8 復讐の代執行者
目を開けているのに真っ白で何も見えない。
寝ているのかと思ったら立っていて、立っているのかと思ったら寝ている。右手を動かしてみたらそれは左手で、左手を動かしてみたらそれは右手だった。上下左右の感覚が消え去っている。
焦り始めたとき、ひとりの若い男がこの空間の空中に漂っていることに、突然気づいた。顔が見えないのに、どうして若い男だとわかるんだろう。男は黒い甲冑で全身を隠している。
『まず、今回の殺戮の犠牲者に、衷心より哀悼の意を。十四年間よくしてくれた村の人間がこんなことになって、俺も本当に悔しい。自己紹介させてもらうと、俺は天の御使いと呼ばれるものだ。天命石や道しるべの石と言ったほうが通りがいいか。わかりやすいように人の姿を取っている』
自分は、あの光景を見て頭がおかしくなったのだろうか。
幻覚としか思えないものが見えている。
『他の人間は、俺の実在を否定する人間でも、ほんの少しくらいは神頼みとやらをしてきたことがあったが、お前はまったく俺の実在を信じなかったな。十四年の間ずっと、俺や神に祈ったことはなかった』
『わたしは天命石の正体を知っています。雷に打たれただけの、ただの石ですよ』
『この状況に至ってなお、信じていないようだ』
『これはわたしの頭がおかしくなっただけです』
『ふん。まあいい。俺の力なんてそんなものだ。天の気まぐれが宿った石に過ぎない。俺にできることは人々の願いにほんの少し、手を貸すだけ。大きな歴史の流れに干渉などできない。今回のようなことはどうあがいたところで防げず、お前の父親や村の人間を生き返らせてやることもできない』
『そんなこと、初めから期待してませんよ。喪われたものはもう二度と戻りません。わたしがどんなに願っても母さんが生き返らなかったように、それは絶対の掟です』
『お前には人を温かく包み込む優しさと、人をこごえさせるあきらめがあるな。どちらが本当のお前なのだろうか』
『お前お前うるさいですね。わたしにはナミカという名前があるんですよ』
『では、ナミカ、そろそろ本題に入ろう。俺はナミカのために、ふたつ与える用意がある』
『世の流れには干渉できないんじゃないんですか?』
『ひとつは死んだばかりでまだ魂魄が四散していないこの女……ファジィといったか、そいつの肉体をよみがえらせる。そしてもうひとつは、ナミカ、スピリー、ガエラタ、ファジィの四人に加護を授ける』
『本当に? 本当にファジィだけでも、生き返らせることができるんですか?』
『ただし、条件がある。俺を信仰してくれた村人たちを弔ってくれ。ただ遺体を埋めて鎮魂するだけではだめだ。復讐を行え。宮廷部隊を壊滅させ、新王の首をはねろ』
『無理ですよ。たった四人では何もできません』
『そのための加護だ。お前とファジィの戦闘能力はさらに高まり、ガエラタは人に難局を乗り切らせる指導力と魅力がさらに磨かれる』
『スピリーは?』
『手先が器用だから工作の技術でも身につくんじゃないか?』
『そんなてきとうな……』
『見たところ、お前は復讐に乗り気でないようだな。なぜだ』
『わたしが守りたかったものはすべて失われました。わたしはもう何もしたくありません』
『これを知ってもか』
真っ白だった空間に突然色がついた。
まず、若い女が映る。ナミカの親友、酒屋の一人娘シャニだ。彼女が木の根につまずいて転び、それに気づいた宮廷部隊の兵士が「早く立て」と怒鳴りつける。しかし彼女は足をくじいたようで、立ち上がるのに時間がかかってしまった。そこを、その兵士が蹴り飛ばしたのだ。「指示に背くな」と。その兵士に、同じくナミカの親友の酒屋の従業員ナヌリが「なんてことするの」と食って掛かり、別の兵士が、横合いから槍を突き刺した。悲鳴が上がり、悲鳴が広がり、先を歩いていた男たちが駆けつけてくる。
目を閉じようとする。しかし目を閉じることができなかった。
『何かしましたね』
ナミカが言うと、天命石は
『見ろ』
とだけ言った。
それから、ひとりひとりが殺される場面を、ナミカはじっくりと鑑賞させられた。
『一人目酒屋の従業員ナヌリ、二人目酒屋の娘シャニ、三人目漁師オリガ……』
天命石は人数をきちんと数えていく。
家族や恋人や同僚や友人、あまつさえ何のかかわりもない他人を、必死に逃がそうと奮い立った者たちが、槍の一刺しで死んでいく。誰一人助からない。一人残らず殺されていく。ひとりひとりの最期の思いが直接流れ込んでくる。
『四人目農家オクサナ、五人目漁師アントニー、六人目行商人レギーナ、七人目石工クラウディオ、八人目農家ホノカ、九人目牧場主ジュリア、十人目牧場従業員アリス、十一人目牧場従業員パーシャ、十二人目農家クリスト、十三人目牧場従業員バン、十四人目石工コンラド、十五人目郵便配達員ヘロニモ、十六人目郵便配達員アーニャ、十七人目港湾労働者マリ』
十七人。十七人の死にゆく瞬間を、はっきりと、隅から隅まで体感させられた。
十七度の臨死体験の末、やってきたのは、恐怖心でも復讐心でもなかった。どうして他人をこんな目に遭わせることができるのだろうという純粋な疑問だった。
まだ十七人。これからまだ何百何千と殺された人間の名前が控えている。
『父の最期を見ることもできますか?』
ナミカはつぶやいた。
『わかった。二十三人目、石工バフィン』
それは父が、仕事仲間を殺した男に殴りかかろうとした様子から始まった。父は後ろから来た男に刺された。それから石壁にもたれかかって、最後に微笑を浮かべて死んだ。誰を思い出しての笑顔だったのだろうか。それが母かナミカであったらいい。
『父を殺した兵士に関するものだけ映してください』
父を殺した兵士は、父を一人目の殺害対象にしたあと、他にも村人を四十六人、殺していた。
そしてそのなかの三十四人目が、ファジィだった。
すでに右肩に手傷を負っていたファジィは、他の兵士を殺して奪った槍を、その男の背後から突き出したが、男は槍の風切る音でも聞いたかその動きを読んでいて、槍を脇に挟んで固定し、ファジィを振り回した。槍から手を離すのが遅れたファジィは地面に転がり、そこを男の槍でひと突きにされた。ファジィもさすがの動きで、体をねじって急所の直撃は裂けたが、脇腹をやられてしまった。ファジィは二撃目を、遺体の山に潜り込んで避けた。男は一撃目が致命傷だと思ったのだろう、それ以上は追わず、他の村人の掃討を再開した。
会話から、第四大隊の誰かに仕えている人間だというのがわかった。名前はグーヴェ。顔もしっかりと覚えた。
『決めました。手伝います。あの子も蘇らせてあげたいですからね』
『これだけ見ておいてまだ仇への憎しみが弱いな。ファジィに対する憐れみのほうが強いくらいだ』
『どうでしょうね』
『まあいい。目を閉じろ。起こすぞ』
『はい』
『イシクラ村の警護兵ナミカ、お前を、天命石による復讐の代執行者のひとりに任じる。必ずやヤーヌイツ新王を討ち果たせ』
ぱん、と目の前で何かがはじけたような音がして、ナミカは意識を取り戻した。足元には目を閉じたままのファジィがいて、その隣に天命石があった。
「幻……?」
ぽつりとつぶやくと、
『幻ではない。他のふたりへの事情の説明ももうすぐ終わる。証人が増えるだろう』
何もしていないのに天命石が勝手に浮き上がる。
幻ではない、そうなると。
地面に横たわるファジィを見る。同時に彼女は目を開けた。目を閉じていたときには消えていた、凶悪な目元があらわになる。ファジィは驚いたようにナミカの顔を見、それから、右腕、左わき腹の傷を触り、飛び起きてもう一度同じ順で触った。それから浮いている天命石に気づいた。
「夢じゃなかったのかよ」
あれだけ激しく降っていたはずの雨もからりと上がり、水浸しのナミカたちと遺体だけが残っている。
ナミカは呆然としているファジィに右手を差し出した。ファジィは少しその手を眺めたあと、右手を差し出してきた。ファジィの小さな手を、ナミカの大きな手が包みこんだ。ぐいっと引っ張ると、彼女の体重の軽さに驚いた。
……こんな小さな体。
ファジィが立ったところで、手を離した。
「お前、近くで見ると相当でけぇな。何食ったらそんなんなるんだよ」
呆れたように首を曲げて見上げてから、ファジィは自分の正常な目線の位置、ナミカのおなかのあたりに視線をもどした。やっぱりファジィは、女のなかでもだいぶ背が低い。
「それはいいとして……復讐なんてやりたくないんだろ、本当は。なんでわたしなんかをよみがえらせるために取引を受けた?」
「そのとらえ方はどうなんでしょうか。顔見知りや父親を殺した人間を同じ目に遭わせてやりたいと思っているのも確かですよ。あなただけのためというのは自惚れがすぎて痛々しさすら感じます」
「丁寧なしゃべり方が売りとかほざいてるくせに口がわりぃんだよなぁお前」
「あなたほどじゃないですけどね」
『結論から言うとどちらも口が悪い』
天命石が割り込んできてしゃべった。というよりも、しゃべっているように聞こえる。
「これ、わたしたちの頭がおかしくなっただけで、他の人間には聞こえていないんですよね?」
『ああ。前半の言葉は余計だが、お前たち四人にしか聞こえない。今のところは』
「今のところはってなんだよ」
『もうスピリーとガエラタが目覚めるぞ。ひとまずここから落ち延び、機を待つ』
天命石は浮き上がりながらナミカのほうに向かってきて、腹の辺りにぐいぐいと体を押しつけてくる。
『浮いて移動するのは疲れる。持て』
「わがままな石ころですね」
ナミカは仕方なく、天命石を抱えた。
『復讐の始まりだ』
ファジィが足元に落ちていたナミカの槍を拾って、その柄で天命石を殴りつけた。
「気取るなバーカ」