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4 スピリーとヨル(4) 月見酒

 ふだんは屋台や露天席を照らしているかがり火が、どの店でも焚かれていない。

 月明かりのもと、つるりとした木のテーブルの上に料理や食器が並べられていく。白身魚の煮つけ、ゆで麦の卵雑炊たまごぞうすいがひとつずつ。白濁酒の入った木のコップに、木彫りのスプーン、水の張られた深皿と取り皿がふたつずつ。

「いただこうか」

 店員が去るとヨルは水の張られた深皿に手を浸して言った。スピリーも自分用の水に手を浸す。

 スピリーは少し緊張しながら、白身魚の煮つけの載った皿を取った。骨をよけながらスプーンでほぐして、それぞれスピリーとヨルの皿に取り分けた。

「いただきます」

 ほぐした身を左手でつまんで食べる。差し向かいでこうして食べると、改めて話すことが何もない気がしてくる。視線をヨルの背後の白い星々にやりながら、黙々と食べる。後ろのテーブル席から笑い声が立って、何か話さないとと焦るが話題が出てこない。

 煮つけの小骨が多かったので出しながら食べていたらヨルより遅くなった。先に食べ終わったヨルは口に酒を含みながらぼうっとこちらを眺めてきた。余計に緊張してくる。一緒にご飯を食べるというだけでどうしてこんなにふだん通りにできないのかわからない。

 スピリーが食べているあいだに彼女は深皿に張られた水で手をゆすぎ、卵雑炊の入った皿に手を伸ばした。スピリーも遅れて食べ終わり、同じように水に手を入れ指をこすり合わせてべたつきを落とす。

「本当にここでよかったのか?」

 雑炊をよそった取り皿をヨルが渡してくる。

「ここはよくお世話になっているけれどね。せっかくなんだからもう少し高い店でも」

「このあいだ言われてから考えてみたんですが、実はあんまり店を知らないんですよね……新しく探すのが億劫おっくうで」

「わたしも、疲れているとどうしてもなじみの店に行きたくなるよ。お礼がしたいと言い出したのはわたしなのだから、わたしがきちんと決めればよかったな」

「その気持ちだけでうれしいです」

 そう言ってから、水を吸って膨らんだ麦粒を口に含む。塩辛く味付けされた汁にまぎれて、粒が歯の上をつるりと滑って噛みにくい。とてもおいしい、と言えるほどのものではない。けれどいつものなじみある味だ。ヨルと少し話せたのもあって、一息つけた。

 雑炊を食べ、甘い白濁酒を飲みながら、今日あったことをぽつりぽつりと零し合っているうちに、すべての容器が空になった。

「ごちそうさまでした」

 スプーンを置くと、ちょうど店員が通りかかった。皿を下げてくれるとき、スピリーとヨルはそれぞれ銅銭を一枚ずつ、店員が右腰に備え付けた筒に入れた。この店は注文の時に都度支払いで、店員にチップも払った。もういつ帰ってもいい。

 もう少し話したかったなと思いながら、歩み去っていく店員の背中を眺めていると、

「少し物足りない気がする。わたしは寄り道して帰ろうと思うけれど、一緒にどうだろう」

 とヨルが言って、いつも使っている麻袋をたすき掛けにしてゆっくり立ち上がった。スピリーもまた、ひもを巻きつけて足元に置いてあった麻袋を引っ張り上げ右肩にさげた。

「はい。実はぼくもちょっと、いつもの仕事帰りと同じ過ぎて物足りないなあと」

「よかった」

 ヨルは少し笑ってくれた。それに対してスピリーもよかった、と思った。

 スピリーとヨルは店の裏の露天席から表通りに戻った。喧騒が大きくなる。月明かりを存分に受けた露店や屋台は明かりが落とされ、いつもはうるさすぎる客引きの声も心なしか小さい。

「いつもより薄暗いのでスリに注意してください!」

 ところどころで立哨している警備の人たちが呼びかけている。

 銅銭と銀貨の入った小袋が、肩にさげた麻袋の中にきちんと入っているか確かめてほっとすると、服の裾がちょいちょいと引かれた。ひとりが気を引くスリかと思い袋を掴む手に力を込めて振り返る。そこではスピリーの服の裾をつまんだヨルが、屋台のひとつを指さしていた。そして喧騒に声がかき消されないよう、顔をスピリーの耳元へ寄せて、

「あれ、おいしそうじゃないか?」

 と言ってきた。その距離の近さにどきりとしたスピリーは何を売っているかも見ないままでこくこくと頷くことしかできなかった。

「ラグスの酒屋の前で待っていて」

 屋台には魚の喉元から尾までが竹串で貫かれた、通称〈無情焼き〉が小ぶりな火鉢を囲んで並べられていて、女性がふたりで切り盛りしていた。

「銅銭八つだよー。二本買ってくれたら一銭、三本なら三銭おまけ!」

「焼きたてだよおいしいよー!」

「塩焼きふたつ!」

「あいよ! 二つね! 十五銭……できたら小銀貨一枚ですまして!」

 ヨルが手を挙げながら大きな声で注文し、人込みの中へ体をねじ込み、店員に小銀貨を渡す。それを横目に、言われた通り、屋台の裏手にある酒屋へ向かう。何もかもやってもらって少し申し訳ないような気がする。

 多少は人混みがましなラグスの酒屋の前で待っていたら、おいしそうな清酒を周りのひとたちが飲んでいた。麻袋の中にある持ち運び用の酒器を取り出し、量り売りで注いでもらった。

 ふたつの竹串を手に戻ってきたヨルと、裏路地をぶらぶらして、静かに飲めそうな場所を探した。

 けれどちょうどいいところはなかなかなく、スピリーは少し考えて、第一訓練所が近くにあることを思い出した。訓練所の中には兵士たちがいこうためのあずまやがいくつかある。

 無情焼きを食べながら向かった訓練所は昼間のにぎわいが嘘のように静まり返っていて、なんだか不気味だった。入るのをためらったが、ヨルが先に行ってしまったので、あとについて歩く。

 あずまやはカードゲームが広げられる程度のテーブルと、椅子が並べられているだけの簡素な場所で、スピリーは適当な椅子に座った。ヨルはスピリーから少しだけ離れた隣に腰を下ろした。差し向かいで話し合うのは緊張するのでほっとした。

 歩きながら食べてだいぶ減っていた無情焼きは、すぐになくなった。

 スピリーは店で酒を入れてもらった酒器を取り出した。それを見せるとヨルは、

「串焼きに気を取られてすっかり忘れていたよ。ありがとう」

 と言いながら、麻袋から、茶色くざらついた陶器のさかずきをふたつ取り出した。

 栓を抜いてさかずきに少しずつ清酒をそそぐ。酒器を置いてさかずきを手に取り、一口含む。すぐにお互いのさかずきを交換して、また一口含む。はじめは相手の持ってきた酒に毒が入っていないことを確認し合う儀式だったそうだが、いまではただの形式にすぎない。すぎないはずなのに、交換するときに触れた彼女の冷たい手の感触が、スピリーの気持ちを少し波立たせた。それをたしなめるように、辛くて熱いものがのどを通り抜けていく。今日は、ヨルが新しく抱えてしまった何かを、少しでも吐き出させるためにやってきた。自分が楽しいだけではだめだ。言い聞かせて、さかずきを置く。

 決意とは裏腹に、言葉はやはり出てこない。きょうヨルと会うまで何度も何度も頭の中で繰り返し、独り言でぶつぶつつぶやいてきたはずの『何かあったんですか』がどうしても口にできない。せっかくここまで彼女の負担が軽くなるよう頑張って来たのに、この言葉を口にしたとたん、何もかもが無駄になるように思える。

 そんな自分の心配をよそに、ヨルはどこか機嫌がいい。右肘をテーブルについて、正面にある月を見ながら、さかずきを少しずつ傾けているその横顔は、いつもよりほころんでいた。

「こんなにおだやかな夜は久しぶりだ。わたしばかり気が休まって申し訳ないが」

「僕も楽しんでますから大丈夫です」

「あなたはすぐに気を遣うから、少し不安になるよ。もっと素直に思っていることを言ってくれていい」

「月見酒って楽しいですね」

 そう言ってさかずきを傾けると、ヨルは

「そういうところがよくない」

 と笑った。ヨルがさかずきを置いて酒器に手を伸ばしてきたので、酒器が手近にあったスピリーは持ち上げた。そのままヨルのさかずきにそそぐ。

「ありがとう」

 さかずきを手に取ったヨルが、口元に近づけて、一口含む。ゆっくり唇を離した彼女は、

「月がどうしてできたか知っている?」

 といきなりたずねてきた。僧なのにあまり天命教の話を持ち出さない彼女にしては、珍しい。

「まず世界に水が注がれたんですよね。次に、生命の源となるべき水へ〈天〉の意志を伝えるために雷が生まれた」

「そう」

「えーっと……次に真っ暗な世界を照らす太陽……というか火で、最後に月」

「順番は合っている」

「月が作られた理由は……うーん。覚えてないなあ」

「ふふ。少し意地悪な聞き方をした。実はこれは教会の関係者しか知らない話で、月は人間が作ったんだ」

 意外な言葉に、ヨルを見る。

「経典を書いたのは想像力豊かな人間たちだ。昔は〈天〉なる虚像を生んだのも人間だとわたしは言っていたが、天命石の実在を見たいま、そちらは撤回した。

 まあそれはともかく。火を与えられた人間はかつて、一日中、働いていた。夜まで働くための火を確保するためにも働いていた。つまり働くために働いていた。

 五百年以上前のあるとき、ひとりのものぐさな女が、夜に働かず済むようにしようとした。昼に比べて事件や事故が多い事実をみなに伝え、夜は物の怪の時間だ、暗くて怖くて危険だと言って回り、働くのをやめさせようとした。もちろん誰も取り合わなかった。

 そこで女は考えた。太陽の夜の姿……白くて欠けたり満ちたりする夜の太陽を月と呼び、〈天〉が与えたことにしようと。彼女は天命教の僧だった。自分が写経した経典にひとつひとつ、嘘を紛れ込ませていったんだ。朝から終日働き続ける人間たちを哀れみ、休息を知らせるものとして〈天〉が月を与えたのだと。

 面倒くさがりな彼女の地道な努力によって念願は叶い、いまや夜は休息の時間となった」

 ヨルは月を見上げた。

「その僧の名をヨルという。わたしのことだ」

 驚いてヨルの横顔を見つめると、

「と言ったらどうする?」

 少しの間のあと、こちらを向いてヨルが笑った。

「びっっっくりしたぁ」

 スピリーは息とともに驚きを吐きだした。

「本当かと思うじゃないですか!」

「四十年生きてきたが、五百年生きた人間は見たことがないな」

「天命石のことがあるんですから、もしかしたらって思いますって。というか、からかうつもり全開だったじゃないですか」

「一応言っておくと、その僧の本名はヨルではない。夜は休もうと言って回るうちに人々からヨルと呼ばれるようになった。本人も気に入ったらしく後年の著作では自著にヨルと記名してある。話を知ったわたしの母が、おもしろがってわたしの名をヨルにしたのも事実だ」

 ヨルは生真面目に補足する。

「しかしそこまでいい反応を見せてくれると、話した甲斐があったな。五百歳も年上かもしれないとあなたに思われたのは、少し複雑ではあるが」

「それはそのう……ヨルさんって、喋り方がときどき昔の人みたいですし、ミステリアスと言いますか、僕に計り知れないところがあるので」

「ものは言いよう」

 ヨルは楽しそうに言って、酒を一口飲んだ。饒舌でありながら彼女はなんだかとても眠そうだ。瞼が時々閉じそうになっている。

「それにしても、月にまつわることがひとりの嘘から始まったなんて面白いですね」

「彼女の生きた時代にはすでに経典のほとんどの記述が固まっていて、表記の間違いはほとんど見られない。が、彼女の写したものは特に完璧でどの写本にも一字の誤植すらない。だからこそ皆が彼女の写した経典を下敷きにした。月の部分が書き加えられたものをね。働きたくない働きたくないという愚痴ばかり書かれた日記も遺っているから、他書物の記述の混入ではなく自発的に書き加えられたとものと考えられている」

 スピリーは笑った。

「すごいとは思いますけど、働きたくないから経典を書き換えるなんて、いろいろと紙一重な人ですね……」

「彼女の生きている間に夜は仕事をしないという提案が受け容れられたかどうかはわかっていないが、少しは恩恵を受けていてほしいな」

 スピリーはぼんやりと話しているなかで、ようやく、話の糸口を見つけた。

「ヨルの名が夜から来ていて、休息を広めた僧の名でもあるなら、ヨルさんはもう少し休まないとだめですね」

「そうかもしれないな」

 けれど話を進めようとしたとき、眠そうだったヨルがついにテーブルに腕を載せて、顔をうずめてしまった。

「話していたら眠くなってきた。少し眠ってもいいだろうか」

 応える前に、ヨルは静かな寝息を立てていた。何があったか深く聞かずに済んで、胸をなでおろしたいような、絶好の機会を逃したような、どちらとも決めがたい漠然とした思いのまま取り残されたスピリーは、ヨルの寝顔をぼんやりとながめた。

「頑張りすぎなんだよみんな」

 つぶやきながら、眠るヨルの頭に手を置き、軽く撫でた。彼女のぬくもりが手を通じて身体中にじんわりと広がり、スピリーは慌てて撫でるのをやめた。

 それからさかずきに手を戻して、残った小さなひとしずくを飲み干した。


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