ走っていった。
「……さて、どうしましょう。正直なところ厳しいですものね。時間稼ぎをするしかないかしら」
シュネーはまだ親猪と距離があることに感謝しつつ、ショールや重い毛皮のコートを脱ぎ捨て、ベロアのドレス姿になった。長いスカートが邪魔にならないよう、指先から生み出した氷の刃で深いスリットを入れる。
寒くて仕方ないのだが、それを言っている場合ではない。
ついでにいつものように氷の太い槍を出してみようとしたが、頑張っても掌大のひし形にしかならない。
そのうちに親がこちらに気付き、シュネーの顔よりもずっと大きな鼻先を向けてきた。
「まあ、何とかするしかありませんわね」
氷の塊をぺちりと投げつけて気を引くと、シュネーは畑に向かって走る。更に、畑の外周にある逆茂木の外へ。
シュネーの足は特別速くない。
だから追ってくる猪を振り返り、両目を氷で塞ごうとしたが、一瞬現れた氷は張り付いたものの、瞬きにぱきぱきと割れて四散してしまう。
(猪って瞼の力も強いのかしら)
そんなことを考える余裕があるのは、普段なら敵ではないからだろう。
(だからこそ奢らないようにしなければ。まあ、油断したことはそんなにありませんけれど)
――氷が駄目なら、水を撒けばいい。
親猪と、それを追ってくる子供の猪たちが一直線に並ぶのを見て、シュネーは周囲に思いっきり水を撒いた。
雨のように、川のように。
突然現れたぬかるみに猪は速度を落とす。猪は泥遊びもするが、体重はあるし限度もある。逆に、水に適性のあるシュネーは水上歩行の魔法があれば難なく走れた。
そしてぬかるみはそのまま、手から生まれた強風に飛ばされて、猪たちの顔に命中した。
目を潰され、子供たちはそのまま深いぬかるみに沈んでいく。
親だけはシュネーの臭いを嗅ぎ取ってか、泥水を跳ね上げながら突進してくる。
(次はどうするか考える時間も与えてくれませんのね)
シュネーは手から出す水の勢いを強める。
ばしゃり、と水が跳ねる。
猪の四本の蹄が沈む。
さらにばしゃり、と跳ねる。
左脚が足首まで沈む。
もう一歩、膝まで。
「……溺れてもらいますわ」
シュネーは目を逸らさず、思いっきり体の中の水を巡らせようとする。
ただ、魔力は使っても使っても、氷になりきれなかった寒気が体の中に降り積もるようだった。
足が震え始めてきたが、それが寒気か、猪の伝えてくる地面の振動のせいか分からない。
「……もう少し……っ!?」
猪の四肢が埋もれ、腹に泥が触れるかどうかというところで、猪の姿が消えた。
一瞬後、影がシュネーの上に落ちる。
危機を感じたか、親猪が跳躍したのだ。
咄嗟に左に跳躍して避ければ、着地した足に振動を感じて膝をついてしまう。
猪に首を向ければ、距離を見誤っただけなのか地面を顔面で深くえぐっていた。
まともに受けていたらひとたまりもない。
猪が顔を地面に半分ほどめり込ませているうちに、シュネーは立ち上がって再び距離を取る。
「何でこんな時にこんなに調子が悪いんですの……!」
彼女が悪態をつきながら次の手を考えていると、馬の蹄の音が近づいてきて、聞き慣れた声が耳に届いた。
「シュネー!」
――ヴェルクだ。
一瞬、思わず顔を輝かせたシュネーだったが、近づくにつれて何故か彼の背に、あの女騎士がしがみついているのが見えて顔を背けた。
馬を全速力で走らせていたヴェルクは手綱を背後に渡して馬上から飛び降りると、駆け寄ってくる。
真剣そのものの表情で。
「何故こちらにいらしたのです?」
「無事だったか。伝書の魔鳥でイルゼから伝言を受け取ったのだ」
「……ああ、こんな泥だらけの姿を見られてしまいましたわね」
シュネーは力なく微笑んだ。
青いベロアのドレスは泥でまだらに汚れ、自分で裂いてしまった裾は茶色に染まっていた。普段であればこんなみっともない姿でも、実益重視で当然だと胸を張るところだ。
けれど、好きな人に見られたい格好ではない。
騎士団の討伐と演習を終えて戻って来たばかりのヴェルクや女騎士の方がよほど身ぎれいだった。
「姿はいい、身体は無事か。母も戦いに出るなと言っていただろう。わたしはするなとは言わないが、魔法の調子が悪い時に何故そんな無茶を――」
「……ヴェルク様は、どうお考えなのです」
「何をだろうか」
「怪我をして子を成せなくなっては困るとお思いですか? それとも――」
シュネーは再び足場を得て立ち上がりつつある猪を視界に収めながら、ヴェルクに問いかける。
「なぜ今そんなことを。……シュネー、それは義務ではない」
「……だって、仕方がないではありませんか」
「出産で体を痛める女性もいる。母だって――わたしがお腹にいた時、産んだ時に高熱が出たと聞いた」
「仕方がないではありませんか」
「産んだからと言って済むわけではない。人一人の人生が、育てる責務がある。せめて納得してからにしてもらいたい」
「だからっ……仕方がないではありませんのっ!」
シュネーは叫ぶ。
真面目で、真剣で、そんなヴェルクが好きだ。
ヴェルクが正しいことだって、頭では良く分かっていた。自分が短絡的であることも。
でも、産めなければ離婚させられるのに。
妹が代わりに来ることを、知っているのだろうか。知っているのかもしれない。 半裸になったのだって一年前からだと説明されていないほど、シュネーには対等な大人としての信用がない。
(そんなことを、どうとも思っていない顔をしないで)
青い瞳から悔し涙が零れる。冷え切った体のくせにやけに熱く頬を伝った。
「私をそこまで心配されるなら、何故、結婚など。何故、放っておいていただけなかったんです!?」
「君の結婚相手の、次の候補は誰だ。うちの兄弟で残っているのは君よりずっと下の弟だ。他家で君の冷気を受け止められる男はいるか」
「理解していますわ、家の名とこの血から逃れることはできないと」
「わたしなら君を待つし、可能な限り自由をあげられる」
「――保護。つまり、保護でいらっしゃるのね」
シュネーはきっとヴェルクの顔を見返す。
いつだって真剣な顔では、短い結婚生活の中では真剣度合いが掴めなくて、今は腹が立つばかりだ――彼のせいでなく、自分のせいで。
一緒に両親を説得しようとか、何とかしようとか、一緒に考えようと言って欲しかったという、我儘のせいで。
「……いいですわ、ヴェルク様。あなたが度々仰るように、ありのまま振舞わせていただきます。それからもう一度お気持ちを伺いますわ」
シュネーは一、二歩、歩み寄りながら――すぐ目と鼻の先に顔を近付けて、彼を見据えた。
「それでお疲れのところ申し訳ありませんが、寒気が私の中に溜まってしまって、魔法がうまく使えないのです。これでは魔物退治もヴェルク様を冷やすこともできず……」
「そんなことはどうでもいい」
「よくありませんわ。……じっとしてくださいませ」
シュネーは白い両手でヴェルクの褐色の頬を掴むと、驚きに見開かれている赤い瞳を満足そうに記憶に収め、口付けた。
(二度目ですけど、……記憶よりも柔らかいですわね)
炎の魔力を吸い取るように、優しくけれど長く口付ける。何故か流れ込んでくる暖かな魔力が、想定よりずっと多いような気がするが、気のせいだろう。
「……私、お情けで口付けをされるのは嫌です。だったらこちらからすれば問題ないのですわ」