2、・・・どうやら腹が減ったらしい
とうとう自分の腹に飼っていると思われる虫がおおよそ虫とは思われぬ豪快な鳴き声を挙げ始めた。
そりゃ生きてるんだから腹ぐらい減る。腹が減るって事は生きてるって事なんじゃないかとも俺は思う。
状況確認に時間を掛け過ぎたのだろうか。しかしこれからこの世界で生きてゆこうとゆうのなら大切な事だ。まだ解らない事ばかりだし本当のことを言えば確認したい事や何か目的や目標みたいな事を考えたりしたいのだがそうも言ってはいられない。本格的に腹の虫が暴動を起こす前に鎮圧に乗り出さないと危険だ。それに空腹の状態で考え事をしてもろくな事にはならないだろうしな。さて、ここはワイルドライフ。お洒落なカフェでゆっくりランチとはいかない。たとえ仮にそのお洒落なカフェがあったとしても今の俺には十中八九ご利用できない。捕食者に狙われる危険と隣り合わせの食事になるだろう。食事なんて無防備になりやすい、ゆっくり味わっては食べられないだろうなぁ。兎の習性はともかく今この身体では食料を運んでくるなんて事も難しいだろう。リスだったら幾つか口の中に放り込んで運べるんだけどなぁ。俺も大きさにもよるんだろうが木の実の一つや二つやってやれないことも無いだろうが。やるかどうかは別として。方法はともかく食料を貯蔵する事も検討するべきかな。さてそろそろ行動に移さないと俺の可愛い腹の中で革命が起きてしまいそうだ。出かける前に今一度、警戒を怠らないようにと心の中で唱えて外へ一歩を踏み出す。正確にはぴょこんと跳び出したんだが。
そういえば兎って何食べるんだっけ?草食だよなぁ。じゃあ草か?目に着く草を手当たり次第に食べて良いのか?いや駄目だろ、毒草とかあるかもしれない。あるに決まってる。植物にはあまり詳しく無いからちゃんと見分けられるか不安だ。木の実やキノコは食べるんだっけ?・・・キノコは危険だ、とりあえずやめておこう。あ、兎といえば人参だな人参。という事は根菜の類は食べられるかもしれないな。で、虫は・・・食べないよな?食べたくない無いけど、というより虫どころか不思議なことに肉や魚も食べたいとは思わない。想像しても美味そうに感じない。兎の本能みたいなものの影響だろうか。少し残念な気もするがそれはそれで助かる。食欲が湧かなければ危険を冒す気が起きないからな。植物を中心に食べられる物を探そう。
そしてもう一つ重要な物を探さなければならない。なんとしても水場を確保しなければならない。近くにあると良いのだが。水源とまでは言わないが小川の一つも見つけられると助かるのだが。そんなに都合よくいくだろうか。場合によっては水路のようなものを近くまで引くか、小さくても良いから溜池でも掘るかするべきだろう。とにかく水を探すのは至上命題だ。頑張ろう。
外に出て辺りを見渡す。五感を研ぎ澄ます。嗅覚は人だった時よりも敏感になっているようだ。草や木の香りに混じって水の匂いもする。聴覚も流石は兎、かなり良くなっているようで、音だけで方向だけでなく地形までも把握出来るような気さえする。錯覚かもしれないが。どうやらそう遠く無い場所に水がある様だ。ラッキーだな、かなり助かる。そちらの方へ向かいながら食べられる物を探そう。
意識して植物、主に草や低い位置に生えている葉の類を観察して見ると不思議な事が解った。なんとなく食べられる物と食べられない物、食べてはいけない物が見分けられる様なのだ。草食動物の本能なのだろうか。まだ本当にそういう能力なのかは解らないが、今は他に頼る知識や経験も持ち合わせていないし判断材料も無い。確かめる為にも実査に食べてみるしかない。どのみち何か食べなければ生きていけない。それにちゃんと食べたいと思える。味は知らないので美味そうとは感じないが、そこにある食べられそうな草を前脚で押さえ口を近づけてその草にかじりつく。美味くはない、でも不味くも感じない。それでも食べられる事が嬉しい。空腹も手伝って気がついたらそこにあった名前も知らない草が失くなっていた。そこでハッとする。完全に周りを警戒することを忘れていた。恐るべし空腹、気をつけよう。三種類程他の植物を胃袋に納めながら水の匂いを辿る。ちゃんと警戒をしながらの少し落ち着かない食事ではあったが、草食動物の宿命だろう。仕方がない、慣れるしか無いだろうな。ただ移動する際に一つ困った事がある。人の時には着いて無かった角が倒木や倒れていない方の木を含め森のあちらこちらにぶつけてしまうのだ。この調子ではいざという時に己の命を縮めかねない。慣れる必要があるだろう、早急に。頑張ろう。
思っていたより簡単に小川を発見した。眼前を左から右に流れている。小川の幅は・・・俺三匹分、おっと失礼俺三羽分位だろうか。流れもそんなに速くない様だ。これなら間違って落ちてしまっても流される心配はなさそうだ。向こう側へ渡る事も可能だろう。暫くはこの川を越えることは控えようと思う。行動範囲としては少し狭い気もするが用心に越したことは無いはずだ。一つの油断が命取りになる。ここだって絶対に安全な訳では無い。というようなことを考えつつ危険が近くに迫っていない事を確認して口を水に近づける。一口水を含み飲み込む。
「うまい!」
心地良く冷たい森の香りを纏った様な水が乾いた喉を通り過ぎた。期待していたより遥かに美味しく感じ、思わず声が出た。慌てて口を両脚で塞ぐ。不必要な鳴き声は自分の居場所を教えるようなものだ。口を塞いだまま首を左右に二三度振り周りを確かめる。大丈夫だろうとは思うが、長居は無用。素早くもう一口飲み、その場を後にする。来た道を戻って行く。実は道を覚えるのは得意な方だ。だがここは森の中、見渡す限り似たような色使い。標識や看板があるわけでもない。目を閉じてその場でくるりと回ったら道に迷うだろう。なのでこの場所に来る間に、あちらこちらに角をぶつける他にしていた事がある。そこに生えている樹木には大変申し訳無いとは思ったが、道順が分かるように角で傷を着けておいたのだ。
その目印を辿り帰路の途中、幾つかの木の実が落ちているのを見つけた。胡桃に似ている。食べられるのだろうか、というより食べたいと感じている。しかし殻がその身を覆っている様だ。これをなんとかしないと食べられないだろう。今の俺にこいつを割ることが出来るだろうか。胡桃の様に二つの半球状の殻が口を閉じている。その接合部分の間に爪なり歯なりをねじ込めば開くことが出来るだろうか。もっと単純に噛み砕く・・・まではいかなくとも噛れば何とかなるか?少なくとも丸々一個を口に含む事はできそうもない。つまり噛み砕くは却下だ。角を使うにしても今の段階では突いて転がすのがせいぜいだろう、却下。踏みつける?無理だな、却下。石でも持ってきて上から落とすか?運べる石の大きさにも限度があるし労力に見合わない気がする。くそう、手が使えたら。そう考えると手ってすごいな。手が使えることが文明を発展させる大きな要因だったのか。いや今そんな事はどうでもいいし今出来ない事を考えても仕方がない。まぁ始めから噛る以外の選択肢は無いに等しい訳だ。というわけでその胡桃似の木の実・・・だよな?を両脚で逃げないように取り押さえ噛りつく。硬い、硬いが何とかなりそうだ。希望があるので諦めずに二度三度と噛りつく。パキッと嬉しい音がして殻が割れ中身が姿を見せた。前歯で割れた殻をもう少し剥がしてゆく。中身は思った通り胡桃にそっくりだった。香りも俺の知っている胡桃とほとんど変わらない。逸る気持ちを抑えながらその中身を取り出し口の中に入れ奥歯で慎重に噛み砕く。歯触り、固さ、鼻に抜ける香り、味。
ーー美味い!!!
本日二度目の「美味い」が出た。俺の知っている胡桃と大きな違いは感じられない、それどころか今まで食べたことのある胡桃より美味しく感じる。胡桃ってこんなに美味しかったのか。美味しさのあまり脳が痺れる様な、全身が震える様な感覚さえ覚えた。とにかくこの木の実を胡桃と呼ぶことを心に決めた。この世界での好物にも決定した。この衝撃を俺は生涯忘れることは無いだろう。そしてここでまたしても本日二度目のハッとする。警戒を解いていた。兎初日とはいえ同じミスをするとは。自分を戒める。それはそれとして、胡桃はまだ残っている。俺は二個目に取り掛かる、今度は警戒を怠らないようにしながら。二個目もやはり美味い。二個目の最後の一欠を味わいながらゆっくり咀嚼し、名残惜しいが飲み込んだ時だった。
ーーポイン。
と、この自然の中で明らかに不自然な音を聴いた。転生して一番の緊張が走る。即座に視点を高くし左右に首を振り、視覚聴覚嗅覚を最大限活用して辺りを見回す。自分でも驚く程の集中力だったと思う。気配はないと思う・・・たぶん。だがあの音は一体。どう考えても電子音の様に聞こえたが。まさかこの世界、ファンタジーじゃなくてSF的な世界なのか?ビームが飛び交うような世界だったり、よもや二足歩行の機械に乗って戦う世界だったりするのか?そしたら角があっても兎じゃかなりやばめだな。オーラ力も無いし。いや、その世界でも駄目だな。甲虫型の戦士を操縦するのは無理そうだ。戦火を避けるにしたって、状況を把握するにはどうしたら良いのか。いやそれでもだ、それでもこの兎を全うしてやる。まぁ最悪を想定しておいて悪い事は無いだろう。とりあえず今日はこのまま帰ろう、そう決断して残った胡桃一つを前歯で上手いこと縁を摘むように咥える。そして着けた傷を辿り無事に帰宅する。
我が家に戻って来られてホッと一息つく。不思議なものでこの場所を自分の住処だと思えるし安心できる。帰宅して本日はもう外出はしないだろうと思い出入口から少し距離を取ろうと中へ入った。一応向きを反転させ警戒はしておく事にする。ただ勘ではあるがこの場所に危険が及ぶことは極めて少ないだろうと思える。その場に身体を落ち着け、咥えていた胡桃を離す。目を閉じてゆっくり深呼吸を一つ。
目を閉じたまま今日起きたことをサッと思い返す。ゆっくり目を開き、帰宅までに起きた事を整理しながらなぞる事にしてみる。
初めて食事をした。野草を数種類食べてみたが特に美味しいとは感じなかったが食べたくないとも食べるのは危険だとも感じなかった。食料として大きな問題は無さそうだ、これで食料問題が解決したとまでは言わないが困窮する事は無くて済みそうだ。明日になって腹を下す様な事が無ければだが。近場ばかりで済ますと遠くないうちに枯渇してしまう恐れもある、少しづつでも活動範囲を拡げる必要だろう。食べられる物の種類も増やせるとなお良い。
水場も思ったより近い所に発見することができた。これはかなり大きい。ここを出て左前方に少し行った所にあった。今現在、距離感も時間感覚も方角も何一つ確かなものが無いので曖昧で幼稚な表現になってしまうのが残念だが。ただもう少し近い方が便利だし安全に行動できる気がする。余裕が有れば水路を作る事を考えてもいいだろう。あくまでそんな余裕が有ればだ。それにしても水があんなに美味いなんて。今まで俺が飲んできた水は本物だったのかと疑いたくなる程衝撃を受けた。これは兎になったことも関係あるのだろうか。それとも野生動物だからなのだろうか。この水自体が特別美味しい物の可能性もある。なんだかこの水のお陰でようやくこの世界で目が覚めた気がする。
本日はこれ以上の成果を望む必要は無いと判断し帰る選択をする。家路の途中、今目の前にも一つある胡桃を発見する。殻を割るのも比較的簡単だった。水もそうだったが胡桃も衝撃の美味しさだった。確かに俺はナッツや豆の類は好きな方だったと思う。たぶん。ピーナッツもカシューナッツもピスタチオも胡桃も枝豆もそら豆もその他色々。思い出せるし今も好きなものだと思える。それでもあんなに新鮮に美味しいと感じることが出来るなんて。この事に関してだけはなんと幸せなことなのだろうと思う。問題は二つ目の胡桃を完食した時に起きた出来事だ。
《ポイン》というどう考えても電子音としか思えない音が聞こえた。すぐに反応し全神経を集中して辺りを警戒した。俺の能力でどれ程の事が感知・察知出来るかは今のところ不明だが付近に何かの気配を見つける事は出来なかった。もし相手が生き物では無かったとしたら気配を探るのは無理かもしれないが、この森に生い茂る木々の枝や葉、野草を一つも揺らすこと無く移動するのは不可能では無いかと思う。俺の認識の上を行く技術力で超小型のドローンの様な物だったとしたら可能かもしれないが、そこまで隠密性に優れているのだとすればあんなに目立つ音を発するのは極めて不可解だ。今思い出して見ると本当にそんな音がしたのか自信が失くなってきた。慣れない環境と極度の緊張による幻聴だったのかもしれない。その可能性も大いにある。・・・やめよう、今はどちらの可能性もそれを証明する為の証拠が無いに等しい。もしまたあの音が聞こえたらその時考えよう。
本日起きた事も一通り整理出来たかな。気がつくと、持ち帰った胡桃を前脚で右に左に転がしながら考え事をしていたようだ。そのまま手遊び・・・脚遊びを継続しながら明日以降の予定をなんとなく考え始める。とりあえず右に行ってみようとか身体に慣れる為にも家の前で少し体操がてら運動しようとか食べられる物の種類をもう少し増やせると良いなとか寝床も整えないとなとか・・・。
疲れていたのだろう、気がついたら次の日の朝だった。次の日になったのだと確信できるのは意識が溶ける前の景色がオレンジだったのを覚えていたからだ。軽く欠伸をして首を持ち上げる。その首の下から昨日の収穫物の胡桃が一つ姿を見せる。じっと見つめ暫く考える。食べてから今日を始めようかとも思ったが、せっかくの初めての収穫物だから記念の意味も込めて取っておこうと決断する。「よし」と呟き立ち上がる。記念の胡桃を軽く左に転がし、横目で止まったのを確認し動き始める。家から外に出ると今日もいい天気だなと感じられた。家の前はまるで意図的に整備された庭のように都合よく四畳半ほどの広場がある。そこで確認と練習も兼ねて準備運動をする。少し兎の感覚に慣れたのだろうか、昨日よりスムーズに動ける様な気がする。野生動物は成長速度が早いだろうからな、その影響かなと前向きに捉えてみたりしてみる。・・・そういえば俺って生まれたばかりなのか?それにしては身体が結構出来上がっているのでは?子供だった記憶が無いような・・・。まあ良いか、現状がこれなんだ。俺には今変える事ができないんだから考えたってしょうがない。そのうちどうにか出来るようになるかもしれない。とりあえず今日も一日頑張ろう。
準備運動を終了し、少し休み息を整える。心の中で行ってきますと唱えて昨日の予定通り右の方の森へと入っていく。もちろん昨日同様、道行きの途中で各所に角で印を刻みながら。どうにか人参の一つも見つかると良いなとちょっとした遊び感覚で食べられそうな物を探しながら少しずつ行動範囲を増やしていく。一つ草を食べて少し進み、また一つ葉を食べて少し進むみたいに何回か繰り返した。昨日小川に辿り着いたくらいの距離を移動した。と思う、たぶん。まだ距離感が正確では無いだろうからまあまあの誤差があるだろうが。とりあえず一旦引き返す事にする。多少つまらない気もするが慣れるまでは我慢しよう。来た道を戻りながら、もう二回程食事をする。気のせいかもしれないがなんだか昨日より美味しく感じる。確かに昨日と違う物も食べたが、おそらく同じ物だと思う物も口にしたが両方とも美味しく思えた。味を覚えたのか、味に慣れたのか。どちらにしても美味しく思えるのならありがたい事だ、精神的にとても助かるし食事そのものが楽しみになる。警戒が緩まないようにしないとな。
出発地点に戻ってきた。庭で一休みする。次は昨日行った小川まで、道を覚える必要もあるので行って来ようと思う。暫くの間はこれを日課にしよう。ついでに寝床快適化計画に利用できそうな物が無いかも探して見ようかとうっすら考えてみる。たぶん枯れ葉位が妥当なラインだろうとは思うが。他の動物の毛皮や羽毛なんて非現実的だし、俺自信が毛皮なんだもんな。あんまり意味が無さそうだな。無駄に暑苦しそうだ。冬になったら必要になるのか?って言うか兎って冬眠するんじゃなかったっけ・・・どうしよう。冬眠ってしたこと無いからわかんないな。困った。
そんな事を考えながら小川へ向けて出発する。そういえば季節って今は何時なんだろうか。木々の葉は緑だからおそらく秋や冬ではないだろう。ん?胡桃って?どうなってんだ?まだ確定では無いが、もしここがファンタジーな世界なら四季そのものが存在するのかどうかも判らないしなあ。そうなると今までの常識や法則が通用しない可能性もある。冬が来ないのかな、雪でも降ればだいぶ保護色で助かるんだけど・・・あ。白って凄く目立つんじゃ・・・。くそう。せめて黒なら。思わず二度程辺りを見回す。
昨日着けた目印のお陰で迷わずに小川まで来ることが出来た。そして小川の水を飲む。昨日同様に美味い。いやむしろ昨日と同じくらい新鮮に美味しく感じることに驚く。何なんだこれは。この水は何か特別なものなのか?不思議な素敵パワーでも身につくのか、もしかして。何処かの星の王族みたいに飲み続けたらマスクの下の素顔が光り始めたりするのか?・・・なんてな。マスクじゃないし。でも本当に美味いな。ここに来る良いモチベーションになる、有り難い限りだ。家の方向はなんとなく分かるから少しだけ遠回りしてみるかと昨日とは違う方へ・・・と思ったが、まだ早いと自制し今日のところは知ってる道を使うことにした。
帰りながら幾つかの草や葉を食べ、数ヶ所の目印を角でなぞってより確かなものにしておいた。昨日胡桃を見つけた場所で今日は四個落ちているのを発見した。正直ちょっと気分が上がる。だがあの電子音の件もある、近くに何者かが潜んでいるかもしれない。逸る気持ちを抑え警戒を強める。だが昨日同様何かの気配を感じ取ることは出来なかった。どうしようかと考えて胡桃を食べたいという欲が勝った事は言うまでもないが、家からの距離もさほど遠く無いので多少面倒くさいが一つずつ持って帰る事にした。今思いつく一番安全な方法だと思う。危険だと思ったら途中で諦めればいいし、いい練習になるはずと前向きに考えておこう。
流石に疲れたが、何事もなく四個全て家に運ぶことが出来た。大収穫だ、今日は良い日だ。最後の一個を収穫しに行った時、近くの木を観察してみた。胡桃が落ちている場所から予測しおそらくこれであろうという木を特定した。特徴を覚えておけば他の場所に生えている「胡桃の木」を判別できるかもしれない。見つけることが出来ればより安全に胡桃が手に入るかもしれない。こちらも大きな収穫かもしれない。兎二日目にしてはなかなか良い成果じゃないだろうか。悪くないぞワイルドライフ。さあ胡桃を食べようっと。
一個を昨日持ち帰った胡桃の横に丁寧に並べ自己満足の鼻息を一つ。それにこれからあの胡桃を食べられると思うと自然と口角も上がる。ここならほぼたぶん絶対安全だろうからな。・・・だと思うんだがな。気分的には小躍りしながら今日の分の胡桃の前まで行き、行儀良く座る。どれから食べようかなと前脚でそれぞれを触って選んでみたりしてみる。どれも同じ胡桃なので違うのは僅かな大きさ位だろうが、もしかしたら当たり外れがあるかもしれないじゃあないか。勿論全部当たりの方が望ましいが。なに、全部ハズレって事は無いはずだ。無いに決まってるさ、たぶん。・・・引きが弱かったのを思い出した。自信が失くなってきた。いやいや大丈夫と首を振って、胡桃様に向き直る。どうかお願いしますと、ちゃんと出来ていたかは多少疑問が残るが合掌し一個目に取り掛かる。少し慣れたみたいで昨日より手際よく一個目の殻を外す事が出来た。待ちに待った胡桃を心地良い音を立てながら味わう。噛み応えも音に負けてはいない心地よさを感じる。胡桃の持つ独特の芳ばしさと味が嗅覚と味覚を胡桃色に染めながら通り抜けていく。あぁ、幸せって実はこういう事だったんじゃないかと思わせてくれる。
《ポイン》
と、あの電子音がする。完全に油断していたので冗談抜きで心臓が止まる程驚いた。全身が凍りつき冷や汗が流れる事で更に動けなくなる様な感覚になる。家の中にいて聞こえるという事はここまで何者かが近づいているということなのか。そんなはずはない。勿論可能性としてはゼロでは無いが、直感なのか本能なのかは判らないがここが安全であるという確信がある。何にかは判らないが守られている様な、ある種の聖域或いは結界の様な力が働いているのでは無いかと感じている。深呼吸を二度する。歯を食いしばり外に出て周りを頭と眉間が痛くなる程緊張と集中をして警戒する。足早に中に戻り止めていた呼吸を再開する。今度は乱れた呼吸を整える為に深呼吸をする。少し落ち着いてきた。冷静になってくると一つの疑問が湧いてきた。俺は確かに家の中にいた。なのに聞こえた音が昨日と同じ大きさだった様に思える。おかしい。何処かから聞こえてくる音なら、外で聞いた場合と室内でその音が聞こえてくる場合とは明らかな違いがあるはずだ。だがそれが無かった、様な気がする。・・・ということはまさか俺の中から聞こえてきているのか?そしてこの音は俺にしか聞こえていないのか?ならばどうしてそんな音が聞こえるのか。どんな意味があるっていうんだ。一体何なんだ。
落ち着け、俺。目を閉じてできるだけゆっくり呼吸をする。あの電子音を聞いた時の共通点は、このとても美味しい胡桃を食べていた事。今までに食べた胡桃の数は三個、その内音が聞こえたのは二回。その二回は連続で聞いた、日は跨いでいるが。一日一回、胡桃を食べると鳴るのか?もしかしてこれから胡桃を食べる度に鳴るのか。それとも他の木の実を食べても鳴るのか。草や葉を食べた時は鳴った事は無い、今のところだが。水を飲んだ時も同様に無い。この電子音の意味するところは今のところ解明するのは難しそうだ。だが鳴る法則を解明する事は出来そうだ。そしてその可能性の一つを証明する為の手段がどうやら都合よく手元にあるらしい。計四個程。