第3話 義母とのお茶会と夫婦の心得
義母である前辺境伯夫人ジークルーン・フラムは、多趣味な人として知られている。ガラス張りの温室には多種多様の植物が分類して植えられ、ちょっとした植物園のようだ。
シュネーは暖かな陽の光だけでなく、植物用のストーブに炭火がおこされているのを見てほっとする。
そうして雰囲気のある小道を通り抜けた先、薔薇に囲まれた小さなスペースに用意されているテーブルに、義母と山盛りのお菓子と――半裸の夫を見付ける。
シュネーにしか分からないほど小さかったが、背後に控えるイルゼが息を呑む気配がした。
(……良かった、私の感性がおかしいのではないのね)
シュネーは心中で頷きつつ、夫を直視しないようやや目を細めて微笑んだ。
少女から大人になったばかりの、黙っていれば雪の妖精だとも言われる微笑の効果は良く知っている。
何か不都合なことを考えていても誤魔化すのに好都合なのだ。
「お招きいただきありがとうございますわ」
「ああもう、堅苦しい挨拶はなしにしてちょうだい。なんたって息子ばかり四人でしょう。やっとできた義娘ですもの」
前伯爵夫人ジークルーンはにこやかにシュネーを迎えた。
いかにも優しげだが、鋭い眼光とテーブルの上に並べられた菓子の量に「逃がさない」という気概が滲み出ている。
「ケーキとクッキーと、どちらが好きかしら? それともドライフルーツ? 何が好みか分からなかったから全部用意したのよ」
「何でも美味しく頂きますわ」
ちらりと――首から下を見ないようにヴェルクを窺えば、額と首筋に汗をかきながら、ずっと水を飲んでいる。
「あら息子のことは気にしないで。どうしても同席したいって言い張るから仕方なくね。……だって領地でゆっくりお話しするのは初めてですものね?」
そうジークルーンは言った。
とはいえ、やはりゆっくり“お話”にはならなかった。
ヴェルクは寡黙で、シュネーも義母の前では素は――ヴェルクにだって取り繕っているのに、義母ならなおさら――出せない。だからジークルーンが一方的にお喋りを繰り広げることになった。
式がどんなに素晴らしかったか。近隣の社交界の情報提供。互いの領地について。シュネーが寒くないかどうか。
シュネーは失礼がないよう対応するので精いっぱいだ。それでも、気付かないうちに何かやらかしている可能性は高いと思っている。
社交に出れず、領地に引きこもって兄と、あるいは慣れてから一人で魔物を狩っていれば、仲良くなるのは他家の令嬢より騎士や猟師、地元民。当然のように大雑把になっていく。
両親から最もくどくど言われているのが口の利き方で、毎回イルゼに答え合わせを頼んでいるくらいだ。
「――これから息子を支えて領地を守ってちょうだいね」
「全力を尽くしますわ」
「良かったわ、こんな息子に可愛らしいお嫁さんが来てくれて。それにグレッチャー家の周囲の魔物の掃討にも参加されていたんでしょう?」
「そんな。……領民の安全のためですわ」
これには曖昧な笑みしか浮かべられない。
褒められているのか微妙なところですわね、とシュネーは思う。
魔力の放出と領地の守護を兼ねての魔物討伐――これは寒がり以外で、令嬢としての大きな欠点だ。
貴族で魔力の強い人間が討伐に出ること自体はままある。というのも因果が逆で、魔力の強い者たちが魔物の領域を削り人の支配域にして、そこを国が功労者に与える領地にしたからだ。グレッチャーもフラムもそこは同じ。
ただ、ふつうの令嬢は退治しに行かない。それに嫁が自分たちより強い――打ち倒せる手段を持っていれば安眠できない。理解できる。
「ヴェルクもねえ、自分から盾になりに行くような子で、随分心配させられてきたのよ。今だって討伐や演習だの訓練の戦闘によく出るし、そこは気が合いそうで良かったわ。……でも」
ジークルーンの、ヴェルクよりやや薄い色の瞳がきらりと光る。
「ここでは騎士も傭兵も多く抱えているから、あなたが出る必要はないわよ。
夫婦にはそれぞれ支え合う役割があるわ。あなたはもっと身体を大事にして、それから息子ともっと仲良くね」
「母上!」
危うくティーカップをソーサーにぶつけそうになったシュネーは、顔に微笑を張りつけた。
――きっと、いや絶対、夫婦間に何もないことがバレている。
同じことを思ったのか、気まずそうにヴェルクが言葉を続けた。
「母上、もういいでしょう。益体もないおしゃべりにお付き合いしていたら日が暮れてしまいます」
「心配しているのよ」
「知っていますが、手段が適切ではありませんね。……そろそろ妻に案内したい場所があるので、これで失礼を」
「あら、まだ蜂蜜のケーキが残って……」
「……母上、これ以上見損なわさせないでください」
きつく見据える目に、あからさまに言い訳だろうと言いたげな表情をしたジークルーンだったが、やれやれといった風に肩を竦めた。
「仕方ないわね。ねえシュネーさん、今度は息子抜きでお話ししましょうね」
ひらひらと手を振る義母に軽く礼を取り、シュネーは慌ててヴェルクの後に着いた。
正面から見るのは慣れないが、背中なら何とか――そう思って、背中にひどく汗をかいているのに気付く。
温室を出れば、息を深く吸って吐き出す音が耳に届いた。
「どうかしただろうか」
「私のせいで暑いを思いをさせてしまいましたわ。今冷ましますが、もし寒すぎるようでしたらすぐ仰ってくださいませ」
軽く振り向いたヴェルクに頬を赤らめつつ頷き、手を伸ばして背にかざした。
体の中の水がこぽりこぽりと湧く感覚とともに、閉ざされた水門が開くように身体の中を水が巡り、指先から冷気となって漂う。
「普段はどうされているのですか?」
「風の魔術か、氷室の氷を使っている」
「水の魔術は?」
「適性がないのだ。残念なことにな」
「では私が寒がりなのと同程度に、暑く感じられるということでしょうか……」
(見ていると寒そうだなんて、事情も知らず失礼でしたわね)
魔術師として名高くとも、自身の適性だけはどうにもならない。
風や土の魔力が高い名家は他にもあるが、領主として相反する属性の魔力を、グレッチャーの中でもシュネーを婚姻相手に望むほどだ。血に混ぜて抑える必要があるほど。
それならば彼ほどの人が、自分などを妻にと言う理由が腑に落ちる――少し冷たいものだったが。
「それから……先ほどは庇ってくださってありがとうございます」
「何だ、君が罪悪感を持つ必要などない。母のことならむしろ失礼した。ああいう態度は、息子のわたしだけにするよう後でよく言っておこう。
それに口実ではなく、先日案内しそびれた分だ。……ひとつは温室だったから母に先を越されたな」
「……お優しいのですね」
「ありのままでいいと言ったのはわたしだ。周囲は気にせず、寒かったらいつでも温かい場所に行くといい」
すぐそこで振り向かれて優しく微笑される。
頭一つ以上背が高いのに歩幅を合わせてくれていることに気付き、シュネーは頬をまた赤らめた。半分以上は、ともすると視界に入りそうになる肌のせいだったが。
「……やはり顔が赤いな。いい機会だから、城を案内しよう」
善良な勘違いをシュネーが否定しなかったので、彼は先に立って城を一通り案内してくれた。城壁に城門、馬場、廊下、通り過ぎる扉の先について。
半裸の男性と共に歩く経験は当然初めてで恥ずかしかったが、通り過ぎる人々は慣れているのか、何でもないことのように過ごしているので少し気が楽になった。
「――さあ、この城で一番暖かいところだ」
初夜の散歩の続きなら、どんなロマンチックなところかと思えば、そこは城のキッチンだった。
冗談かもしや何かの寓意なのかと顔を窺えば、真剣そのもの。背後のイルゼにちらりと目をやれば、彼女もまた真剣に頷いている。
「……確かに、暖かいですわね」
「常に火が入っているので、何かあったら避難するといい」
「避難」
実家より何倍も広いキッチンのあちこちには、確かに火が燃えていた。パン焼きかまどから漂うふくふくとしたパンの香り。とろ火の上の大鍋スープに、捌かれた鶏が暖炉で焼かれている。
その間をコックや下働きが動き回るたびに、スパイスの香りが立った。先程あれこれ食べさせられたが、ついつい胃が刺激される。
「確かに暖かいですわね。ですが、お邪魔になるのでは?」
「城の女主人が遠慮することはない。必要なら椅子を置かせるし、お腹がすいたなら何か貰うといいだろう。この城は辺境にあるから、何というか……形式にこだわらない、実利主義なところがある」
「まあ、それはとっても助かりますわ」
シュネーは自分が今後するであろう粗相を思ったが、
「君は小柄だから皆が食べさせたがるかもしれないな」
という善良そのものの回答に少し申し訳なくなった。
軽く挨拶をしてからキッチンを通り過ぎ、人目がないのを確認してシュネーは腕を持ち上げてみる。確かに丈夫とは言えない腕の細さで、おまけに胸の膨らみも少々控えめだった。
「旦那様は、大人の女性がお好みでしたでしょうか? もっと背が高くて、バーンでボーンな」
「バーンでボーンが何かは分からないが、君はそのままでいてくれれば良い。……それより、先程から魔力を放出し続けているが、寒くはないのだろうか」
「不思議と自分の魔術は平気なのです……旦那様は寒くはございませんか」
「平気だ。心地よい」
微笑を含んだ声に、シュネーは閃いて顔を輝かせる。
「いいことを思い付きました。これから毎夜、熱を冷ましに隣にお伺いしますわ。もともとそういうことを込みでの結婚ですし、それならお義母様も安心なさるでしょう。ね? いい案ではありません?」
「……別に母を安心させるために、君が頑張る必要はない」
「少しでいいのです、ヴェルク様とお話する時間が欲しいですわ!」
シュネーがキラキラした無垢な瞳でヴェルクを見つめれば、彼は気圧されたように頷く。
「分かった、時間が付く限り毎日、寝室に行こう」
「ありがとうございます!」
シュネーは破顔した。思えばそれが城で初めて浮かべられた、本心からの笑顔かもしれない。
着ていく毛皮選びや冷ます方法に頭がいっぱいになる。
一方、ヴェルクは伺うような視線をイルゼに向けた。彼女は控えめに頷くが、その目にはわずかな不安が漂っていた。
ヴェルクとの毎夜の約束を取り付けたシュネーは、その日はずっと上機嫌だった。義両親を交えての夕食の席でも終始にこやかに対応できた気がする。
心の余裕、夫婦仲が良いとはかくも大事なものなのだ。
「夫婦の仲を深めるには、まず人としても仲良くなること、ですわね!」
結婚翌日に届いてから気が重くて返事をしないままになっていた、実家からの手紙を鼻歌を歌いながら開く。
両親からの手紙には、挨拶も気遣いもそこそこに、大人しくやっているか、魔物は狩っていないか、控えめに話せといった小言と、今までも散々言い含められていた“夫婦の心得”が二種類の筆跡で書かれていた。
「狸同士仲がよろしくて結構ですわ……ええと、何ですのこれは」
そしておまけに、もし上手くいかなければ“離婚”を願い出て戻って来いと書いてある――後継を産めなければフラム家への契約違反で、社会の損失だと実家への風当たりが強くなるから、だそうだ。
そして、シュネーの代わりにふたつ下の妹を嫁がせるつもりだという。
久しぶりに喉の奥に何か詰め込まれたような気分になるが、それを無理やり飲み下した。
「……これからどんな苦難が待っていようと、見返してやりますわ。ちゃんと夫婦になってみせます」
羽ペン走らせ、万事つつがなくと見栄を張ったシュネーは、気合を入れてピリオドを打つ。
顔を上げれば自慢げな笑み。
「イルゼ。東方の諺にこうあります。『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』、『将について知りたくば、先ず将の母から聞け』と」
「そんな諺聞いたことがありませんが」
振り返ってトレイに手紙を乗せれば、それを持つ手の主・イルゼが呆れたような顔をして待っていた。
「何かまた良からぬことを思いつきなさいましたね」
「ヴェルク様攻略作戦――名付けて『旦那様に素敵な服で快適生活』ですわ!」