酢いも甘いも若者のすべて3
小さな雪虫が口の中に入り込む感じがした。
多分気のせいだと思うが、口に違和感を感じる。
真夏のピークは何ヶ月も前に帰路に着き、今では北風に乗せられた金木犀の香りが鼻腔を突く。
信号機のない国道の交差点脇、
そこには菊やら百合、それから、よく分からない花たちが白い紙に包まれて献花台に置かれてある。
「あ、ごめん。私死んじゃったみたい。」
献花台にある花を見て、加藤葵は苦笑いを浮かべる。
その謝罪は、この人に向けての言葉だ、という明確なものではないが
父と母、アニメが好きで引きこもりがちな婚約者や、夏に久しぶりに再開した親友の顔が頭に浮かぶ。
葬儀は滞りなく行われて、私の骨は札幌にある緑に囲まれた墓地に埋葬された。
自分のお墓に供えられてたフルーツや和菓子に手を伸ばしても、葵の透ける体では掴むことも飲み込むこともできない。
その現実に「死」を今更ながらに実感し、心寂しい気持ちになったが、それほど落胆することはなかった。
ただ、見るたびに悲痛の涙を流す母親や普段は寡黙なのに声をあげて泣き散らかした父親のことを思うと胸が締め付けられる。
お父さん、お母さん、親不孝な娘でごめんなさい。
生気の宿っていない表情で、婚約者の大山田謙人は毎日、お墓にきてくれた。
「なんだか、すごく懐かしいね」そう呟くと謙人は言葉を続けた。
引きこもりがちの僕が毎日のように君に会いに外の空気を吸うのは。
4年前、あのカフェで君と出会って、ずっと1人で生きてきたモノクロの僕の世界は突如として鮮やかな色を持ったような気がしたんだ。
全部君が教えてくれたんだよ。
こんなに人を好きになれることも、そしてその素晴らしさを
こんなに好きなのに物凄く腹立たしい感情になるのも
こんなに誰かのために頑張ろうとやる気がみなぎってくるのも
そして、こんなに悲しくて涙が止まらないことも。
全部、全部、君が教えてくれたんだ。
君のいないこの先の人生で、僕は前みたいに笑うことができるのかな?
想像できないや、けどいつまでも泣き腫らした目で君の前に来てちゃあ、君にまた叱られちゃうよね。
次に来る時は、くだらない話でも仕込んでくるとするよ。だから笑って僕の話を聞いてくれよ。
夢だった君との結婚生活は叶わなかったけど、そこで君が笑うはずだった分、笑顔にさせるから。
君がいたから僕は夢を見れた。ほんとに、本当にありがとう。葵。
謙人、ごめんね。君を置いてきちゃって。
私も君と笑い合う人生をもっと送りたかったし。大山田葵を名乗りたかった。
だけど、私はもういないの。だから、また別の人に出会って、幸せになって欲しい。
悲しいけど、あなたがずっと笑顔でいてくれるのが私の願い。
どんなにべっぴんさんでも、君の発見した3回の法則を使えば心配はいらないはずだよ。
大切な人を失った痛みは、時間が経てば少しずつ再生していく
来るたびに頬から大粒の涙を流していた母も今では元気を取り戻して、週に一回綺麗なお花を持って来てくれる。
お父さん、髪が随分と白くなってきたなあ
まあでも当然といえば当然か、あれから10年も経ったのだから
美咲ちゃんは今でも定期的に来て、色んなお話をしてくれる。
もっともそれらの大半は仕事であったり、旦那さんの愚痴であるが
長い時は5時間くらいお喋りをしている。流石の葵も5時間の話をずっと真剣に聞くのは疲れてしまうが
「ちょっと、葵話聞いてる?」と絶妙なタイミングでいうものだから、一瞬ビクッとする。
美咲ちゃんには私のことが見えてて、声も聞こえてるのかな?と思うくらいだ。
お腹の膨らんできた彼女が、あまりにも長いこと話をしているものだから時折心配になる。
美咲ちゃんもそろそろママになるのか‥感慨深いなあ
美咲ちゃん、実は私ずっとあなたのことを羨ましく思っていたの。
クラスでも人気者で、みんなが周りが見えなくなるくらい大騒ぎしている時も
あなたはしっかり周りの状況を見て、迷惑にならないように、誰も傷つけないように気を配っていた。心の優しい女の子
私はずっと美咲ちゃんに憧れていたんだ。友達でいてくれてありがとう。
欲を言えば、また海でおしゃべりとかしたかったなあ。
例年に比べると人々の衣装は薄着のように思えた。葵の体では寒さを感じることができないから、そういった視覚的な情報で判断せざるおえない
どうやら今年は暖冬であるようだ。
墓地の隣には小さいながらも立派な遊具が立つ公園がある。
その公園とお墓をつなぐ道を小さな少年が、フジファブリックの若者の全てを口ずさみながら自転車で駆ける。
葵はその少年を見て、思い出す。
夏の気配が見え隠れする夕暮れの中、街に轟いた夕方のチャイムに瞼を閉じて耳を澄ませていたこと。
その横で小学生くらいの男の子が鼻歌で若者の全てを歌って、虚ろな表情で俯いていたこと。
禍々しい音を響かせて、トラックがこっちに迫って来たこと。
腕が勝手にその男の子を突き飛ばしていたこと。
視界が大きく揺れて宙を舞ったこと。
自分はいつまでここにいるんだろうか。
私って成仏出来ないのかな。
事故に遭ってから、透明な体で墓石の前にかれこれ10年いる。
両親や友人が今でも定期的に会いに来るので、寂しいという感情も不満もないのだが
永遠にこの場所にとどまっている自分に不安を抱く。
まだ何か未練があるのかな。
なんてことを考えていたら、遠くの方から若い男の人がゆっくりとこちらに向かってくる。
長い黒髪に、綺麗な顔立ちで幼く見える。死人は歳を取らないのであれば、年齢は葵と同かちょっと下くらいだろう。
背中にはギターケースを携えている。
ケースからギターを取り出すと、私の墓石の目の前、お墓のど真ん中でおもむろにギターのチューニングを始めた。
この人もしかして、墓地で演奏するつもりかしら‥
お墓とギターという異色の組み合わせにアンバランスさを感じながらも
その青年のゆっくりとした手つきを見ていると、カフェでサリンジャーの小説を読む。それくらい自然なもののように思えた。
そしてギターの音がメロディーを纏った、小刻みな弦の振動があたりを飲み込む。
聞き覚えのあるメロディーが響く、若者のすべてだ。
葵は大好きな曲に胸が昂ぶるのを感じた。
彼は小さく声を吐き出す。その曲を聴き込んでいた葵にはわかった。音程は完璧だ。
声にはどこか不安定さと寂しさがこもっている。けどその不安定さが絶妙に聞く人の心を鷲掴みにする。そんな声だった。
そしてその声は、葵も聞いたことのあるものだった。
あの時の男の子‥
歌声ですぐにわかった。あの日トラックが衝突してくる前に、口ずさんでいたあの声と同じだ。
赤く染まった夕方の墓地に彼の演奏と歌が響き渡る。
お墓参りを目的にきたであろう。人々はその光景に不謹慎なやつだなという視線をぶつけるも、次第に彼の歌声に聞き入っているようだ。
人を惹きつける、そんな魅力的な声をしている。本来であれば迷惑この上ないことなのだがその場にいる誰もが、彼の歌に耳を傾けている。
すごいなあ、葵の目から一粒の涙が溢れた。
「あれ!あの人この前デビューしてテレビに出ていた人だ!」
どこからともなく、そんな声が聞こえる。
ああ、よかった。
君はこれから、その声で、色んな人を救っていくんだね。
私の命も役に立ったんだな。
私が繋いだ命が、誰かを助ける。こんなに嬉しいことはないよ。
ありがとう。
供えられていた紫に色づいた葵の花びらが一枚、風で飛ばされ宙を舞った。
その光景を浮いていく体で、眺めていた。
若者のすべてに見送られながら。