第10話 ありのままの妻と、旦那様の本心
「……シ、シュネー……?」
シュネーはそっと薄いピンク色の唇を離すと、呆然としたままのヴェルクに微笑む。
出立前夜に彼に腕を掴まれた時と違い、暖かな魔力が静かに指先から体の奥まで満ちていき、こびり付いていた淀みも、奥に居座っていた氷もゆっくりと溶けていくのを感じる。
優しくて心地良くて、このまま眠りたくなってしまうくらいだ。
両家の親の、血の相性の見立てだけは確かだったらしい。
「ふふ、元通りどころか、絶好調ですわ」
体が軽い。
寒気はなくて、暖かくて、清らかな水の魔力が隅々まで流れていく。
巨大な親猪が鼻を向けてくるが、ちっとも怖くない――いける。
シュネーは右手を棒でも持つような形に突き出すと、手のひらに集めた冷気から2メートル超の氷の棒を作り上げた。両端は槍のように突き出し、前方に向けた部分に斧のような大きな刃が出来上がる。刃の側面には雪の結晶模様が刻まれた。
繊細な彫刻を施された槍斧は、羽根のように軽い。
「ヴェルク様。見ていてくださいませね」
口に出せば、覚悟は決まった。
両親と義母の期待を裏切ることになる。ヴェルクにも幻滅されるかもしれないが、さらけ出さずにうじうじと考え続けるのは止めた。
左手が閃き、長く太い氷の槍が空中に幾つも現れる。
ヴェルクが制止する間もなく、突進し跳躍してきた猪をシュネーは正面から迎え撃った。
射出された氷が見る間に猪に突き立つ。
猪が動きを止めた次の瞬間、泥の地面から隆起した巨大な氷の柱が、猪を突き上げ貫いた。
ハリネズミにされた猪の頭上に、シュネーは魔法で起こした風で舞い上がり、両手で握った槍斧の先を、思い切り脳天めがけて振り下ろす。
こんな時、いつも他人からどう見えるか考えていた。
けれどその恐怖は、他人を、兄や見知った騎士たちを戦場に送り続けて、舞踏会でグラスを傾け安穏と微笑むしかない恐怖と焦燥に比べたら、なんてことはなかった。
令嬢らしからぬ気質であることはよく知っていた。
――それを好きになった人に晒す勇気がなかったことまでは、今まで知らなかった。
***
「……ざっとこんなものですわ」
どうと倒れた猪の死を確認して氷の槍斧を消し去ると、シュネーは泥どころか血まみれの姿でヴェルクに歩み寄る。
どんな顔をされるものかと思えば、何故か横から走って来た女騎士のハンマーシュミットがシュネーの視界を奪って、両手を握った。
「団長、奥様! 大丈夫ですかっ!?」
「……えっ? あなたが? 何で!?」
「団長の大事な奥様が心配だからですよ! お怪我はありませんか? 子猪は衛兵たちが確保しましたって伝えに……」
シュネーが面食らって間抜けな顔を晒していると、隣からヴェルクが彼女の肩を持って引きはがしてくれた。
「ハンマーシュミット、妻から離れろ」
何故かいかめしい顔をしているヴェルクだが、大猪を屠ったシュネーに戸惑ったり怯えたりはしていないらしい。
ほっとすると同時にシュネーは、夫が彼女の肩を抱いたことが気に入らなくて口を挟みたくなった。
……ので、遠慮せず口を挟むことにした。
「そういえば旦那様って、この子の体に気安く触るなんて随分親しげですわよね。やっぱり胸がある子の方がお好きなのでは……あら、ありませんわね?」
手のひらから生み出した水で体をすすぎ――ヴェルクが温風で乾かしてくれて――自分と彼女の格差を確認しようとしたが、そのハンマーシュミットの、あるはずのふくよかな胸はどこにもない。鎧に押し込めているのかと無遠慮に見つめれば何故か脱いでくれたが、そこにも、ただ分厚い布でできた鎧下があるだけ。
視線を上げて首を傾げれば、当人から間髪入れず答えが返ってくる。
「ありませんよ。だって男ですからね」
「……でも、初めに会った時はこう、胸も出てて、スカートを履いていて」
「あの時は盗み聞き――いやいや、聞き込みをしてたので、女の姿の方が都合が良かったんですよ! 俺、結構女顔って言われるんですよね」
「……そ、そうでしたの」
恥ずかしい勘違いにシュネーが頬を赤くしていると、彼女もとい彼はにやりと笑った。
「念のためもう一つ言っておきますね、別にヴェルク様は好きな人の胸の大きさにこだわりはない――」
「ハンマーシュミット。これ以上続けるつもりなら、君の状況判断能力を不安視せざるを得ない。また見習いに戻ってもらっても構わないのだが」
「……済みません! あ、用事を思い出したので! 失礼しますね!」
ヴェルクの真顔での忠告を聞いた部下が慌てて村の方に走って行くのを見送ってから、彼は肩で深い息を吐いた。
それから視線がシュネーと合った。冷静で硬質な視線の中に、穏やかなものが漂っていた。
「怒りませんの? ……ヴェルク様にはたくさん無礼なことをしてしまいましたのに」
「怒っていないから、怒りようがない。君の偽りのない正直な気持ちならそれでいい」
「偽りありませんわ」
シュネーは言い切る。
「……でも、口に出して言えていない不安もまだありますわ。たとえば……私、汚かったりしませんかしら」
「汚くなどない。結婚前に私が似たようなことを聞いたとき、汚くないと君も言っていただろう」
「そうでしたかしら。本能のままに答えていたので覚えていないのかもしれませんわね」
「わたしは騎士を率いる立場で、領地は辺境で国境だ。目を背けたくなるようなことも、今後いくらでも起こるだろう。妻になってもらうなら、それに耐えられる人の方が望ましい。
……それから、そんな話をしてもわたしを怖がらない君は強い人だなと思った」
「それは、ありがとうございますわ」
シュネーはお礼を言いつつ、何か違和感を覚えた。まるで婚約者を彼が自由に選べる立場にあったような口ぶりだ。
「魔力の高い令嬢という条件で婚約者候補が挙がった時に、実際に全員に会っているのだが、他にそんな人はいなかった」
「……候補が、複数人ですの? では半裸族だからお見合い相手がいなくなったという私の予想は?」
「そんな風に思われていたのか。残念ながら見当違いだな」
シュネーの素直で失礼な物言いを、ヴェルクは苦笑だけで許す。
「君は社交を避けていたようだったので、初めて顔を確認したのは、ご両親に会う時に見かけただけだったが、よく覚えている。……立ち話も冷えるから、話しながら帰ろう」
ヴェルクは何故かシュネーの手を取った。彼女は言われるままについていく。
暖くて、そして歩幅を合わせてくれているのが分かった。
「君は山を駆けて自由に魔法を使って踊っていた。君の姿も生み出す雪もだが、魔力の流れに無駄がなくとても美しかった。と同時に、鬱憤晴らしのように魔法を使う君を見て、何とかしたいと思ったな」
「……そうでしたの」
「その後魔物が出て来て、さっきと同じ槍斧を作り上げた時はもっと驚いたが。その時の笑顔も美しかった」
「……めちゃくちゃ見られてますわね。ですが、私の魔法などヴェルク様にとってはたいして珍しいものでは……」
そう言えば、ヴェルクは苦笑して首を振る。
「わたしの炎は他人を苦しめることが多かったから、実はあまり気が進まないのだ。君が力を厭わないのを見て疑問に思ったほどに。
――先程、母が妊娠出産で高熱が出たと言ったが、母はフラム家の遠縁にあたり、炎の魔力が強い。それが当主の父と、大恋愛の末周囲の反対を押し切って結婚したらしくてな」
「はあ」
義両親の姿を思い浮かべれば、確かに年齢のわりに距離が近くて雰囲気が甘かったわ、と思う。
「辺境伯家となればリスクを考え男子は何人いてもいいだろうに、弟と5歳が離れたのもそのせいだ。父が次の出産を怖がった。わたしも幼い頃に、弟の出産で苦しむ母を見て恐怖を覚えた」
「……そうでしたの」
シュネーは、自分はそんな可能性まで深く考えていなかったと反省した。頭のどこかで可能性を考えてはいたが、実感はなかった。前例をみても、炎と氷なら酷いことにならないのではとも思っていた。
ただ、ヴェルクにしてみれば目の前で苦しむ家族をずっと見ていたのだ。慎重になるのも当然だろう。
「母が君に出産を急がせるのは、後継ぎ問題や私の年齢のせいだけではない。
母も頭では分かっているのだろうが、年齢で出産の負担が増えたり、老いて手助けできなくなることを不安視しているからだ」
そこでヴェルクは、深い息を吐く。いつの間にか赤い瞳には明確な不安が漂っていた。
初めての雪遊びの日、火が嫌いなのかとシュネーが問いかけた時の、置いて行かれた子供のような目。
「……しかしわたしはそれよりも、君がどうにかなってしまう方が怖い。やはり頭では分かっていても。好きでもない男のためなら、なおさら命を賭けることはない」
「……?」
シュネーは頭に疑問符を浮かべた。何のことを言っているのか分からない。
なのに何故か彼は決意を込めた視線でシュネーを見つめてくる。
「君は『子供ではない』と言っていた。だから、すでに体を重ねた、好きな男性がいるのだろう。
わたしと心から打ち解けることはないかもしれない、政略結婚である以上すぐに離婚とはいかないが、君を苦しめたり悲しませないように全力を尽くす。して欲しいことがあれば遠慮なく話して欲しい」
「え? そんな意味などありませんけれど」