02 異戸
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その後、どうやって少年の家から帰ってきたのか、よく覚えていない。自宅の玄関でへたり込んでいる千鶴を母が見つけた。気づくと布団に寝かされていた。母は心配そうに訊いた。
「何があったの?振られた?」
それならどれほど良かったろう。母の手を握り、少年がこの世を去った事を伝えた。
「トラックに轢かれた……」
呆然と母が呟く。千鶴は泣いて詫びた。
「先立つ不幸をお赦しください。お母さん……」
どうしてすぐに訪ねなかったのだろう。20の女が「友達になろう!」とか言ってきたら、きっと気持ち悪いって思われる。ましてや結婚しようなんて、児童福祉法違反じゃないの…などとウジウジ悩んでいるうちに少年は死んでしまった。千鶴も死ぬ。何も成せぬまま。
「諦めるのはまだ早い!」
スパーンと襖が開いて、祖母が部屋に入ってきた。後ろに腰の曲がった婆さんがいる。鳥人族ではない。
「こちらは海亀族の長老殿だよ。あたしの友人で、占いの達人だ」
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深夜。海亀の婆さんが儀式を始めた。まず鹿の骨を炭火に焚べた。亀裂の入り具合で占うらしい。
「もういいじゃろ。出しとくれ。鶴子さんや」
祖母が火ばさみで骨を取り出す。海亀の婆さんはじっくりとそれを観察した。こうなったら霊魂を探し出して結婚するしかない、と老人達は言うのだ。幽霊と結婚…死ぬよりはマシか。
「本当にこんなんで分かるの?」
千鶴はこっそりと祖母に訊いた。弥生時代だよ。卑弥呼だよ。
「聞こえとるぞ。W58センチめ」
婆さんは地獄耳だった。千鶴は思わず腹を押さえた。そんな事まで骨に出てるのか。これは本物だ。
「こちらにはおらんな。別の世界に転生しておる」
「はい?」
何を言われているのか、さっぱり分からなかった。
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占いによると、少年の魂は地球ではない別の世界で転生していた。恩を返すには、千鶴がそちらへ行くしかない。
「ど…どうやって?!」
「“門”を通って。満月が天頂を通る数分間だけ、門が開く」
婆さんは出された茶を飲み、答えた。千鶴は理解に苦しんだ。別の世界って何だ。祖母が海亀に訊いた。
「何を用意すればいいかの。お亀さん」
「少年の遺骨だね。場所を特定する」
では大鷲の爺に頼もう。明後日が満月だ。長老達に連絡を…母がテキパキと念話を飛ばし始めた。
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何の覚悟もできないまま、満月の夜がきた。白衣に緋袴姿の千鶴は、神社の裏にある古井戸の前に立った。海亀の婆さんがそこに門を作ってくれるそうだ。長老達が見送りに集まった。
「井戸は異戸に通じる。昔から異界への入り口だ。さあ、準備は良いか?」
大鷲の爺はそう言って、小袋の下がった紐を千鶴の首にかけた。盗んできた少年の遺骨が入っている。他には何一つ持っていけない。巫女装束は千鶴の霊力でできているので含まれない。
「ねえ。向こうでも変化できる? 妖術使える?」
千鶴は不安でたまらない。何度も海亀の婆さんに確認していた。
「大丈夫じゃ」
「恩返しが終わったら帰れるよね?」
「心配ない。向こうの満月にも門が開く」
こちらと向こうは時の流れがズレているらしい。占いでは少年が生きている事しか判らなかった。結婚可能年齢とは限らない。
「もし赤ちゃんだったらどうしよう? お爺ちゃんだったら?」
白鷺の婆が笑った。
「ホンマに心配性やね。赤子やったら可愛がり。ジジイなら孝行したらええやん」
梟の爺は意味不明なアドバイスをくれた。
「恐らく中世程度の文明レベルだ。現代知識で無双してやりなさい」
「…」
満月が中天に達した。古井戸の中が薄ぼんやりと光る。母と祖母は無言で千鶴を抱きしめた。妖は長命だが、もう会えないかもしれない。あまりに急な旅立ちに涙が滲んだ。
「早うせい。時が移る」
海亀の婆さんに急かされ、千鶴は渋々、井戸に飛び込んだ。
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延々と落下する感覚の後、千鶴は水面に出た。井戸の底だ。見上げると満月が見えた。
(ここが異世界…)
風を起こし、井戸から飛んで出た。濡れた巫女装束を乾かした。胸元の小袋もちゃんとある。周囲を見回すと、すぐ近くに粗末な小屋があった。屋根には穴が空き、夜目にもボロい。
小袋がグンっとそちらに引っ張られた。少年の骨が反応している。ここだ。
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話は冒頭に戻る。千鶴は髪を撫で付けると、ドキドキしながら戸を叩いた。横開きの戸が開いて、大柄な男が出てきた。
(!)
長い黒髪を無造作に結び、シャツとズボンを着た若い男だ。赤ちゃんでも老人でもなかった。
「…」
黒い瞳が千鶴を見下ろす。カッコいい。いける。彼女は絵本に従った。
「あなたの妻にしてください」
「間に合ってます」
ピシャリと戸が閉められた。千鶴は呆然とした。
「あのっ!すいません!」
戸を叩き続け、開けてくれと頼んだが、うんともすんとも反応がない。
「私っ!あなたに助けられた鶴ですっ!覚えてますよねっ!?」
◇
夜が明けた。ケンが小屋の戸を開けると、女が立ったまま寝ていた。
「おい」
邪魔なので声をかけると、女は目を覚ました。
「どいてくれないか?」
「何で開けてくれないの?!はっ!まさかすでに奥さんがいるとか?」
女が小屋を覗き込んだ。そんなものはいない。女の横をすり抜け、ケンは井戸に行った。水を汲んで顔を洗う。小屋に戻ると女は上がりこんでいた。彼は火を熾して朝飯の支度を始めた。
「見ての通り、金なら無い。帰れ」
「詐欺じゃないわよ。助けられた恩を返しに来たんだってば」
女の腹がぐうっと鳴った。ケンは仕方なく麦粥を出してやった。
「お前を助けた覚えはない。人違いだろう」
食いながら、女は話した。前世のケンが釣り糸に絡まった鳥を助けた。その鳥こそ変身した彼女だと言う。恩を返さねば天罰が下るらしい。
「そんなわけで。嫁にしてください」
女は床に手をついて頭を下げた。嫁になれなければ、死ぬと言い張る。妙なことになった。