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3、・・・どうやら見つかったらしい。

 吾輩は白兎である。角は有るが名前は無い。さしあたって困った事はない。なぜなら誰とも会話をしないからだ。と言うより自分以外の生き物に出会った事が無い。蝶やバッタみたいな昆虫の様な生き物は時々見かけるが。他の生き物に出会っていないお陰でまだ生きているとも言える。狼や狐はおろか犬や猫であっても兎の俺では撃退するのは無理だろう、全く勝てる気がしない。もし出会ってしまったら全力で逃げよう。誰が見ても間違いなく文字通り脱兎の如く。今日もいい天気だ。


 昨日の実験の結果、どうやら胡桃を食べた時にあの《ポイン》という電子音がする事があることが解った。まあ胡桃しか食べていないので、何かを食べた時に鳴るという可能性があるという事までしか絞れないが。というわけで今日からは積極的に他の食べられそうな物を摂取していこうと思う。・・・摂取と言うとなんだか楽しくないので「美味しそうな物を探す」という方針にする。勿論気持ちの問題だ。只あの音が鳴る方が良いのか鳴らない方が良いのかは不明だが。あんなに美味い物を食べて身体に悪いって事は無いと思うのだが。人だった時は美味いと感じるものには身体に悪そうな物が多かったが。今の俺は草食動物、周りは溢れんばかりの大自然。頼まれなくてもオーガニックだ。糖や脂質を気にする必要はあんまり無さそうだ。・・・糖か、甘い物を探すのもいいな。果実を見つけるのを今日の目標にしてみよう。桃や林檎は発見できても無理そうだけどなぁ。あ、あと人参も。


 今日はまず準備運動がてら自宅の外周を一周りして見ることにした。ここがどんな所なのかを調べておかないと。今思うと最初にやっておくべきだった。いざという時の逃走経路も考えておかないとな。余裕ができたらこの家以外にこの身一つ位を隠せる場所を幾つか確保しておこう。とりあえずなんとなく自宅の上に登ってみる。登れそうな高い所があるとつい登ってしまうのは、俺が男の子だからだろうか。視界が高くなると遠くまでよく見える。が、見渡す限り樹木が乱立しているな。兎のサイズで見る森林は緑の摩天楼だな。家の裏手にあんな大きな山があったなんて気が付かなかったな。黄土色のいわゆる山らしい形をした山だ。距離は・・・分からん。いつか行ってみようかな。ま、気が向いたらな。意識を集中しぐるりと一周気配を探ってみたが近くに他の生き物の気配は無さそうだ。この世界には俺以外の動物がいないって事は無いよな?別に俺を狙う捕食者に出会いたい訳では無いが、他に何もいないというのも寂しいな。贅沢を言わせて貰えるなら話し相手が欲しい。一人でも一匹でも一頭でも一羽でも良いから。一周探ってみて少し気づいた事がある。緑の香り、花や果実の甘い香り、水の香りなどがそれぞれ強く感じ取れる方向があるようだ。これからこの儀式を日課にしよう。本日は勿論、甘い香りのする方へ。もう一度香りと方向をちゃんと記憶して小さいながら俺の山を下山する。残りの外周を周り庭の入口に戻ってきた。準備運動には少し足りない気がするが問題は無い。目的の場所へ向かう前にもう一つの日課を済ませてからにしようと思っているからだ。

 「桃栗三年、柿八年、桃栗三年、柿八年。」と上機嫌を奇妙な鼻歌にしながら小川に向かう。気分的にはスキップをしている様な間隔で跳んでいた。庭の出口の左側に二本立っている木の向こう側を左に曲がり、そこから六本目の傷を着けた木の前を右に曲がる。人の通れる様な明らかな道は見当たらないものの、獣道と感じられるものはあるように思われる。なんとなく俺の目から道に見える場所がある。気のせいかもしれないがたぶん気のせいじゃない。場所によっては倒木の下を潜ったり、道を塞ぐちょっとした岩を乗り越えたりしなければならない場合もあるが、この小川への道にはそんな障害物は無い。とても移動し易いが身を隠せてないな、今度茂みや藪を通る逃亡練習もしないとな。水を飲んだら一回何処かに入ってみるかな、なんて事を考えながら移動していたら小川へ着いていた。今唯一ちゃんと知ってる道だから景色が見慣れてきた事に少し安心する。水を飲み、近くに手頃な茂みは無いかなと探してみる。意識して見ると思ったよりたくさんあることに気づく。どうやら無意識に避けて移動していたのだなと思う。一番近くの茂みの前に行き観察してみる。さて試しに入ってみるかと思うものの、どうやらまだ人だった頃の感覚も多少残っているようで抵抗感がある。進んで顔から茂みに突っ込んで行く事に躊躇してしまう。しかしこれは命に関わる事だ、絶対に克服しなければならないことだ。意を決してえいっと茂みへ飛び込むと思いの外スルッと簡単に吸い込まれた。ちょっと楽しい。想像していたより動きやすい事に驚く。一度元の場所へ戻り、今度は藪の前に陣取る。また少し躊躇ったが気合を入れて飛び込む。こちらも痛みも無くすんなりと滑り込む。その中に入るとちゃんと身体が隠れているせいかかなり安心感がある。隙間から外を見ると忍者にでもなったみたいで少しワクワクする。

 外へ出て来た道を戻り始める。帰りながらその途中で何回か茂み及び藪に入ってみる。これも練習練習と自分に言い聞かせ、これからの日課に追加する決定をする。胡桃所に行くと今日は二個発見した。一個食べ、一個を持ち帰る事にした。《ポイン》が鳴った。鳴るかもしれないと思っていると心の準備ができるので驚きが大分減るので助かる。どんな効果や意味が有るのか解らないので、あえて鳴らそうと思ってはいないが。葉物も幾つか口にしたがその際には鳴らなかった。音が鳴る条件も定まらず。今のところ解っている事が極めて少ない。釈然としないがそのうち解ってくるだろう、焦らず今は生きる事に重きを置こう。自宅に戻り持ち帰った胡桃をなんとなくこの辺りと決めた場所に置き少し満足する。


 桃栗三年柿八年と例の出来損ないのライムをキックしながら本日の目的地を目指す事にした。庭の入口を今度は右に曲がり今朝の準備運動の時に通った外周を逆回りに辿って行く。向かう場所は自宅の右後方。未だに方向の表現が右だの左だのとなっているのは東西南北が判らないからである。この世界の方角の表現が東西南北なのかも判らないし、仮に東西南北だったとしても東から日が昇って西に沈んでいる保証は無い。日が昇る方を東としても良いのだろうがもし違った場合、修正するのが困難になりそうなのではっきりするまではやめておこうと思う。どうしても決めた方が良いと思われる事態が訪れるまでは。日も、アレもこの世界でも太陽と呼ぶのだろうか。今回も少し進んでは木の幹に角で傷を着けながらゆっくり目的地へ向かう。まぁ目的地と言っても漠然とあの辺みたいな曖昧な感じだが。初めて通る場所にはやはり昨日まで見かけなかった種類の植物も目に入る。食べられそうな物を二つ三つ食べたが特に今までに食べた物と大差は無かった。

 家から小川までの距離より少し進んだだろうか。辺りの雰囲気が家の近所とは少し変わった様に感じる所まで来た。危険を感じるという訳ではなく、群生している植物の種類が入れ替わったと感じる。人だった時はそんな違いに気が付けただろうか、これも兎の本能なのか。もう少しだけ進み辺りを見回す。

「おぉ・・・」

 これまで緑と土色だった世界に新しい色が加わったみたいに思えた。赤や紫の小さな丸い粒が木に幾つも着いている。それも兎の俺でも届きそうな位置に。興奮しているのが自分でも分かる。匂いも食欲を刺激する。気がつくと食事を目の前に待てを言い渡されている飼犬の様に止め処無く涎が流れ出ていた。飛びつきたい気持ちをグッと堪え、首を振り警戒心を呼び戻す。慌てる事は無い、こんなにたくさんあるんだ。ゆっくり一番近くの赤い粒に近づく。狙いを定め生唾を飲み込んでとうとう我慢できずかぶりつく。この世界で初めての果実の甘味と酸味と香りが口と鼻の中いっぱいに襲い掛かる。前世でも感じた事の無いような幸せな衝撃に意識を吹き飛ばされそうになる。もはや美味い、美味しいという表現では追いつかない。衝撃のあまりたった一粒、兎の口でも一口で口の中に入ってしまう程小さな粒を食べただけで息切れをしてしまった。目が冴え渡り世界が今までより色鮮やかにくっきりと見えるようになった様な気さえする程だ。そこから幾つベリーの様なその果実を食べたのかは覚えてはいない。その内の何回かで例の電子音が鳴った様な気がするのだが、はっきりしない。たぶん鳴ったのだろうと思う。完全に我を失っていたのは確かだ。だがそれを超える衝撃が走る。


 幾つ目のベリーを口にした時だっただろうか。突然頭の中に文字列がアイドルのライブの終盤でビジョンに映し出されるサプライズ告知の様に浮かび上がった。


ーー《レベルが上昇しました。》Lv2

ーー《スキルポイントが10加算されました。》


 三秒程だっただろうか、或いはもっと短い時間だったかもしれない。まるで電波状況の悪い中、なんとか一瞬だけ受信出来たかの様にザッと乱れて消えた。映し出された言葉の意味を理解するのに時間が掛かった。そして意味もなく首だけ左後方を振り返り、目玉がそのまま転がり出てしまうのではないかというくらい見開いた。

「なん・・・だと・・・!?」

 俺も魂を斬る刀を持った黒装束の死神だったんじゃないかと思える程の会心のやつが出た。

「待て待て待て待て・・・待ってくれよ、ファンタジー!」

 今何と?言葉の意味は理解できるが、混乱する。レベルアップ?スキルポイント?どういう事だ?いや、今ここで考えるのは危険だ。とりあえず帰ろう。

 混乱と焦りを必死に抑えつつ極力無心で確実に家に帰る事に努めた。たぶん呼吸をほとんど止めたままだったと思う。周りの景色が飛ぶように流れて行く。実際に跳んでいたのは俺自信だったのだろうが。来た道を最短距離で最速でと曲がり角のギリギリで攻めながらコーナリングするあまり何度か人で言えば肩や太腿の部分を擦った。後で気付いた事だが数ヶ所結構派手目に擦り傷が着いていた。しかしこの時は興奮状態だった為痛みは感じていなかった。角もその切っ先で意図しない場所に目印にはならない微かな傷を着けた。未だ混乱しそれを整理し理解をしようと思考しようとするのを抑えるのはなかなか骨が折れた。少しでも気を抜けば考え始めてしまい立ち止まってしまいそうで。気になりすぎてそれが嬉しさから来るものなのか、不安から来るものなのか、他の感情から来るものなのか、それともそれ以外のものも含めその全ての感情が混じり合ったものなのかは自分でも判断はつかない。今は只一瞬でも速く家に帰り着くために左右を流れる景色に乗せる様に思考を振り払い加速する。


 我が家を視界の左前方に確認できた。自宅を左に反時計回りに走り抜け最後のコーナーを左へ曲がる。庭の入口を入りそのまま全速力で家へ飛び込む。あまりに勢い良く飛び込んだせいで自宅の一番奥の壁にぶつかるところだった。・・・嘘だ、少し大袈裟に表現した。実際は丁度中央辺りで止まった。乱れた呼吸を整えるのに少し時間を要した。それにしても俺ってこんなに速く走れるんだと自分で自分に驚く。気持ちと身体が落ち着きを取り戻し始めると自慢の白い毛皮が擦り切れ赤く滲んでいるのに気がついた。こういう事は気が付かない内は良いのだが、一旦気がつくと思い出したかのように痛みだす。擦り傷なので激痛という訳では無いが外気が揺れるとヒリヒリとした痛みが伝わってくる。どれくらいで治るだろうか。ひとまず今日は大人しくしていよう。考えなければならないことができたからな。それはそれとしてあの小さな果実は美味かったな、また後日必ず行こう。

 さてなんとか熱を帯びていた身体と頭と気持が冷却されて来た事を確認したところで、先程起きた出来事についての整理を始めよう。あの通知は確かに頭の中に流れ込んできた。流れ込んできたと言うより頭の中に映し出された様な感じだった。実際に目の前に文字が現れた訳では無いらしい。おそらく俺以外の誰にも見ることは出来ないだろう。まぁ今のところ俺以外の誰かに出会った事は無いが。いやそもそもあの文字列を俺は本当に見たのだろうか。俺の希望が生み出した幻想じゃ無いよな。だったとしたら少し恥ずかしい気もする。だが本当だった場合どういう事なのだろう。初日に自分で色々と試した結果排除した、可能性を再び確かめる必要が出てくる。捨てたはずの希望にすがる様に確認作業に取り掛かる。

 まずあの通知の内容だ。突然の予期せぬ事だった為と驚きのあまり通知内容が瞬時に理解が出来なかった為に一言一句違わずに思い出すことは出来ないがその意味するところは解る。解ることは二つ。一つ、レベルが上った事。一つ、スキルポイントなるものが10ポイント増えた事。レベルが上った・・・とは言うが何か変わったのだろうか。能力が向上したのだろうか。力や素早さが、HPやMPが上昇したのだろうか。MPは・・・魔法の類があるのならだが。あったらちょっと楽しいな・・・と思ったが、その場合他の生き物も魔法を使うって事か。どちらが良いのだろうか。困った。まだ確定した訳じゃないが。レベル制があるという事はこの世界にはゲームの様なシステムがある、そういう制度の中にある世界だという事だ。生き物全てがこの制度の中にいるのだろうか。俺だけに与えられた能力の可能性もあるが、可能性は低いだろう。植物や鉱物にもレベルが有って自分との差が影響したりするのだろうか。それとも能力値の様なものが影響するのだろうか。生き物としてはレベルや能力値の様なものの数字が全てみたいな、その数字に左右されたり縛られたりするのはなんだか釈然としないが、分かり易い目的や目標になるので良いモチベーションにはなる。個人的には数字を積み重ねる作業は嫌いでは無い。その為にはなんとしてもその数値を確認したい、確認する術が必ず有るはずだ。システム、メニュー、ステータス、設定・・・今回も思いつく限りのそれっぽい事をちゃんと思い浮かべながら声にしてみたが、何も起きなかった。一体どうなってるんだ。やっぱり俺の妄想だったのか?いやそんなはずはない。むしろあの電子音の事を考えるとレベルが存在する可能性が高いと思う。なのに自分でそれを確認できないとはどうなってるんだ。頼むぜ、ファンタジー。あのスキルポイントは、じゃあなんなんだ。どんなに増えても使う事が出来ないんじゃ意味がないだろ。っていうか何に使うんだ。どうしろっていうんだ。せっかく整えた呼吸がまた少し乱れる。くそう。擦り傷まで作って急いで帰って来たのに、結局ほとんど何も解らずじまいだ。レベルが上がるのだろうという事しか解らない、それも不確定だ。レベルが上がる条件も解っていない。ただあのベリーの様な果実を食べている時に起きた出来事だった事を考えると食事が大きな要素だろうという事は確かだろう。食べる物なのか、食べた量なのか、種類なのか。確かめるべき事がまた増えた。何も判らないまま手探りで闇雲に動き回るよりやるべき事がある程度有った方が有難い。という風に前向きに捉えておこう。でもやっぱりがっかりしたし、その分どっと疲れた。傷は痛いし、今日はふて寝だ。おやすみなさい。


 肉体的にも精神的にも疲れていたのだろう、急に気が抜けたせいもあって傷の痛みも睡魔という麻酔に溶けてしまった様だ。目が覚めたら朝だった。兎になってからこんなんばっかだな。まだこの身体の使い方に慣れていないせいもあるのだろうが。頭を持ち上げて傷の状態を確かめて見る。肉を抉られ流血騒ぎになる程の傷でも無かったのでほとんど塞がっている。血が乾き白い毛並みが赤黒く汚れてしまっている。自分の血が赤かった事に少し安心している。角が有る以上普通の兎ではない。自分の体内を流れる血液が赤ではない可能性も考えられた。別に赤くなかったらどうと言う訳ではないが、それでも赤かった事が嬉しくもあり安心もする。不思議なものだ。そして傷がほとんど治っている事にも嬉しくなる。これは若い証拠だからな。三十代を超えると・・・ねぇ?生まれ変わったんだから当然だな。って事は眠いのも、よく眠れるのも若いせいかな。とりあえず今日はまず水を飲みに行くついでに身体を洗ってみるかと思う。そう決めて今日を始める為に立ち上がる。


 そこから十日間程は特に大きな出来事は起こらなかった。何も起こらなかった訳では無いし、幾つか解ったことも有る。レベルは4まで上がった。どうやら食事をするとレベルアップに必要なポイント、いわゆる経験値的なものが規定値に達すると上昇するようだ。草や葉よりも木の実や果実の方がより多くそのポイントを獲得できるようだ。ただ一度だけ葉物を食べている時にレベルアップの通知が来たのでどうやら食事をすれば、何かを食べれば少なからず獲得出来るらしい。そしてあの電子音もだ。これも同様に種類によって差が有るようだ。これは胡桃などの木の実が一番鳴る確率が高い様だ。胡桃の他にも幾つかの木の実を発見し好んで食べているのだが、ポインポインその度に鳴るのは些かうざったい。慣れてきてだいぶ気にならなくはなってきたがそれでも意味が解らないままなので気を削がれる。なんとかならないものか。迷惑メールみたいに俺の安眠を邪魔しないからここは百歩譲っておく事にしよう。食べる物といえば、その見え方にも若干の変化が出てきた。食べたいと思う物、食べても良い物、食べなくても良い物、食べない方が良い物、食べてはいけない物の判別がつくようになった。勿論なんとなくそう感じる、そう見えるという領域は出ていないが、ひとまず後者二つには口をつけていない。これもレベルの影響を受けているのだろうか。レベルと言えば、レベルが上って何かが変わっているのだろうか。能力値みたいなものが有ったとして、それが上昇又は変化しているのだろうか。正直言って全く実感が無い。確かにジャンプの高さや長さ、移動速度は向上したとは思うが一応毎日自分なりに練習している効果が出ているだけの様な気がする感が否めない。助走して飛べば身長の三倍位は跳び上がれる様になった。ついでに言えば宙返りも出来るようになった。何の意味も、使う機会も全く無いと思うが。身体を使う練習とちょっとした遊び心だ。左右への跳躍の他に後方への跳躍の練習もしている。だいぶ慣れてきたが一つ難点がある事に気がついた。いわゆるこのバックステップを使用するのは危機的状況の場合であると考えられる。そんな追い込まれた状態でちゃんと後方を確かめてから跳ぶなんて事はできない。まあ仕方ない。瞬時に相手との間合いを取る為には必要な技術だ。そんな事態になる前に逃げるのが最善ではあるが。とにかく初日よりは運動能力は向上した。それがレベルによるものなのか練習の成果なのか或いはその両方か、今のところ不明である。


 今日も日々の日課を滞り無く終え、第六感に従い自分の領地を拡げて行く様な気分で出発した。家から小川へ向かう。毎日通う慣れた道を軽快に跳んで行く。所要時間も当初に比べるとだいぶ短くなった。もう目印が無くても辿り着けそうだ。だが油断は禁物と自分を戒め二箇所程目印をなぞった。水を飲み小川の上流の方へ顔を向ける。本日の目的地に定めたのはこの支流が始まる場所にと思っている。毎日そうだがこんなに自然に囲まれていて天気が良いとついピクニック気分になる。ずっと似たような景色を見続けているはずなのに飽きないのは自分でも不思議に思う。兎だからと言っても自分が生活している場所をこんなに新鮮に楽しむ事ができるものなのだろうか。少なからず毎日ちょっとした発見もある。ほんの少しだが行ける場所が増えていく。一つ一つ味を確かめながら食事をする。そんな数々の事が楽しくて嬉しくて。そんな風に思えるのはこの森のおかげなのだろうか。この森には何か神秘的な不思議な力が働いていると言われても、きっと今の俺なら信じるだろう。

 流れる小川を横目にその流れに逆らう様に移動していく。その足取りは軽く、この長い耳に届く水の音や風に揺れる木々の葉の音も心地良い。心に多少の余裕ができたのだろう。微かな音にも気が付ける様になった気がする。見える景色も色鮮やかになった様な気がする。緊張しすぎると聞こえなくなる音もあるのだろう、見えなくなるものもあるのだろうと思う。匂いさえも、名前も解らないが花の判別が出来るようになってきた気さえする。もしかして五感も鍛えられているのだろうか。今度機会があったら試してみるのも楽しそうだ。以前より自然が楽しめるようになっている事にウキウキしながら左右を見渡し歩を進めると、左側にとても良さ気な場所を見つけた。目的の合流地点探しは一旦中断しその場所へ向かうことにする。合流地点探しは別の機会でも一向に構わない。素敵な食事処を見つける事の方が現段階では重要だ。目印になりそうな木の幹に角で傷を着けて良い気配のする方へ向かって行く。


 急遽変更したその目的地に着くと、感が間違いでは無かった事を確かめられた。数こそ多くはないがそこに生えている草も成っている小さめの果実も落ちている木の実もはじめましての物ばかり。よおし、片っ端から食べてくぞ。見た感じ食べてはいけないものでは無さそうだし、食べたいと思えるものばかりだ。どれからにしようかと目移りする。数秒迷ったが、どうせ全て美味しくいただくのだから見た目で選ぶことにする。ではまずあのタンポポの葉だけの様な形をした草からにしよう。・・・思ったより固めだ。だけどシャリシャリとした食感が楽しい。柑橘の様な香りを含んだスッキリとした匂いが鼻から抜けていく。当たりだ。自然と口角が上がる。一粒ずつ個別に成っているマスカットの様な果実。大きめの金平糖みたいな木の実と今日までに出会えていなかった物を一つづつ味を確かめる様に味わいながら食べていく。何度か電子音が鳴り気にはなったが、食べたそのどれもが美味しいと感じとても満足していた。そして油断もしていた。新しい体験に気を取られ完全に警戒を解いていた。


 三つ目の一粒マスカットを食べようとした時だった。右側、およそ俺の身長三つ分位離れた場所に音も無くそれは現れた。頭だけでも俺と同じ位の大きさがあるそれの目は完全に俺を捉えていた。そしてその眼と俺の眼が合ってしまった。

 どうやら俺はついに見つかってしまったらしい、捕食者に。

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