1 侵略者となった日
大陸歴674年1月
澄んだ水のようという感覚を、澄んだ水以外に覚えたのは初めてかもしれない。
陽が昇るまぎわの赤黒い星空の下にナミカは立っていた。
ナミカと、地面に置かれた天命石とのあいだに、一本の線が揺らめきながら通う。それらはやがて、両手を開き眺めているナミカの身体を包むように広がっていった。
川のせせらぎの音がかすかにひびくなか、植物の根のようになった線の連なりに、天命石側から小さな波が起きて、ナミカのほうへとゆっくり向かってくる。
『これが視覚化した天命石の力だ』
そしてたどり着いた波が言葉に代わり、ナミカの頭の中に響いた。
『このような力が日夜、知らず知らずのうちに俺やナミカを取り巻いているんだ。おもしろいだろう』
ナミカは静かにうなずいた。
『俺もこの五年でずいぶん力を蓄えられた。お前にもそろそろ、人知を超えた力を与えてやれる』
天命石の黒くてざらついた表面がうすぼんやり、青白く光って、その周囲を青白い線がぱちぱちと明滅している。
きれいだ。
しかしこの力は、使いようによっては際限のない死をもたらす。
「敵の持つ天命石はこの力で人を操っていましたが、わたしはそんな使い方をしたくありませんね」
『アシュタットに属する者たちにあの力は使わないと保証する』
「しかしそれ以外には、ということですか?」
『状況による。抜き差しならないと判断した場合遠慮なくやらせてもらう』
「わたしがだめだと言ってもやるんでしょうね」
『殺すためにこの力を使うのはよく、操るために使うのはよくないのか。矛盾しているな』
「矛盾のない人間がいいのなら、他を当たってください」
『馬鹿を言うな。力の同調がたやすい最初の代執行者に、お前ほどの器に恵まれる奇跡などそうそう起きない。お前がいなければ、復讐が奴の生きている間に果たされなくなる』
「そうですか。それならせいぜい、大切にしてくださいよ」
今や天命石を全面的に信用しているわけではない。投げやりに言う。
天命石を包んでいる青白い光が、ナミカを包んでいた細長い根が、ナミカと天命石の間にひとつのかたちを作っていく。それはやがて、ナミカと同じ高さの、人間のような形をとった。青白い人型の何かは、右手のように見えるものでナミカの左頬に触れた。ぱちりと痛みが走り、ナミカは左目をすがめた。
『俺は人ではない。その感覚はよくわからないが、努力はしてみる』
「人の形を真似ることが、人を知るということではないですよ」
ナミカは、自身の加護の力を少し強めた。
波形が崩れ、人間めいた形の胴のあたりに大きな穴が空いた。天命石は人の形を真似るのをやめ、青白い光を石のまわりにまとわせた。
「そんな真似事をしなくても、あなたはもう知っているじゃないですか。何かを大切にしているから、それを奪われたとき復讐したくなる。常に復讐を口にするあなたは誰よりも、もしかしたらわたしよりも、村のみんなを大切に思っていたということです」
『天の御使いに対して、偉そうに』
「わたしは不信心ですからね」
『俺はただ、自身の力の供給源を人間ごときに断たれて憤慨しているだけだ』
「自分ではイシクラ村への愛着を語るくせに、こっちが言うと照れるんですから」
『勝手に言っていろ』
ナミカは天命石に近づいて、抱え上げた。
「忘れないでください。イシクラ村を誰より大切に思う気持ちだけが、わたしがあなたに力を貸す理由です」
『ふん』
天命石が力を抜いて、ナミカの両腕にずしりと石の重みが載った。
「そろそろ号令をかけないと」
ひとり呟いたナミカは、革で作られた職人特別製のかばんに天命石をしまい、肩ひもを両肩に通して背負った。
アシュタット・クロークル連合軍は、押し寄せた敵の第一波をロフリイ要塞であっさりと撃破した。第二波への備えを、ダビの率いるアシュタット派遣軍と、どうにか間に合ったクロークル本国からの援軍に任せ、ナミカたちはロフリイ要塞を発った。
アシュタット軍は、ファジィ率いる第二大隊約七百名が、斥候の役割を兼ねて前面に展開し、ナミカ率いる第一大隊、約一千がその後ろをついていく形で移動している。
大隊には、ナミカとファジィが直接率いる直下中隊がある。つまりそれ以外の中隊には、ナミカとファジィでは大まかな指示しかできないということだ。明らかに人を率いる事に向いていないスピリーはナミカのそばで副将として護衛に当たってもらう。逆に人を巻き込んでお祭り騒ぎをできるジャオは、ファジィの直下ではなく中隊長の一人としてファジィを支える役割だ。
中隊には三つ種類がある。戦闘中隊、支援中隊、土木工作中隊。それぞれ読んで字のごとくの役割を担当する。それら中隊が複数組み合わさったアシュタット軍第一、第二大隊は、第二波が到達しつつあったロフリイ要塞を出発し、南下をしている。
この作戦の目標は、五年前に奪われたクロークル旧ヤーヌイツ領――ヤーヌイツ島南部一帯の奪還だ。クロークル軍のヤーヌイツ南部所領を復活できれば、アシュタットともロフリイ要塞とも地続きになり、より有利に新王軍やリズ軍と対峙できるようになる。
リズ軍と新王軍は、まずアシュタットを落とすほうに力を入れており、北西からアシュタットを攻め立てている。クロークル本軍はアシュタットに援軍を送りつつ、南から猛攻をかけている。
おかげで、ロフリイ以南から南部最前線までの地帯、いわば「中南部」は、一種の空白地帯となっていた。
そこを、ナミカたちが強襲し確保。北からナミカが、南からクロークルが、南部領を挟んで潰す計画だ。
ナミカたちは、中南部の各地守備隊の、弱く散発的な攻撃を退けながら、旧ヤーヌイツ首都〈死の都〉のひとつ手前の街、八月七日村に至る。八月七日村は、リズ・クロークル大戦時、リズ軍に激しく抵抗したのちに降伏、名を奪われた〈名無し〉の村の一つだ。
もとは同じく〈名無し〉であり、独立したことによって元の名を取り戻したアシュタットの兵士たちは、この村に入れば歓迎されるのではないかとひそかに期待していたようだった。
ナミカもそれに違わず、激烈な抵抗はまずないと確信していた。
しかし八月七日村郊外の丘陵で、アシュタット軍は八月七日村自警団の急襲を受ける。
その日、アシュタット軍は初めて、自らが侵略者となった。