1 ヨルとスピリー(1) 戦いは終わらない
対面して話を聞くと相手の感情の影響を受けやすいため、顔が見えないよう、薄い木の扉越しに相談を受けている。
扉の向こうではきはきと話していた――声からして中年の――男が、苦しみの根の部分に話が及んだとたん、言葉に詰まり、泣き出した。
ひどい嗚咽だ。何を言っているのかわからなくなっているのに、男はまだ話している。本当なら扉の施錠を外して、肩に手をやり、慰めてやるのも方法も一つかもしれない。しかしヨルは何も言わず、ぱらぱらと天命教の経典をめくって時間を潰した。
やがて部屋に、びちゃびちゃと水気のあるものが落ちていく音が響いた。
「変に我慢すると後がつらくなる。吐けるだけ吐いたほうがいい」
返事の代わりに、水っぽい音がした。
どうにか落ち着いたらしい男は、
「すみません、少し、床にも……。終わったら掃除します」
「それも含めてわたしの生業なのだから気にしなくていい。怪我人は休養が生業だ」
「どこにも怪我なんてしてませんが……」
「もののたとえだ。あなたは怪我人と言っていいほど打ちのめされている」
「いえ……死んだものや手足を失ったものに比べれば、私の悩みなど……」
もう何度も耳にした言葉だ。
「そうかもしれないな」
ヨルはそう受けてから、
「けれど他人がより苦しんでいるからと言って、あなたの苦痛が消えさるわけではない。むしろそう考えることによってますますあなたは苦しむことになる。
わたしは裁判官ではないから、苦痛の軽重には興味がない。苦痛を和らげることにだけ興味がある」
言うと、向こうで男が笑った。彼はこちらが問う前に、
「あ、いえ、噂通りの方だなと思いまして……」
と言い訳するように早口で言った。
「それは気になるな。やたらと居丈高な僧侶がいる……とでも言われているのだろうか」
「違います。相談を受けてくれる僧の中にやたらと堅苦しくて難しい言葉を遣う人がいると」
「大差ないじゃないか」
「ははは」
男は最初は本当に楽しそうに笑ったが、すぐに笑いが乾いたものになり、しばらく黙り込んだ。ヨルはその間を、何から話せば先ほどのように狼狽せず済むかを考えている間だととらえた。
「あなたは軍ではどの隊に所属しているのだろうか」
「あ、はい、アシュタット軍の第一大隊、直下中隊に所属している……」
「名前は言わないほうがいい。わたしはこの部屋かぎりの存在だ。何を話しても外に洩らしたりはしないが、心配になってうまく話せなくなる人間もいる」
「了解しました」
「話を戻そう。招集がかかったとき、あなたは何を?」
「仲間と徹夜でカードをしていました」
「そうか。わたしもカードゲームはよくやるよ。金は?」
「まあ酒代ぐらいは。ただ、あの日はひとり負けで、全員分おごる羽目になりましたがね」
「ふふ。それは剛毅な」
「すっからかんですよ。そこへ招集がかかって、ちゃんと寝ときゃよかったなとか愚痴りあって……」
ヨルがあるていど話を促しただけで、あとは自然と男のほうから話し始めた。ここまでは先ほどしていた世間話よりも、根に近い話ができている。
人が多すぎて広場に入れなかったことや、ダビとナミカの演説、兵舎から演説をこき下ろした女がいてみんなで笑ったこと、そして南側城壁から出撃したことなどを、流暢に話した。男が参加した南側城壁の戦いは優位に進んでいたからか、男も気楽に話している。
苦痛の根は、やはりそのあとのようだ。アシュタット軍は、ナミカの判断で一度城内に退き、続いて、急報のもたらされたアシュタット山岳地帯へ向かって再度出陣した。
「ここまではみんな元気だったんだ。もちろん死んだやつもいたけど、戦闘の最中だったからか、なんかこう、顔が熱くて、気分がふわっとしてました。なんだか自分じゃない誰かになったみたいで、不思議と、怖いとか、逃げたいとかはなかった。むしろどんどん戦えるような気がして、そう、カードでいい役が揃った瞬間が、ずっと続いてるみたいな」
男から丁寧語が消え始めた。まるで目の前で起きていることを伝えようとしているかのようにまくし立てる。実際、男の頭の中ではそのときの光景が、克明に広がっているのだろう。
「そんで俺たちは、山道を登って行った。アシュタット山岳地帯は、険しいと思われてるけど、それは真ん中の嶺から向こうだ。手前側の嶺はそうでもないんだよ。訓練でも何度か登ってるから、まあ、そんなに苦も無く登ったよ。問題はこっからで」
衣ずれの音がした。男が姿勢を変えたようだ。あれだけあった勢いがたちまち失せ、男は、再び黙り込んだ。ヨルは男が話すまで待とうと決めた。けれど彼は、再びすすり泣きを始めた。
「死体が。死体が山のようにあったんだ。まるで野犬に食われたみたいな死体とか。そんで、死体には、もうすでに虫が……」
男がえずいた。中身は出ていないようだが、うえ、おええ、と苦痛の叫びのように空嘔吐を繰り返した。そして言葉がやんだ。ヨルは、
「今日はこのくらいにしておこう」
と言った。男の返事は聞こえなかったが、しばらく待っていると、静かに部屋を出ていった。
わからない。
あれ以上続けては彼を余計に追い詰める気がして思わず止めてしまったが、彼は明日のこの時間までどんな気持ちで過ごすのだろうか。
どうすればいいのか。どうすればよかったのか。
わからない。
書物にも、戦傷に対する治療方法は記されているが、心を癒すすべは載っていない。載っていても、馬鹿げていると一目見てわかるものしかない。
戦史やそれにまつわる書物を読んでいると、殴ったり殴られたり殺したり殺されたりという行為だけが戦争だと勘違いしている指揮官が驚くほど多い。
五年前の戦いで傷ついた兵士たちの治療に携わり、今回も携わり、ひとつだけわかったことがある。
戦いは終わらない。ずっと続く。その人間が、生きている限り。指揮官は命令を下すだけだから気づかないのだろうか。その命令によって、死傷せずに済んだ兵士たちですら、心の内に深い傷を負っていることを。
アシュタットの立ち上げに参加したときにはヨル自身も、リズや新王の圧政からヤーヌイツを開放するという名目に、少なからず心を寄せていた。けれどいまは、わからない。圧政に抗う決意をしなければ、彼らのような存在を生み出すことはなかった。
あの瞬間、ヨルはたしかに命を懸けていた。計画が露見すれば殺されていたのは間違いない。けれど今は違う。彼らを矢面に立たせて、すべて終わった後で偉そうに話しかけ、慰めるだけ。自分は自分の取った行動の責任を果たしているのだろうか。
救いは、アシュタット軍の指揮官たちが――ナミカやファジィたちがきちんと兵士たちの苦悩を知っていると言うことだ。彼女たちは毎日戦没者の慰霊碑に手を合わせ、怪我人を見舞い、訴えに耳を傾ける。だから迷いながらも、この仕事にかすかな誇りめいたものが持てる。彼女たちの手助けが少しでもできるのならとうい気持ちがせめてもの支えになる。
ヨルは、仕事の合間に天命石のことについてもっと詳しく調べようと広げていた経典を、机の端に押しやって突っ伏した。四十になっていまだこんなにも悩み続ける羽目になるとは思っていなかった。若いころに見た四十の僧というと、道理をわきまえ、めったなことでは動じず、後進をうまく育てる超人のように見えていた。実際自分がなって見ると、若いころから何も進歩がない。徒に歳を重ねただけのように感じられてくる。
目を閉じうとうとまどろんでいると、次の相談者が部屋に入ってきた。相談者はお互いに顔を合わせなくて済むよう間仕切りのある待合室で待たされ、担当者が休憩時間を砂時計ではかって案内する。こちらの疲労度合いはお構いなしに、相談者は次々に現れる。気合を入れ直して起き上がる。
「よく勇気をもっていらした。初めてだろうか。以前に来たことがある場合は、前回の話を軽く振り返って頂けるとありがたい」
「お疲れみたいですね。ヨルさん」
扉の向こうからの呼びかけに、ヨルは少し気が抜けた。
「なんだ。スピリーか」