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ラーさんの短編集

さよならマスク

作者: ラーさん

幼馴染の女の子に「密だね」と言わせたいだけで書いた。

 その年は新型ウィルスの世界的な蔓延で、みんなマスクをして過ごしていた。

 だから当然、ボクも彼女もマスクをしていて、それは最後の登校の日も同じだった。


「三密回避の徹底のため、窓は開放し、席は間を開けて座るように。また、近接での会話や、不要な接触は避けるように」


 分散登校で閑散とした教室に響く先生のそんな話を聞きながら、ボクは暑苦しいマスクの下でずっと、机の中に入っていた一枚のメモのことを考えていた。


「――それと、今日はみんなに残念な連絡がある」


 メモには見覚えのあるキレイな文字で、『終わったら校舎裏で』と書かれていた。


「吉岡が家庭の事情で転校することになった」


 先生の言葉に席から立ち上がる女子生徒がいた。みんなの視線が注目する。


「今までありがとうございました」


 マスク越しに見えない表情で教室を見渡し、彼女は別れの挨拶を短く告げた。

 メモの差し出し人の名前は『吉岡美津江』だった。



   *****



 学校が午前中で終わると、先生たちは「まっすぐに家に帰るように」と念押しに念押しをして、追い出すように生徒たちを下校させていった。

 そんな先生たちの目を盗んで、ボクは校舎裏へと急ぐ。

 吉岡美津江は、幼稚園から同じクラスに何度もなってよく遊んだ仲の良い女子で、いわゆる幼馴染というヤツだった。

 そんな彼女からの、それも彼女が転校する日の呼び出しに、ボクはざわつく胸を押さえるのに必死だった。


「――吉岡」


 校舎裏、夏を早取りしたような白い陽射しの中、彼女は校舎の影にひっそりとして、ボクが来るのを――あのときと同じように待っていた。

 影の中にたたずむ彼女の白いマスクはひどく印象的で、その上から見える普段はキリッとした切れ長の目元がやわらかく笑ったのに、ボクは思わずドキッとしてしまった。


「ありがとう。来てくれて」

「いや、その、手紙……あ、いや、転校って」


 ボクにはこの呼び出しの理由について心当たりがあった。それについてどう話そうかということで頭がいっぱいいっぱいなボクにくらべて彼女の態度はすごく落ち着いていて、ボクは自分の負い目がますます強くなって身体が固くなっていくのを感じた。


「その――」

「どう? ドキドキした?」


 そんなボクのしどろもどろした様子なんて気にも留めないように、彼女は小首を傾げてそう訊いてきた。


「――え?」


 意地悪げに彼女が言う。


「転校の日に校舎裏に呼び出しなんて、マンガだったら告白のシチュエーションじゃん」


 おどけた声でそう目だけで笑う彼女の視線に、ボクはたじろいで目をそらす。校舎の影から見る陽射しの白さが、いやにまぶしく目に刺さった。


「……でも、違うんだろ?」


 うつむいて逃げた視線の端で、彼女がボクを見ている。重いわだかまりが胸からせり上がってきて、弱く震えた情けない声になって、喉からぽつぽつとこぼれてきた。


「――ごめん。あのときのこと……後悔してる。怒ってるなら、その、殴ってくれたって――」

「違うよ」


 ボクの言葉を切るように、彼女は強い声でそう言った。その声に顔を上げると、彼女はマスクからそこだけ見える目を細めて、怒るでも責めるでもなく、ただ悲しげにボクの目を捕まえるようにして見ていた。


「……あ」


 何秒だろうか、沈黙がボクと彼女の視線の間で交わされて、けれどそこに交わされない感情がボクと彼女の間にあって、戸惑いとなって浮いていた。

 木々の梢がざわついた。湿り気のない風が吹き、彼女はそれを嫌がるように口を開いて、さっきの強い声とは一転してしぼった――終わり際の線香花火みたいな声で言ったのだった。


「転校するでしょ、あたし――」

「誰か残っているのか!」


 先生の声だった。校舎裏まで見回りに来た――そう思って声の方を振り向いたときには、ボクの手は彼女の手に握られていた。


「こっち」


 手を引く彼女とボクは走り出し、学校と裏山を隔てるフェンスの切れ間をすり抜ける。


「はぁ、はぁ――」


 風が鳴っていた。新緑の葉が揺れて木漏れ日が踊る細い小道を、学校を抜け出てもう走る必要もないのにボクたちは走っていた。

 息が聴こえた。走るほどに熱く汗ばむ肌を風が冷ませば冷ますほど、握る手は熱く彼女とボクをつないで、そのせいでボクたちは走っていた。

 マスクの息苦しさと動悸の高鳴りとが混ざり合って胸が絞まるように軋んで、けれど止まることが何か裏切りになってしまうように思えて、ボクたちは走り続けた――。



   *****



 男子と女子というヤツは、同じ教室にいることは小さい頃と変わらないのに、成長すればするほどに分かれていって遠いものになってしまう。

 そしてそこから再び近づくには、ただ仲が良いという理由だけでは許されなくなってしまうのだった。


「好きです。付き合って下さい」


 半年前、そうボクに告白してきたのは、隣のクラスで同じ部活の三原のり子だった。


「は、はい……」


 友達の女子数人を後ろに連れて、放課後のクラスメイトの大半がいる教室の中で行われた彼女の告白に、ボクは断るなんて選択を思いつかずにそう答えたのだった。

 三原さんのことは好きでも嫌いでもなく、今まで特に意識をしたことはなかった。けれど突然の告白というイベントにざわめき立ったあの教室の空気の中で、彼女を傷つけるようなことだけはしてはいけないという気持ちが、ボクに初めての彼女を作らせたのだった。


「……ありがとうございます」


 三原さんが嬉し涙を溜めながらそう言うと、イベントは一気に盛り上がった。


「やったじゃんか! うらやましいな、おい!」

「いきなり彼女泣かせやがって! 外道な彼氏だな、おい!」

「リア充はバクハツするものって昔から決まってんだぞ? バクハツしろよ、このヤロー!」

「ヒューヒュー!」


 このカップル成立はみんなに祝福された。女子が隣同士で囁き合いながら拍手をし、男子がはやし文句を上げて口笛を吹き鳴らす。そんなお祝いムードの中に、あいつの声も聴こえてきた。


「よっ! ニクいね、色男!」


 このとき吉岡は満面の笑顔で親指を立てて、ボクと三原さんのカップル成立を祝福したのだった。



   *****



 ボクと三原さんが付き合いだして一ヶ月が過ぎた頃だった。


「やめて欲しいです」


 三原さんが上目遣いにそうお願いしてきたことは、


「あの人と話をするの」


 ボクと吉岡との関係だった。


「あの人、ちょっと距離が近くて」


 ボクに彼女ができても、ボクと吉岡の友人関係は変わらなくて、吉岡も気さくに「彼女とはどう?」と訊いてきたり、ボクもボクで初めてできた彼女との付き合い方で女子の意見を聞こうと何度か相談したりしていて、むしろ三原さんのことで話す機会が増えたくらいだった。


「見ててわたし……傷つきます」


 三原さんはボクの服の裾をつまんで、伏し目がちにそう懇願するのだった。

 その頃からだ。吉岡がクラスで浮くようになったのは。


「吉岡さん、彼女持ちに手を出すなんて大胆よね」

「いくら仲が良かったからってさ。横から取られて悔しくなったんじゃないの?」

「でも彼もひどいよね。彼女がいるのに別の女子と楽しげに話したりしちゃってさ」


 ある日、そんな女子同士の陰口が教室の端っこから聴こえてきて、そこでボクは吉岡がボクと話すとき以外に誰かと会話しているところを見なくなっていたことに気づいたのだった。


「あんまり話すの、やめようぜ?」


 放課後の校舎裏。ボクは吉岡を呼び出して、そのときそう切り出した。


「ほらさ、その……男と、女だし」


 ボクは色々と言い並べた。クラスの陰口のこと、三原さんが嫌がっていること、そしてつまりはボクが男で、吉岡が女であること。

 冬の、夕暮れの迫る寒い校舎裏で、吉岡はコートの合わせを両手で寄せながら、そんなボクの話をずっと黙って聞いていて、やがて並べる言葉がなくなって黙ってしまったボクに、彼女はマフラーに隠れた口もとをかすかに動かして、小さくうなずいたのだった。


「……そうだね」


 そして寂しく笑い、


「男と、女だ」


 そう言った彼女の姿が、ボクの胸に痛く焼き付いたのだった。


「吉岡と話をしてきたよ」


 そう三原さんに報告して、腕を彼女に抱きつかれながら、ボクの胸は罪悪感でいっぱいだった。

 ボクは卑怯だった。まわりがどう思うかの話ばかりをして、自分がどう思っているかなんてことは一言も言わなかった。吉岡を傷つけて、これでもう元の関係になんか戻れないなんてことはわかっていたのに罪悪感なんてひどく都合のいい感情で、自分で自分が嫌いになった。ボクは卑怯で最低だった。

 結局この罪悪感が原因で、その後は三原さんとうまくいかず、彼女から振られてしまうのが新型ウィルスの流行が世界を騒がせ始め、学校が休校になる直前だった。そして学校が休校になって吉岡とも顔を合わせる機会を失った。

 たとえ休校でも、たとえ外出禁止で人との接触を避けるよう言われていても、吉岡と連絡を取ろうと思えばできた。でも、今さらどんな態度で話をすればいいのか、ボクにはわからなかった。だから学校が再開して、吉岡がボクの机に手紙を差し入れるこの日まで、ボクは何もできずに、謝ることすらできずにいて――。

 ボクは卑怯で最低だった。

 そして勇気のない意気地なしだった。



   *****



 学校から続く裏山の小道は、山腹にある小さな神社の境内までつながっている。そこまでたどり着いて、やっとボクたちは走るのをやめた。


「はぁ、はぁ」


 二人して荒く息を吐き合って、なのに何故か恥ずかしい気持ちがあって、二人してマスクを外すことはせずに、しばらく互いに見つめ合ったあと、不意に吉岡の目が笑った。


「触っちゃったね。三密なのに」


 アッとボクが手を離すと、彼女は声を出して笑いながら、神社の縁側に腰を下ろした。


「転校の話――」


 風が静かにそよいでいた。吉岡はそう校舎裏での話の続きを切り出して、ボクを見上げ、目を落とし、しばらくためらいがちに口を薄く開いて、そして心を決めたように再びボクに顔を上げた。


「恥ずかしいけど」


 マスクに隠れた彼女の顔で、目だけが少し怖がるような彼女の気持ちを伝えてきて、


「ウィルスでさ、学校閉鎖して、外出も禁止になってさ」


 ぽつぽつと言葉を出すほどに、その目の伝える気持ちの色が熱を帯びてきて、


「このまま会えなくなるって思ったらね」


 それが怖れよりも勇気の色が強くなったと感じた瞬間、


「悲しかったから――」


 ボクの感情が目に溢れた。


「――ごめん」


 涙に歪む視界でボクは、ボクの感情を、ボクの罪を、全部を彼女に吐き出した。


「ボクに勇気がなかったから、あんな傷つけるようなこと、こんな悲しい気持ちにさせること――、ボクは、ボクはさ、まわりのこととかばかり考えてさ、勇気がなかったからそんな、空気みたいなヤツに負けてさ――」


 とりとめもなく散らかった感情は、涙と唾と鼻水でぐちゃぐちゃとマスクの下で混ざりあって、どこまでもどこまでもボクの胸から溢れて――、


「男とか女だとか適当な言い訳を並べてさ、でも後悔して、後悔したってどうにもならないのに、謝ったって許されないのに、戻れないのに、なのにボクは戻りたくて、でも勇気がなくて何も言えないでいて、それでキミにこんなこと言わせて、ボクは――」


 自己嫌悪の渦の中で、吐き出される言葉の中で、ボクはボクの気持ちの、願うことの切れ端を捕まえて――、


「ボクはキミと――」

「――大丈夫」


 気づけば彼女は立ち上がっていて、ボクの前に手を差し出していた。


「あたしだってさ……、だから、おあいこ」


 そう目だけではにかむ彼女の手を、ボクは戸惑いながら、ためらいながら、けれど自己嫌悪の中で捕まえた、ボクの、ボクの心の底の願いに従って――掴んだ。


「仲直り」


 握手した手と手は優しい熱を伝えていて、さっきの二人で手をつないで走ったあの熱さが、あの感触が蘇って、ボクは握る手に力を込めた。


「密だね」


 そう笑う彼女は、だけれど握る手を離さないで、じっとボクの顔を見つめ、


「――ありがとう」


 そう言いながらマスクを取った。

 数か月ぶりに見た彼女の顔は、記憶にある顔よりもとても輝いて見えて、ボクは思わず見とれてしまった。

 そんなボクの様子を見透かしたように彼女はにこりと微笑んで、自分の顔を指差して言った。


「最後くらい顔、ね?」


 そこでボクがマスクを外したときだった。彼女がボクの手を引いて、彼女の顔が近づいて――、


「――男と女だよ」


 その囁き声が聴こえた瞬間に、ボクの唇は奪われた。


「密だね――」


 彼女はそうつぶやいてサッとボクから離れ、神社を下りる石段の方へと身を引くと、


感染(うつ)った?」


 赤く火照った頬に満面の笑顔をのせて、


「これで死んだら一緒にね?」


 そう残して石段を駆け下りていった。

 このときのボクはもうただ立ち尽くして、白い陽射しに肌を焼かれることにも気づかずに、何度も何度も彼女の残した言葉を頭の中で繰り返しに聴いていた。



   *****



「これで死んだら一緒にね――か」


 若気というのは時に気恥ずかしく未来の自分を苛むが、あの日の――あの白い陽射しと白いマスクに焼き付けられた思い出も、私にとって甘くありながら酸味のある痛みをともなわないでは振り返られない思い出だった。


「あれで本当に感染してたら、『自己中。まわりの感染リスク考えろ』とかネットで叩かれるって、今だったら思っただろうな……」


 結局それから二人で会うことはなかった。しばらくは連絡を交わしていたが、中学生だったあの頃の私たちにはあの日の刺激は強過ぎて、そこからどうすればいいのかお互いにわからなかったのだろう。当たり障りのない近況を伝え合うやり取りも次第に減って、気がつけば疎遠になり十年が過ぎていた。

 あの日の出来事は、もう青春の甘酸っぱい思い出として心のアルバムにしまうべき話なのだろう。あの日のような勇気が持てず、そのまま終わりにしてしまったのは私自身だったのだから。

 だから虫のいい話だと自分でも思いながら、もうつながらないかもしれない連絡先にメッセージを送ったのは、勇気というよりも私の心の弱さがさせた行為なのだろう。


「本当、未練たらしい……」


 そう苦笑する私は、見つめていた返事のないスマートフォンを枕元に置き、白い天井を見上げた。同じ白なのに、あの日の思い出のようにまぶしい輝きのない、暗いかげりのある天井。それは病院の天井だった。


「……虫のいい話」


 私は病院のベッドにいた。あのとき流行した新型ウィルスはワクチンの開発によって克服されたけれど、それとはまったく違う病気――若年性の癌だった。

 手鏡を見る。抗癌剤治療で抜け落ちた頭髪を帽子で隠した自分の姿が映っている。少しやつれた頬は憐れみを請うように表情に影を作り、弱々しく潤む瞳が情けなく疎ましげにそんな自分の顔を見つめ返していた。

 この病魔に弱った私の心が、あのまぶしい思い出を慰めに求めたのだ。けれど。


(返事はなかった。なかったんだ――)


 メッセージを送ってから時間が経つほどに増す自己嫌悪に、私はこの浅ましい自分の顔を手で覆い隠す。閉じた視界に病室に漂う消毒液のにおいだけが残り、消えてしまいたい気持ちに沈む中で――その声は届いた。


「――吉岡」


 驚いて、しばらく身体が動かなかった。自分のこの浅ましい感情が生んだ幻聴だと思った。けれど――、


「――久しぶり」


 そこにあったのは、あの日、マスクを外して最後に見た記憶の顔よりも、とても精悍な顔つきをした彼の姿だった。


「どうして――」


 私の問いに彼は頭を下げる。


「返事しなくて、ごめん。何を言えばいいかわからなかったから……直接話そうって思って――」


 そこまで話すと照れ隠しのように頭を掻き、それから決意を固めたようにうなずくと、私の横たわるベッドに近づき、真面目な声でこう言ったのだ。


「あの日、感染(うつ)ってたからさ」


 そしてゆっくりと顔を近づけ、私はそれを受け入れて――、


「これで死ぬまで一緒だろ?」


 唇を触れ合わせた後に、彼は赤く火照った顔でそう言った。


「あぁ――」


 このときの私はもう声も出ずにただ泣き尽くして、彼の手がなだめるように私の手を握っていることにも気づかずに、何度も何度も彼のくれた言葉を頭の中で繰り返しに聴いていた。

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