33
セシリアは朝に至るまで、殆ど睡眠を取ることができなかった。
ただ、ヘルマンが忍び込んで来るまでの時間は、多少の睡眠が取れていたように思う。
彼女は十分休んだと自分の身体に言い聞かせながら、雑念を捨てて粛々と出発の支度を調えた。
周囲はいまだ夜明けの余韻が残っている。
騎士たちは薄暗さが残る門の前に、全員が欠けることなく集合した。
無論、そこにはヨシュアとヘルマンの姿も存在している。
ただし二人は距離的に、随分と離れた場所に立っていたが――。
とはいえ、セシリアは心の中で安堵の息を吐いた。
集落の外を見渡してみると、近くにゴブリンの姿は見当たらない。
どうやら疎らに残っていたゴブリンも、夜の間に巣の方へと戻っていったようだ。
ゴブリンは昼に活動をしない訳ではないが、基本夜行性で、狭くて暗い場所を好むらしい。
なので彼らは朝方の時間になると、一斉に洞窟のような巣へと戻っていく。
そしてそこで身を寄せ合いながら、しばらくの睡眠を取るのだ。
よって、ゴブリンの巣を掃討するのであれば、ゴブリンたちの活動が静まる早朝の時間が適している。
「よし、行こう」
騎士たちが揃ったのを確認したグレンが、低い声で号令をかけた。
全員が門から外へ出ると、まったく無言のままでゴブリンの巣へと向かっていく。
これは余計な声や物音が、ゴブリンたちを起こしてしまう可能性があるからだ。
だが、セシリアはこの無言の行軍が、今は有り難いと思った。
何しろ昨晩の出来事を思い起こせば、何を話せば良いのかわからなかったからだ。
しばらくすると騎士たちは、ゴブリンの巣から少し離れた場所で一度脚を止めた。
そこで一旦仮の拠点を作ると、戦闘に必要のない荷物を置いていく。
その拠点から先は、抜剣した状態でゴブリンの巣を目指していくのだ。
ゴブリンの巣があるのは、山手の斜面のぽっかりと口を開いた洞窟のような場所だった。
その穴だけが妙に真っ暗な闇を湛えているようで、底知れぬ空間へと続いているようにも思える。
果たして騎士たちはゴブリンに気づかれることなく、無事に巣へと到達した。
周囲には金属鎧が擦れ合って起こる、カチャカチャとした音だけが響いている。
騎士たちは沈黙を守ったまま配置について、それぞれが視線を交わし合った。
そして事前の打ち合わせ通り、ヘルマンとクラトスを先頭にして隊列を組み直す。
「よし。
ヘルマン、やってくれ」
「了解」
そこだけは隊長のグレンとヘルマンが、沈黙を破って言葉を交わした。
ヘルマンはクラトスから何やら四角い物体を受け取ると、右手に持った剣を鞘に収める。
そして、彼はその物体から伸びている導火線のようなものを、力一杯引っこ抜いた。
するとその四角い物体は、見る見るうちに赤い色に染まり始める。
「さあ、くたばれッ!
ゴブリンども!!」
ヘルマンは目を剥いて叫ぶと、真っ赤に輝いた四角い物体を巣の中へと放り込む――!!
直後、ゴブリンの巣から閃光が迸り、数瞬遅れて凄まじい爆音と震動が辺りを包みこんだ。
「くっ――!!」
セシリアは十分身構えていたが、突然の衝撃に声を上げて蹌踉めいてしまった。
今、ヘルマンがゴブリンの巣に投げ込んだのは、火魔法の効果を生み出す触媒を包んだ魔法道具だ。
ゴブリンの巣を掃討するために騎士団から支給された、いわば爆雷のような特別な道具だった。
「ギイィィィアアアァァァッ!!」
「来るぞ!
一匹たりとも討ち漏らすな!!」
無数に上がるゴブリンの悲鳴に掻き消されないように、グレンの大声が降り注ぐ。
ゴブリンの巣からは濛々と火と煙が上がり、そこから傷ついたゴブリンたちが次々に這い出して来た。
しかし、傷ついたゴブリンは巣から出た瞬間に、ラリーとクラトスによってその命を絶たれていく。
「セシリア、外にもゴブリンがいるかもしれない。
一応、巣の外も警戒しておいて」
「わかったわ」
治癒術士のハンスを守っているセシリアに、身構えたままのヨシュアが声をかけた。
恐らくゴブリンたちは一匹残らず、巣の中で身を寄せ合っていたはずである。
だが、それが確実だと言えない以上、周囲への警戒は常に解かない方が良い。
「よし、火が収まったら中へ突入する!
一気に一匹残らず片付けてしまうぞ」
グレンが魔法の炎の収まりを見越して、這い出るゴブリンに止めを差しながら指示を出した。
だが、その指示を聞いた騎士見習いのラリーは、それとわかる大きさで不満の声を漏らす。
「まさか、こんなひでぇ臭いの巣の中に入れっていうのかよ」
「ラリー、だったらお前は付いてこなくていい。巣の外で警戒していろ。
ヘルマンとクラトスは先頭だ。
ヨシュアはハンスを守って、巣の外で待機。
セシリアはラリーの代わりに私と一緒に来い」
「了解」
セシリアは指示に頷くと、グレンの方へと進み出た。
先頭のヘルマンは一瞬セシリアを見たが、何も言わずに背中を見せてゴブリンの巣の中へと入っていく。
「クッ――これは――」
予想はしていたものの、足を踏み入れた巣の中は、まさに地獄絵図といった光景だった。
折り重なって倒れるゴブリンの死骸が、至る所に転がっている。
周囲には饐えた臭いと焼かれた肉の臭いが、むせ返るほどに充満していた。
その臭気がセシリアの不快感を、極限まで高めていく。
「クラトス、右に生き残ってるのがいるぞ」
後ろから飛んだグレンの指示に従って、クラトスがいまだ蠢くゴブリンに止めを刺した。
それを後方から目撃したセシリアは、無言のまま眉を顰める。
これは、決して戦いなどではない。
一歩的な虐殺に過ぎない――。
ゴブリンは放置すれば、人間に危害を加える危険な存在である。
だが、彼らは小さな子供に至るまで、掃討されるのが当然な存在なのだろうか――?
セシリアはそう思いながらも、ゴブリンの巣の奥へと更に進んでいった。
自分の行いが正しいと思い込まなければ、精神のバランスを崩してしまいかねない。
無事にゴブリンの巣を掃討した騎士たちは、一旦仮の拠点へと帰還した。
そこで少しの休憩を取った後で、報告のために集落へ戻るのだ。
ゴブリンの巣の掃討という作戦だけを考えれば、騎士たちの行動は、この上なく上手くいったと言って良かった。
巣の中でヘルマンとクラトスがいくらか掠り傷を負ったようだが、それもハンスの治癒魔法によって、十分に治療が可能なものだ。
「昨日はどうなるものかと心配したが、結果は大成功と言っていい」
隊長のグレンは騎士たちの働きを労うように、水を口に含みながら笑い声を上げた。
セシリアはその声を聞いて釣られるように薄く笑みを浮かべる。
騎士たちは誰もが作戦を達成したという、高揚感を持ちながら談笑していた。
確かに昨日のラリーの行動を見ていれば、この後の成功を全く予想できなかったのだ。
だが、今日のラリーは随分と大人しかった上に、そもそも活躍の場があまり与えられていなかった。
無論それは本人にとって、不本意なことだったに違いない。
しかし、結果的に巣の掃討は成功し、あとは報告を行うだけとなっている。
――そうして騎士たちがふと、警戒を解きかけた時。
周囲の異変に気づいたヨシュアが、表情を変えながら声を上げた。
「ちょっと待って。
――おかしい。
何かの足音のようなものが聞こえる」
「足音?」
ヨシュアの言葉にその場にいた全員が、訝しげな表情をとる。
そして、静かに聞き耳を立てながら、ヨシュアが気づいた音が何なのかを確かめようとした。
「――こっちに向かって来ている?
こいつぁ、冗談じゃ済まされないぞ」
音の正体に気づいたヘルマンが、顔を引き攣らせながら呟いた。
「足音を隠そうともしていないわ。
それに、いくつもの声が聞こえた」
セシリアも緊張の面持ちで、足音の規模を何とか把握しようと努めている。
すると、足音の正体に気づいたグレンが、敵を断定するように叫び声を上げた。
「間違いない。剣を抜け!
――こいつは小鬼の集団だッ!!」
そして、彼の声を起点にして、全員が一斉にその場に立ち上がる。
戦いを終えて、休息を取るはずだった騎士たちは、一気に戦闘態勢へと移行した。
「拠点は放棄してしまえ。
ハンスも一緒に全員で出るぞ」
グレンの指示に早速ヘルマンとクラトスが抜剣する。
ところがそれにセシリアが水を差した。
「待って! 足音の数は多いわ。
正確な敵の規模も確かめずに、打って出ようというの!?」
騎士たちはゴブリンに勝った高揚感の中で、戦うという判断を下そうとしている。
身体には確実に疲労感があり、ゴブリンとの戦いよりも状態は劣っていた。
「敵は小鬼だ!
確かにゴブリンよりは手強いが、戦って勝てない相手じゃない。
それにゴブリンのように無尽蔵に湧いてきて、戦況が悪化することもないだろう。
先制して向かって来る集団を叩けば、確実に危機は脱せるはずだ」
「逃げ足自慢の女騎士様は、後ろからついてくれば良いんじゃないか?」
グレンの返答に合わせて、ラリーがセシリアを侮蔑した言葉を吐き出した。
セシリアはそれを聞くと、キッと表情を固くした。
だが、怒りで我を忘れてはならない。
セシリアはスラリと剣を引き抜くと、その刀身をじっと見つめながら、今の状況を的確に判断しようとした。
「――いいえ、やっぱり何かおかしいわ。
だって、ここにはゴブリンの巣があったのよ?
小鬼はゴブリンの天敵。
小鬼がいるところに、ゴブリンが巣を作るはずがない。
なのに、ここへ襲い掛かってくるのが、小鬼の集団だなんて!」
だが、既に騎士たちは、セシリアの忠告を冷静に受け止められるだけの余裕を持ち合わせていなかった。
グレンはセシリアを振り返ると、それ以上の議論を打ち切る一言を投げかける。
「いくらおかしいと言っても敵は小鬼だ!
小言はいい。とにかく、目の前の敵を斬り倒せ!!」
セシリアはもはやこの戦闘が避けられないことを悟って、思わず舌打ちをした。
仕方なく剣を構えると、敵の姿を見極めようと周囲を注意深く見渡す。
――と、ふと彼女の視界の片隅を、何者かが横切って行ったのに気づいた。
「何?
今のは――人影?」
それは、セシリアの見間違いかもしれなかった。
だが彼女が一瞬目にした影は、明らかに小鬼とは違う、人間の姿だったように思える。
――この時、セシリアは判断に迷った。
その人影を追ってしまえば、小鬼との戦いからの敵前逃亡と捉えられてもおかしくない。
無論、厳格な騎士団において敵前逃亡は、死に値する重罪である。
それにセシリアが小鬼との戦いから離れれば、数で劣る騎士たちが更に不利に陥ってしまう。
既に小鬼の集団はハッキリと姿を見せ始め、先頭を進んでいたヘルマンやクラトスは戦闘を始めていた。
周囲には騎士たちの声と、無数の小鬼たちの叫び声が響いている。
そして、次の瞬間。
セシリアは、目撃した人影を追うように、一気に走り出した。
彼女にはどうしても、その影が、この小鬼の襲撃に関わっているように思えてならなかったのである。
「――ハァ――ハァ」
鎧姿のセシリアは、荒い息を吐き出しながら、戦場を迂回するように駆け抜けた。
その彼女の意思に呼応するように、左右の脛当てが淡い魔法の光を放ち始める。
すると、セシリアはぐんぐんと加速して、次第に目当ての人影に追いついていった。
「――!!
まさか――」
セシリアはその後ろ姿を確認して、走りながら思わず驚きの声を上げた。
もはや見間違いを疑う状況でもない。
その後ろ姿は確実に、彼女の記憶の中にあったのだ。
「――チッ、追いつかれたか」
もはや逃げ切るのが無理だと悟って、前を走る人影が速度を緩めて立ち止まった。
そして、手に持っていた何かを、慌てて遠くの茂みへと投げ捨てたように見える。
こちらを振り向いた人影は、銀色に輝く細身の金属鎧を纏っていた。
そして、その顔を窺えば、前髪に特徴的なウェーブが掛かっているのがわかる。
それは、もはやその顔を目にしたくないと思っていた、騎士長のミランだったのである。
セシリアは目の前に現れた人物を確かめて、一瞬愕然とした表情を作った。
だが、それでも何とか平静を装って、息を整え、ミランに問い掛ける。
「今、何を投げ捨てたの?
それに、あなたの持ち場はここではないはず。
あなたは一体ここで、何をしているというのッ!?」
するとミランは睨めつくような視線を投げかけながら、クククと小さい笑い声を漏らした。
「キミを追っていた――と言いたいところだが、残念なことに実情はちょっと違う。
所詮、キミたちは全体の駒の一つでしかないということを、ちゃんと理解すべきなのだよ」
「駒――?」
「おっと、お喋りが過ぎたかな。
早くここから離れねば、私も巻き込まれてしまいかねない。
何しろここへ来るまでも、随分と危険があったのだ」
「どこへ行くというの?」
「どこへも行かないさ!
これからキミたちのお手並みを、陰ながら拝見させてもらうことにするよ。
――ところで、剣を抜いたままのようだが、まさか私に襲いかかるつもりではないだろうね?」
セシリアは剣をギュッと握り締めたまま、思わず唇を噛む。
ミランがこの小鬼の襲撃に、何らかの関与を行っていたのは間違いないように思う。
だが、今はそれを証明するための証拠が存在しなかった。
確かに彼が持ち場を離れていることは、重罪ではある。
ただ、だからといってセシリアが、彼を勝手に処断して良い訳ではない。
しかもミランとセシリアの間には、感情的な関係が存在していることが公知になってしまっている。
それを考えればこの場において、一方的にミランを攻撃するのは避けるべきだった。
そんな思いもあって、互いを睨みつけたまま、二人の間に沈黙の時間が過ぎ去っていく。
――そして、次の瞬間。
セシリアは、ミランとは別の方向へ向けて、一気に走り出した。
「チッ――!!」
その意図に気づいたミランが、舌打ちをしながら同じ方向へ向けて動く。
セシリアが向かっていたのは、ミランが何かを投げ捨てた茂みの方角だったのだ。
「邪魔よ!!」
セシリアは剣を振るうと、近づいてきたミランを一気に振り払う。
ミランはその斬撃をギリギリで避けたが、もはやセシリアに追いつかないことを知って、くるりと方向を転換した。
彼女は逃げるミランを捨て置いて、目的の場所まで一気に駆け寄っていく。
そして、その場に到達すると、何かが草花を押し倒すように地面に横たわっているのに気づいた。
それは、手に持つランプのような形状で、魔法のものと思われる朧気な青い光が灯っている。
「――!!
こ、これは――まさか、『釣り餌』!?」
こんなものをどこから――という思いが、セシリアの心の中に広がった。
彼女は騎士見習い時代に、そのランプのような魔法道具を目にしたことがあった。
それは騎士公エリオットと共に遠征に出た時のこと。
彼が集落の付近で巨人と戦闘せざるを得なかった時に、巨人を集落から引き離して誘引するために、釣り餌と呼ばれる魔法道具を使ったのである。
結果、エリオットは巨人を集落から引き離すことに成功したが、巨人以外の魔物も同時に引き寄せることになった。
剛勇を誇るエリオットだからその場を切り抜けられたものの、常人であれば生き残るのも難しい状況だったに違いない。
しかも、セシリアの記憶が確かであれば、普段の戦いでは傷一つ負わないエリオットが、その戦闘でいくつも傷を負っていた。
――それ程までに危険な代物。
無数の魔物を呼び寄せる魔法道具、『釣り餌』。
なのに、それが今、セシリアの足下に無造作に落ちている。
釣り餌は危険な魔法道具であるが故に、騎士長であるミランといえども、簡単には外に持ち出せないはずのものだ。
それが意味するところを考えながらも、セシリアは足で釣り餌の青い光を踏み壊す。
すると、カシャンという小気味よい破壊音がして、魔法の光はぼんやりと消えていった。
「――お、おい!!
何だ、あれは!?」
その時、釣り餌の破壊音に被さるように、セシリアの耳にヘルマンの尋常でない叫び声が聞こえてきた。
彼女はハッと顔を上げると、その声がした方向へと振り返る。
ミランが危険な釣り餌を使って、ここへ誘引して来たものが、自分たちの近くにまで迫っているに違いない。
セシリアは暫く考えを巡らせると、ごくりと唾を飲み込んだ。
そして、足下に散らばる釣り餌の欠片を、慎重に選んで摘まみ上げる。
今、彼女の頭の中には、ルサリアの悲劇に巻き込まれたカイの言葉が甦っていた。
彼はその話をした時に、セシリアに何と告げていただろうか?
『問題は誰の責任で、この事件が起きたのかということだ』
そう、彼は断言していたように思う。
それを思えばこれが本当に役立つかは判らない。
だが、それは殆ど無意識の内に――彼女は釣り餌の破片を、鎧の内側へと忍ばせた。
――果たして、この先に待ち受けるものは、一体何なのだろうか?
まだ見ぬ脅威を想像しながらも、セシリアは再び、その場から駆け出した。




