お嬢様とオペラの夜1
お嬢様とオペラの夜
ポルジェ候家の興りは今から約600年前に遡る。一族は元武力で功をなした小規模な豪族であったが契機は当時大陸を支配した皇統の断絶である。古き帝国が崩壊し、国が千々にみだれた折、ならず者と同義であった傭兵隊長として旗を揚げたのが後の初代ポルジェであるアバントス=クリード・フュメ・クリードである。
豪放な性格で知られたアバントスは謀を好まず、己の武勇を頼り剣によって自己を立脚した武人であった。彼は己の血の卑しい事にいささかの後ろめたさを覚えず、500人の部下を連れ戦火の迸る大陸を戦場から戦場へ渡り歩いた。10年の後彼は終の主を見出した。戦乱の終わりが見えてきたのである。これが今のクロスマン王家である。
かつて帝国の大公家であったクロスマン家に奉じ、王国の樹立に貢献し戦火を収めた功臣として爵位を賜ったに至る。その際神聖古語に置いて剣を表すポルジャの名を贈られ、以後アバントス=クリード・トワレ・ポルジェと名乗り、辺境伯として国防を担いつつ、次第に国政への野心をもつにいたる。
ここで彼を阻んだのは彼の血。即ちクリードの血統である。その為にアバントスはその終生まで政治の中心へ食い入ることはかなわなかった。アバントスの野心の挫折は彼の能力と直接の関わりのない伝統と偏見であった。彼と彼の血が認められるのはその後、5代を要し、以後王国の要職を歴任する名家となり、ポルジェの名は建国と共にある伝統となった。そして現当主カリス=ジャドール・トワレ・ポルジェ・オード・ドュマジーの先考により、最も古く、高貴といわれるムスキーの血統の令嬢を妻に得――
プリジェが生まれた。
本日は晴れ! 雲も気にならないお洗濯日和です! あれから数日が立ちましたが、私はこれまで10年間お仕えしてきたように、お嬢様の身の回りのお世話をさせていただいています。時々の奥様や旦那様から申し使うお仕事をこなし、メイドとして本日も立派にお勤めしています! 院長先生、ではなく神官長さまからいただいた隠れて有能との評価は伊達ではありません!
そして、やはりお嬢様は8歳で処刑されたときのような狂気などは影も形もありません。本日もお美しく、時々わがままを仰ることもありますが誰よりご聡明でしっかりと家庭教師の先生がたと向きあっていらっしゃいます!
「今日はおなかが痛いからお勉強はいやよ」
……むきあっていらっしゃいます!
「しかしプリジエ様、この前もそう仰って……」
「いやなものは嫌だもの」
お嬢様は言い切ってしまうと先生に対してそっぽをむいてしまいました。
家庭教師の先生は八の字に垂れた眉で私へと目を向けられます。そんな目で見られてもフローレスは所詮は側付きのメイドにすぎません。いかに有能なメイドも時として無力なのです。
結局、家庭教師の先生はお嬢様の意思が変わらないと見て「本日はここまでにしましょう」と仰り、そのまま旦那様のお書斎へとたたれます。
そのあいだお嬢様はずっとそっぽを向かれ、その目は興なさげに窓外をご覧になっています。そのいかにも頑是ないまろびた頬は高貴な方だけに許された無関心が漂っていらっしゃいます。風を入れるため放たれた窓からはまだ冷たい春風が優しく吹いてお嬢様の柔らかな髪の毛を撫でています。
「フローレス」
「はい、お嬢様」
「お茶をいれてくれるかしら」
お嬢様の目は変わらず窓の外に向けられています。花の咲くにはまだ早く、よろぼうた日の中を気の早い蝶が舞っているだけの閑雅なお庭です。
「かしこまりました。銘柄は何にいたしましょう」
こんな時できるメイドはすでにお湯を沸かせているものです。もちろんわたしは有能なメイドなので茶葉の準備までばっちりです。
「任せるわ。甘いものでお願い」
「かしこまりました」
危うく蒸らしかけた渋めのお茶は即刻お帰りいただきました。もちろんできるメイドのわたしはお嬢様のご気分に合わせてあまあまのお茶をご用意いたします!
「……あなたは、何も言わないの?」
「は?」
「今までわたしの側付きだった人からは、乳母だったんだけど、お勉強をしたくないというとよくしかられたわ」
お嬢様は見るかなきかにさ迷わせていた視線をはっきりとこちらに向けられます。とびぬけて明るい黄金の瞳に見つめられ私はなつかしい気分になりました。
なにかする、しないと決めれらたお嬢様にはこちらが何をいっても無駄という事を10年前にわたしはすでに存じ上げているのです。泣いてもだめ、怒ってもだめ、押しても引いても効かないし、拝み倒したって駄目です。
たった一点を除いて。
「お嬢様のご意思をかなえるのが側付きの者の使命でございますから。……ただ、お嬢様が頑張れれば王子殿下もお喜びになるかとは存じます」
秘儀、惚れた弱みです。かつてのお嬢様こう申し上げれば大抵はわがままをお納めになっていたのですが……
「わたしが花の生け方だとか、綺麗な字をかいたって殿下は別にお喜びにならないわよ」
くすくすと笑いながら相変わらず変なメイドね。なんておっしゃいます。
そうでした! この魔法の言葉が通じるのはあと2年後、お嬢様があのぼんくら殿下をお見初めになってからの事でした!
なにより……
もうお嬢様には絶対に近づけないと誓ったのに、私はなにを馬鹿なことを……!
わたしが全身を貫く公開にさいなまれていると、お嬢様のほうから歩み寄って下さいます。
「でも……奥羽時殿下がお喜びになるかは別にして、お稽古は頑張らないとね」
髪をうっとしげに搔き上げられる様のなんとお美しい事! ますます王子なんか近寄らせるわけにはまいりません!
「それが、高貴に生まれた者の義務だもの」
お嬢様のご成長あそばされたお言葉にわたしが胸中で滂沱の涙を流していると、控えめなノックが聞こえてきました。お伺いすると奥様の側付きのメイドでした。文面上では側付きには上下の別はありませんが、主人の身分がヒエラルキーに反映されるという暗黙の了解があります。つまり、奥様の代理人としていらっしゃったわけです。
その要件とは――
「こちらの招待状をお嬢様にお届けするようにと、奥様から承りました。では確かに」
それは、たった今避けようと心に誓った、王宮の璽のついた、金箔押しの招待状なのでした。