3 スピリーとヨル(3) 損を引き受ける人
久しぶりにあの夢を見た。
瞼の裏に縫い付けられた恨み。
どんなに忘れようとしても、縫われたそれをほどくための糸はどこにもない。
きっと一生、付き合っていくしかない。
朝の兵舎前の街路は、一斉に人が動き始めるせいでとにかくほこりっぽい。兵舎には急いで搬入しなければならない資材や交易品なんていうものはないから、舗装が後回しにされている。もしかしたらこのまま舗装しないつもりかもしれない。みんな砂煙が入らないように目を細くし、袖で口元を覆って歩いている。
スピリーもまた同じようにして足早に歩いた。風があるせいか今朝の砂煙はまた一段とひどい。涙目になりながら裏路地に逃げ込んでみても、誰も知らない裏路地なんて言うものはないので結局砂煙は舞っている。砂塵から逃げた先で仕事が始まるのはいつもながら憂鬱だ。なので、スピリーはひとつだけ楽しみを作っている。それはスピリーの住む第二兵舎から路地十一本分を渡っていくとある。
教会の正門で掃き掃除をしていたヨルの同僚に挨拶をする。彼は挨拶を返すと、何とも言えない顔をした。彼はヨルが働きすぎだから注意してくれと言ってきた同僚の一人だ。ヨルに何かあったのかもしれない。不安を覚えながら教会の東側の畑まで歩いていく。
ヨルは手にピッチャーを持ち、畑の土に水を注いでまわっていた。
「おはようございます」
歩きながら声をかけると、だんだん高くなってきたマメの茎の根元に水を注いでいたヨルが顔を上げた。
「おはよう」
応えた彼女は笑った。けれどスピリーはその笑顔を見て、何かあったのだと知った。ヨルは不愛想というほどでもないけれど、そうそう笑うほうでもない。掃き掃除していた同僚の態度もある。あいさつぐらいで笑顔を見られるなら、自分だって苦労しない。
「いい感じに育ってきましたね、このマメ」
仕事の前に詳しく話を聞いている時間はなく、何かあったんですかという言葉は飲み込むしかなかった。かわりにどうでもいい言葉が口をついて出た。
「ああ。この種は成長が早いと譲ってもらったのだが、本当に早いな」
「ふだんはどうやって食べてるんですか?」
「スープや煮物が多い。あまり続くと飽きるから、ほどほどに使っている」
ヨルはぼろを出さない。
スピリーは諦めて、当たりさわりのない話を少ししてから仕事に向かった。
『アシュタット第一訓練所』という粗雑な看板のかかった正門横の石壁をすぎると、正面にあるグラウンドに、兵士たちがそれぞれ集まって立ち話に興じていた。
最前列左端から、第一大隊の直下戦闘中隊、直下支援中隊、直下土木工作中隊、第一戦闘中隊、第一支援中隊、第一土木工作中隊……というふうに並んでいる。
直下戦闘中隊の位置に駆けていくと、途中で、教会の始業の鐘が鳴ってしまった。幸い鳴り終わるまで二十回ある、他の遅刻しそうな兵士たちとともに全速力で隊列へ加わる。汗だくになって所定の位置につくと、他の兵士たちから笑われた。
全軍指揮官で第一大隊を率いるナミカが、指揮官側の場所からじっと見てきた。
……すみません。
最初はストレッチ、次に訓練所の内周と外周にわかれてランニング五周、水分補給のあとは短距離全力ダッシュを五本。基礎と呼ばれるようなトレーニングはそれくらいで、あとはすべて実戦訓練だ。
実戦訓練は、訓練所に居残っての平場戦闘訓練、ロフリイ要塞の西側に広がるヤーヌイツ樹林帯とヤーヌイツ山岳地帯での戦闘訓練、北東に広がるアシュタット山岳地帯での戦闘訓練、東門から出て船上戦闘と操船の訓練、城壁を挟んで寄せ手と受け手にわかれての模擬戦闘訓練、だいたいこの五種類が行われる。現地集合にしないのは、城外で急な敵襲に遭遇する可能性も消せないためだ。
兵士たちに人気のある訓練は――特にない。どれも嫌がられている。一番嫌われている訓練は誰に聞いても同じ答えが返ってくる。深夜訓練だ。救いは、一日訓練の翌日には昼までの訓練になり、深夜訓練のあとは一日半の休日がもらえるところか。
以前なら、スピリーはこの休日にも訓練をびっしり入れ込んでいた。ナミカや同僚にたしなめられて頭が冷えたいまとなっては、よく倒れなかったと呆れるしかない。
「平場戦闘、平場工作訓練は第一大隊直下中隊から第三中隊まで。ヤーヌイツ山岳地帯は第四、第五中隊。アシュタット山岳地帯は第六、第七中隊。船は第八、第九中隊。攻守模擬訓練は第二大隊全体で行います。
お疲れでしょうが、気を抜かないでください。皆様が無事に訓練を終えられることを望みます。始め」
ナミカの端的な指示で兵士たちがてきぱきと動きだす。平場戦闘組のスピリーはその場に立ったまま、ヨルの見せた愛想笑いをぼんやりと頭に浮かべていた。
平場戦闘訓練は、考査で同じくらいの実力があると判断された兵士が対になって行う戦闘訓練だ。端数調整で実力差のある兵士同士の二対一の訓練の場合もあり、不人気なのはこちらのほうだ。
けれどスピリーは一対一の訓練のほうが苦手だった。
それはもちろん、最近の相手が毎回ナミカだからだ。
「じゃ、始めましょうか」
ナミカが楽しそうに言う。その笑顔が怖い。
もちろん、訓練で天命石の力は使わない。けれどナミカは、〈そのまま〉でも、石の都で将軍になれるとファジィが感じたというほどの実力者だ。
訓練は、柄はそのままに刃部分だけ縄を編み込んだ模擬武器を使う。今日は模擬剣からだ。スピリーは手に持った模擬剣を軽く握った。見た目よりはだいぶ重たいのだけれど、ナミカはそんなもの関係なしにどんどん打ち込んでくる。
剣で受けると力負けしてしまうので、スピリーはナミカの間合いから常に外れているしかない。すると当然、ナミカの体格に劣るこちらの攻撃も届かない。
間合いを詰めてこようとするナミカから、必死に距離を取る。そうしているうち、背中が壁についてしまった。
ナミカが襲い掛かってくる。スピリーはその場に素早くしゃがみこみ、破れかぶれに模擬剣をナミカのすねをめがけて投げつけた。ナミカは剣をいつも実戦で使っている鉄棒のように下から振り上げて弾き飛ばし、そのままスピリーに剣を振り下ろす途中で体を止めた。
「勝てませんって」
壁に背を預けて座り込んだまま、ナミカを見上げる。子供のような愚痴をこぼしたスピリーに、ナミカは少し申し訳なさそうに笑って剣を下ろす。
「ごめんなさい。でも、スピリーも動きがよくなってきましたよ。無警戒に間合いに入ってびしばしやられていたころとは大違いです。今日の、足を狙ったアイディアもよかった。ただ、ああいうのは手元に武器が二つある状態でやるのが望ましいですね」
ナミカはそう言うと、スピリーに手を差し出してきた。スピリーはそれをつかんで立ち上がる。この人はいつも、のんびりしているようでいろいろと考えている。
「もう少し、訓練を続けましょう」
頷いたスピリーは、ナミカに弾き飛ばされた模擬剣を拾いに行った。
それから九度やって九度負け、長柄の模擬武器に移ってからも同じく十度負けた。的を相手にしての弓の訓練でようやくナミカとの直接対決から解放されたけれど、もちろん全部負けた。
……ここまで負けてめげない自分を少し褒めてあげたい。
休憩時間になり、井戸で水を飲んでから、日陰の石壁によりかかってひとりでぼんやりしていたら、ナミカが近づいてきた。髪ごと顔を洗ったらしく、顔全体が濡れている。
訓練時の怖さはどこかへ消えている。スピリーに見られていることに気づくと、いつもの、イシクラ村の穏やかな日々から何も変わらないように見えるいつもの笑顔を見せてきた。
「さっぱりしましたー」
「僕はもう打ちのめされましたよ」
「わたし、ほとんど寸止めで当ててないじゃないですか」
「それだけ力の差があることにです」
「ふふ。まだまだ負けないですよスピリーには」
本当に勝てる気がしない。
「それより、聞きましたよ。ヨルさんに仕事を減らさせる作戦、うまくいったみたいですね。この間一緒に食事したとき、ずいぶん表情がやわらいでました」
ナミカは休憩時間をスピリーと話して過ごすことにしたようで、スピリーから人一人分空けた左隣に、腰を下ろしてきた。
「はい。同僚の方がすごく前向きに協力してくださって……。僕自身はそこまで信心は深いほうじゃないですが、ああやって兵士の相談に乗ってくれる方々がいるのは心強いですね」
ナミカは言葉をかみしめるように何度も頷いた。
そのあとで頭を石壁に預け、両手を濡れた髪にうずめて握りしめながら、深いため息をついた。
「スピリーも話は聞きましたよね。もう公然の秘密みたいになっていますが、このあいだ、直下中隊からひとり、自死者が出てしまいました」
それから両手を目のあたりにスライドさせ、手のひらでぐりぐりと目を押す。
「人殺しの上に仲間殺しです」
「僕だって大差ないですよ」
「あなたにもつらいことをさせてますね」
「僕の……僕たちの目的のためですから」
「頼りにしてますよ」
「あてにしないほうがいいと思います……」
「わたし相手にあれだけできるんだから、もっと自信を持ってください。ヨルさんだって助けてあげたじゃないですか」
「それがあの……ヨルさん、また何かあったみたいで、少し表情が暗くなってまして。何かナミカさんは聞いてませんか?」
「んー。気になる話があるとすればひとつだけ。なんでも自死した兵士が、教会に相談に行って、症状が悪化して帰って来たとか何とか。ヨルさんはもしかしたらその噂を耳にして、教会が悪く言われることを気に病んでいるのかもしれませんね。ヨルさんは兵士からも評判がよくてこの街の顔みたいな僧ですし、いろいろ思うところもあるのかもしれません」
「なるほど……」
「えっと、わたしの勝手な予想ですよ。予想。結局、本人に聞くしかないんじゃないでしょうか」
「ですよねえ」
気が進まないけれど、そうするしかないか。
ナミカはもう一度ため息をついた。
「お互い、うまくいきませんね。いろいろと」
お互いという言葉に、スピリーはきょうはじめて、ナミカの横顔をまじまじと見た。変わらず笑顔を浮かべているが、目尻には笑いじわひとつない。口元だけの、虚ろな笑い。
そういえばこのところ、ナミカが仕事以外の会話を誰かとしているところを見ていない。ファジィは部下とも隔てなく接し、ジャオをはじめさまざまな人びとに囲まれているけれど、ナミカは少し離れた場所で独りぼんやりしていることが多い。
村にいたころのナミカは、宝物庫の前を通る人たちに果物や野菜などの差し入れをいつももらっていた。その場で調理し始めて差し入れしてくれた人たちと一緒に食べ、おいしいおいしいとみんなで言いあって幸せそうだった。酒屋の娘のシャニや従業員のナヌリと特に仲が良かった。彼女たちは隙あらば即席の酒盛りを宝物庫の前で始め、いつも酒屋の親父さんに引きずられて帰っていった。警護場所の近くでナミカのことを好きではない人間はいなかったし、ナミカもきっと、みんなが好きだった。
ナミカは笑みを消して、立ち上がった。その背中を見て、突然、涙が出そうになった。
この人から親友を奪ったのは新王。
この人から父親を奪ったのは新王。
この人から笑顔を奪おうとしているのは――それはもしかしたら自分たちなのかもしれない。とても大きな彼女の背中は、人より多くのものを背負うことができる。けれど自分たちはそれをいいことに、腐臭のする何かを、彼女に背負わせている。
どうして自分の周りは、損を引き受ける人たちばかりなのだろう。息苦しくなったスピリーは目を閉じ、古木の枝葉のさやぎとその根元でもつれあう下生えのざわめきに意識をやった。