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直後、身体を巡る血液が、一瞬で沸騰したような感覚を覚える。
同時に周囲に流れる時間が、一気に遅くなったように思えた。
セシリアのあらゆる能力は、鎧に隠された力によって、一気に数倍の高さにまで引き上げられていく。
彼女は疲労が蓄積したはずの全身に、むしろ力が漲るような感覚を覚えた。
そして、これまで翻弄され続けていた枝の動きも、その小さな揺らめきまでもが、手に取るように把握できるようになる。
セシリアは迫り来る枝を即座に斬り捨てると、続く一撃を屈みながら躱した。
迫る枝を次々にいなしながら、どんどんと大魔樹の醜悪な顔へと近づいていく。
行ける――!!
彼女の中でその思いが、一気に強くなった。
ところが直後に、セシリアは視界の外からの一撃を、察知できずに背中に受けてしまう。
思わず蹌踉めいてしまったが、火花が飛び散り、殴りつけた枝の方が弾き飛ばされてしまった。
どうやらその反発力によって、ダメージは相当軽減されたようである。
セシリアは脚に力を込めて踏ん張ると、そのままの勢いで再び前へと進み始めた。
カイが作った陶器の鎧が、この身を守ってくれている――。
その思いを噛み締めながら、彼女は迫る枝を剣で叩き斬った。
すると、右から来る枝が、彼女の上腕を掠めていった。
直後、その枝は火花を受けて、地面にぼろぼろと落ちていく。
続いて上から襲い掛かってきた枝が、青い髪飾りをギリギリに掠めていった。
そのあまりの勢いに巻き込まれて、金色の髪が数本宙を舞う。
次にセシリアは真っ直ぐ突き込まれてきた枝を、盾を使って防いだ。
だが、あまりの枝の鋭さに、盾に大きな傷跡が残ったのがわかる。
それでも彼女は止まらない。
無謀とも言えるその突進を追うように、いくつもの枝が、彼女の背中を狙って大きく迂回してきた。
セシリアは勇気を持って大魔樹の懐に潜り込むと、一気に右手の剣を大きく振り抜く。
すると、カンッ!という甲高い音がして、剣が大魔樹の唇の辺りに命中したのがわかった。
ところがセシリアが想像したよりも、大魔樹の幹はずっと堅い。
片手で握った剣の威力では、表皮を削る程度にしか、傷をつけられていないようだった。
セシリアはそのまま円を描くように走ると、今度はできるだけ大魔樹から距離を取ることを試みる。
その背を穿とうとした枝が、放たれる火花に阻まれて、ぼろぼろと地面に崩れ落ちていった。
セシリアは元の場所辺りに到達すると、再び大魔樹と正面から対峙した。
ところがその時、ドクン――という極大の鼓動を感じて、セシリアは一瞬ハッとする。
この能力には時間制限があるのだ。
しかもその時間は、どれくらい続くか判らない。
その時間を一秒たりとも無駄にしないためには、もはや自分に取り得る手段は一つしかない。
セシリアは右手に持つ剣を掲げると、『剣の鍔』にある陶器の小札をグッと力を込めて押し込んだ。
すると、途端に触媒の小札から濃い紫色の煙が立ち上り、刀身をどす黒い色に染めていく。
一撃必殺の、超猛毒の剣。
その能力の恐ろしさを思って、セシリアの額からは汗が流れ落ちた。
失敗は許されない。
この能力が、何度も使えるとは思えなかったからだ。
セシリアは覚悟を決めてしまうと、一気に大魔樹の顔へ向けて、真っ直ぐに駆け込んだ。
一撃で決める。
迫り来る攻撃を切り抜け、顔のある幹に超猛毒の一撃を叩き込む――!!
それを確実にするために、彼女はあらゆる攻撃を、一切受け流さずに避けた。
前に進むごとに繰り出される枝は、彼女の鎧をどんどんと削りとっていく。
頬や腕、脚を掠めた枝は、無数の出血と切り傷を、彼女の身体に刻んでいった。
それでもなお、セシリアは目を爛々と輝かせ、枝の動きを見極めて、ジリジリと太い幹へと近づいていく。
苛烈な枝の攻撃を盾で払い、足下の攻撃は、飛び上がって避けた。
すると、身を捩ったところに、死角から迫った枝が、左手に持っていた盾を引っ掛けてしまう。
枝はそのまま彼女の左手から、盾を弾き飛ばしてしまった。
だが、セシリアは表情を変えない。
彼女は剣を両手で持つと、一気に大魔樹に詰め寄った。
「ハァァァァッッ!!」
気合いの叫び声と共に放った渾身の一撃が、大魔樹の固い顔をガチリと打ち抜く。
すると乾いた音がして、非常に小さな傷が大魔樹の幹に刻まれたのがわかった。
直後、その小さな傷口の中へ、真っ黒な瘴気のようなものが潜り込んでいく。
「入った!?」
彼女は、それを確かめようと半身の体勢で振り返った。
すると、大魔樹は一瞬ピタリと動きを止めた後に、地面を揺るがすような得も言われぬ絶叫を上げる。
「ヴヴォアアアアァァァ――!!」
そのあまりの声量に、セシリアは思わず顔を顰めた。
大魔樹は苦しみを隠さずに、あらゆる枝を盛んにくねらせて藻掻いている。
セシリアは巻き込みを恐れて、改めて剣を構えると、その場から駆け出した。
しかし、効果を確かめようと振り返った先ほどの一瞬が、彼女の体勢を防戦一方に追いやってしまう。
セシリアは速度を上げられずに、剣を振りながらじりじりと後退していった。
大魔樹は苦しみの元凶をもたらした彼女を、狂ったように追い始めている。
即効性はない――そんなカイの言葉が頭を過ぎっていた。
だが、さほど時間が経過しないうちに、いくつかの蠢く枝が、黒く変色して崩れ落ちていったのが分かった。
効いている――その実感を持ちながら、セシリアは何とか攻撃を凌いだ。
剣を両手で力一杯振り抜き、討ち漏らした枝は、迸る火花が阻んでいる。
だが、疲労の蓄積し始めた身体は、徐々にその重さを増し始めた。
セシリアは足下を狙う攻撃を、その場で飛んで避けようとした。
ところが飛んでから着地しようとした瞬間、バランスを崩して倒れそうになってしまった。
大魔樹はその隙を見逃さずに、彼女の右足首に枝を絡みつかせる。
足首は稼働する部分であるために、魔法が付与された陶器の板で守られていない場所だ。
従って身を守るはずの火花が発動せず、セシリアはそのまま右足首を取られて転倒してしまった。
即座に枝を斬り払おうとするが、今度はその右手首が、別の枝に絡め取られてしまう。
「ぐぅっ――」
セシリアは歯を食いしばると、無理矢理膂力で拘束から抜け出そうとした。
今、彼女の身体能力は数倍に高められている。
力を込めれば枝を引き千切ることすら、できると考えたのだ。
ところが――。
「ま、まさか――」
驚くほどの勢いで、全身に脱力するような感覚が襲い掛かる。
――いいや、これは違う。自分の力が落ちているだけではない。
身に纏った陶器の鎧が途轍もなく、重くなっているのだ。
急激に増す鎧の重みのせいで、大魔樹は持ち上げようとしたセシリアの身体を地面に投げ捨てた。
彼女は強かに背中を打って、呼吸ができずに喘ぎの息を吐き出す。
すると仰向けに倒れたセシリアに対して、間髪容れずに複数の枝が襲いかかってきた。
しかし、下手に触れれば火花を放つ彼女の陶器の鎧を、枝は上手く攻略することができない。
――だが、火花を放つ魔法の掛かっていない、金属板の部分は別だった。
大魔樹は盛んに枝を動かすと、無理矢理、右の脛当てを引き千切ってしまう。
次に右手の籠手が、剣ごと強引に引き剥がされた。
そして直後、左手を守る籠手がぐにゃりと、いびつな方向に拉げてしまう。
同時にボキッという嫌な音がして、左腕が折れたのが判った。
「うぐっ――うああぁぁ――!!」
セシリアはその苦痛に、堪らず絶叫を上げる。
だが声を上げたところで、蹂躙される自分の身体を見ていることしかできない。
蠢く枝は、セシリアの胴体を貫こうと、盛んに胸元に集中して攻撃を仕掛けてきた。
だが、セシリアの胸当ては、彼女をよく守った。
作られた曲線によって、多くの攻撃が受け流された。
何度も何度も叩きつけられる固い枝の攻撃にも、凹みを作りながら彼女を守り続けた。
父に、守られている――。
セシリアは攻撃に抗うことも出来ないまま、嫌いだったはずの父の金属鎧を呆然と眺めていた。
するとセシリアの頭の中に、父との思い出が走馬灯の様に流れていく。
だが、その守りも、しばらくすると限界を迎えた。
直後、ぼろぼろになった胸当てに、いくつかの枝が引っかかる。
枝はそのまま強引に、胸当てを引き千切ってしまった。
すると、所々に白い肌が見える、セシリアの胸元が無防備に曝け出される。
途端、金属鎧の内側を覆っていた陶器の板が、まるで断末魔を上げるかのように、大きな魔法の火花を発生させた。
大魔樹はその直撃をまともに受けて、再び大きな悲鳴を上げている。
バラバラといくつもの枝が落ちて、急速に大魔樹の生命力が失われていくのがわかった。
超猛毒は確実に効いている。
恐らくもうしばらくすれば、大魔樹は絶命してしまうだろう。
だが、そのためにはもう少しだけ、時間が必要そうだ。
――そう、無防備となったセシリアが、止めを刺されてしまう程度の時間が。
セシリアの頭上で何本かの枝が絡み合うと、それが一本の太い杭のようになった。
絡み合ってできた一本の太い枝は、セシリアの身体を貫こうと、真っ直ぐ彼女の頭上に振り上げられている。
セシリアが見上げると昏い夜空の中に、月明かりを反射している鋭利な突端が見えた。
次の一撃で――死ぬ。
籠手を引き剥がされたせいで、右手だけは素手に近く、鎧の重みを感じなかった。
彼女が動く右手で折れた左腕に触れると、そこが激しく痛んだ。
だが、そのまま手探りしてみると、手首の辺りに目的のものがあるのが判る。
――良かった。これは無事だった。
今、まさに死の一歩手前で、これから止めを刺されようとしているにもかかわらず、何故かセシリアの唇には、笑みのようなものが浮かんでいた。
この後、何が起こるのかは、全くわからない。
カイはこれが何を引き起こすのかを、セシリアには教えなかった。
だが、何が起こったとしても、彼女には受け容れる準備ができている。
何しろこれは彼がセシリアのために、用意してくれた特別な鎧なのだから――。
何が起こったとしても、セシリアはこの身を委ねる覚悟ができていた。
そして、大魔樹がセシリアの胸を一突きしようとした瞬間――。
彼女は、左手首にあった緑色の小さな宝石を、グッと押し込んだ。
◇ ◆ ◇
目覚めた時、視界に飛び込んできたのは、夜の暗闇に浮かぶ星々の光だった。
即座に自分がどこか知らない場所で、仰向けに倒れていることを知覚する。
ふと、どこか遠くでキーン、キーンという小さな音が、断続的に響いているような気がした。
――死を賭した戦い。そして、止めを刺されて死ぬはずだった自分。
なのに、その直後に一変した風景。
なぜ、あの絶体絶命の危機から、逃れることが出来たのだろうか――?
自分の身に起こったことを、上手く知覚することが出来ない。
まるで時が止まってしまったかのように、目の前の風景は静かで現実離れしているように思えた。
しばらくの間、千々に混乱した思いが、頭の中をぐるぐると駆け回り続ける。
だが、既に戦闘の音は周囲になく、ただ静かで昏い夜の闇が、彼女の身体を包み込んでいた。
セシリアは空を見上げながら、これまでに起こった出来事を一つ一つ思い返してみた。
そのどれもが、まるで夢のような、非現実的な出来事だと思った。
一方で、直前に起こった戦いが、夢であれば良かったのに、とも思った。
無残に失われていく仲間たちの生命。
握り返す力を失ったヨシュアの柔らかい手――。
彼女は漫然とそれを思い起こしながらも、状況を把握するために立ち上がろうとした。
だが、全く動けない。
躍動していたはずの身体は、まるで鉛の塊になってしまったように、ピクリとも動かなかった。
そうか、これが反動なのね――。
そんなどこか他人事のような思いが、セシリアの頭の中に浮かんで消えた。
全て彼が語っていた通りのことだ。
使えば使った分の反動を引き起こす。
ふと、死闘を演じていた大魔樹が、どうなったのか気になった。
だが、大魔樹は、超猛毒の一撃を受けて虫の息だったはずだ。
きっと敵を見失って、呆然と息絶えてしまったことだろう。
――そう考えた時、身動きの取れない自分の周りに何者かの気配を感じた。
恐らく夜の闇を掻き分けて、この身を狙う小鬼か野獣のようなものが、近づいて来たに違いない。
何とか視線だけを動かすと、予想に違わず小鬼らしきものの姿が視界の隅を横切った。
見れば手には危険な武器を持ち、まさにこの身を狙おうと数匹が集結しつつあるようである。
ここで、死ぬのか――。
どこかぼんやりとした意識の中で、何となく素直にそう思った。
そして、迫り来る脅威を感じながらも、それも良いのかもしれないと思った。
そう、この鎧を棺にできるのなら――それも幸福なことかもしれないと、素直に思ったのだ。
ただ、出来ることなら最後に一目だけでも、彼に逢っておきたかった。
彼に逢って、この胸にある想いを、しっかりと伝えておきたかった。
彼の逞しい腕に抱かれて、ただ心安らかに眠ってしまいたかったのだ。
だが――それも、もう叶わない。
そうして、その身に向かって振り上げられた武器を見て――、
セシリアはただ静かに、ゆっくりと目を閉じた。




