2 ナミカの守るもの
「ナミカ。ナミカー!」
自分を呼ぶ声がして、目を開ける。
寝過ごしたか。慌てて重たい体を起こして、半分閉じた目で天幕の入り口を開け、身を乗り出す。舗装されていない赤茶けた地面の上に立ち、笑みを浮かべてこちらに右手を振っているのは、父だった。左手には何かが入った取っ手付きの石瓶を持っている。
……今日は絶好の昼寝日和だったのに。
ため息をついてからまた天幕の中に寝転がり、全身を伸ばして大あくびをこぼしてから、仕方なく外へ出た。穂先に革のカバーをつけておいた槍を拾い上げ、
「どいてー」
と言って父と下の歩行者をどかしてから、横になるように落とした。土埃を立てた槍を見てから、自分も飛び降りる。
着地すると、通行人と、昼番の警護兵ふたりが拍手してくれた。
通行人は近所の酒屋のおやじさん一家だった。おやじさんにおかみさんにひとり娘のシャニ。警護兵は酒屋のお得意様なのでいろいろ世話を焼いてくれる。きょうは親子水入らずの定休日なのだろう。思い思いの激励の言葉を投げかけて去っていった。
父は、ナミカの履いている革のブーツの先から、肩まである黒髪までをぼんやりながめながら、
「お前は本当に絵になるなあ。婿候補が逃げ出すのもしょうがない」
「こんな場所で夫婦生活を送れとでも?」
「半年前までの婿候補は当てはまらないだろ」
「嫌味のために叩き起こしたんなら寝ますよ」
「まあそう怒るな。差し入れだ」
父は言うと、左手の取っ手付き石瓶をこちらに差し出してきた。底が深い石瓶だ。それでも隠し切れない肉の香り。
「これはまさか」
「鶏肉を焼いてきた」
取っ手には麻ひもが結ばれていて、引っ張り上げると、焼き色のついた鶏もも肉が姿を現した。
「ぐらしあす! 素晴らしい仕事ですお父様! 大好き!」
「あからさまに態度変えやがって」
「どうしてこんな立派なお肉が手に入ったんですか?」
「大規模な受注を成功させてな。特別手当が出た」
「へええ。景気いいですねえ」
「そうなんだよ。それもこれも、子供のころにお前が見つけてきてくれた天命石のおかげだろうな。石が出た後、何もかもうまくいってるよこの村は」
石が出たからと攻めの商売に転じた結果、石が出たからとそれまで以上に村の人々が頑張った結果だと、ナミカは常々思っていたが、口には出さない。天命石が本物でも偽物でも、村人が信じてうまくいっているならどうでもいい。
ひとつわかっていることは、ぜったいにあの石を盗み出させるわけにはいかないということだけだ。世の中はこれまでにない動乱へと向かいつつあるとのうわさも聞く。村人の心のよりどころを失わせては、その動乱にあっさり呑み込まれてしまうだろう。
「とはいえ、だ。お前に武術の才があるからと、こんな場所に縛りつけてるのは本当にすまないことをしてると思ってる。村のみんなもそう言ってる」
「構いませんよ。その言葉だけでこれから一年は働けます」
ナミカは笑って見せた。この場所の景色に飽いてきているもの確かで、笑顔は多少虚勢まじりだけれど、言葉は本心だ。この村の人々が守れるのなら、このくらいの理不尽はいくらでも引き受ける。
「どうにもつらくなったら言うんだぞ。俺は槍働きはからっきしで何ともならんが、組合に警護兵を増やすよう訴えることくらいはできるんだからな」
「心配しすぎです。少なくとも」
石瓶から引き上げた鶏もも肉の端をつかみ、真ん中あたりにかじりつく。肉汁がはじけて、さばいたばかりのものだと知れた。身が引き締まっているがほどほどに柔らかく、ほんのり香るワインのにおいも塩コショウの薄味も、肉の味を引き立てている。
何度か噛んで飲み込んだあと、
「顔を見に来てくれる人がいるうちは、この仕事を頑張るつもりです」
「そうかあ。俺も自分の仕事を、頑張らねえとな」
去り際に見えた父の目が、潤んでいるように見えたのは気のせいだったろうか。
油でべたべたになるのも気にせず、父が額に汗して手に入れてくれた上等な肉を、ナミカは心行くまで堪能した。
手についた油を、宝物庫の裏手、少し離れたあたりにある大きな河で流した。
穏やかな水面に、波紋が広がる。物資の輸送船に乗って行きかう男たちのやかましい声が響く。この河はつい最近、余裕のできた村の財政から工事の資金を拠出して、石の都へ向かう利便性をさらに高めたと聞く。他の石切り場に妬まれるほどすぐ、石の都の大規模な注文にこたえられるのはこの河のおかげだ。石材だけではなく、肉や牛乳、農産物、木材、鉱物、工芸品なども運ぶことができるため、最近は石切り場の村というよりも、生産基地の様相を帯びつつある。
ナミカが子供のころは、たしかにここまで急速に発展する村の姿は想像すらできなかった。天命石の話を信じたくなる気持ちもわかる。
ナミカが天命石を見つけたのは、今から十四年前、十歳の冬だった。山火事が起きるほどの激しい落雷があって、いちだんと燃えた火元のようなところにこの石が落ちていた。ナミカは落雷現場にあったはずの木の上から村を見下ろすのが好きだったから、火災鎮火から数日後にその場所へ向かった。木が燃えてなくなったのをまずは悲しみ、木のあった場所に適当な石を運んで、木の名前を彫ろうとした。すると不思議なことにその適当な石が、近づけたノミの鉄の部分と、ぴたっとくっついたのだ。もちろん引き離せないほど強くはないのだけれど、ピタ、スッ、ピタ、スッという独特の力の働きが楽しくて、石を家まで持って帰った。
その石は普通の子供だったらとても持って帰れない大きさだったけれど、十歳ですでにそこらの成人男性より背の高かったナミカはどうにか持ち帰ることができた。家に持ち帰って山で起こったことを再現すると父が血相を変えて村長を呼んできて、村長はこれは天命石、別名道しるべの石だと言った。
似た性質の石はほかにも確認されているが、どうやら落雷によって、その性質を帯びるのが大事らしい。落雷は天の御使い、天命石は天命石ある土地に繁栄を約束する、恩寵が宿った宝物なのだと。今回は山火事が起きたという決定的な落雷の証拠がついているから、誰もそのことにけちをつけるものはいなかった。落雷のあった場所はいまでも毎日掃除が行われて、地肌がむきだしのままになっている。ナミカが大好きだった木のための墓を作ることはできなかった。
こうしてイシクラ村は、天命石の加護を得た土地となった。そのことは旅人を介して周辺の土地土地に広まっていった。
石をつけ狙う盗賊の質は高くなかった。もともと力仕事で鍛えた男たちには屈強なものが多かったから、特別な訓練をしなくても、ろくなものを食べていないやせ細った盗賊たちには負けなかった。けれど半年前に現れたあの女は違う。あの女はどじょうのようににゅるにゅると動き回り、何度も何度も宝物庫を襲いにやってきた。しかも決まって深夜を狙って。さすがの男たちも日常と護衛の同時進行は難しく、専業の警護兵を置くことになった。
専業の警護兵第一号は、天命石を手に入れた張本人で、村の誰よりも武術に――たぶん――すぐれ、もともと半専業のような形で倉庫を守っていた自分が選ばれた。
なぜあの女が、村人を殺さないのかはわからない。わからないけれど、それだけが救いだった。
「ナミカ、お疲れさーん!」
物資輸送用の中型帆船の甲板から、船員の一人が手を振りながら声をかけてくる。
「お疲れ様です! 石の都まで行くんですか!」
手を振り返す。
「ああ! 最近やけに都の連中の羽振りがよくってなあ!」
「お気を付けて!」
今日は石の都のほうに向かって風が吹いている。巧みに風を受けた帆船が、スピードに乗って目の前を通っていった。雲間の陽を隠した船の影が目の前をすぎると、陽が橙色に染まり始めていた。
宝物庫近くの景色には飽きたけれど、この河岸からの眺めはまだ、ふとした瞬間にきれいだと思うときがある。対岸には、係留された三艘の船と、荷の積み下ろしや整理を行っている人々、積まれた荷、槍を持った警護兵。端のほうで、女の人がぼんやり立っていて、その近くにいる子供ふたりは石を使った水きりで遊んでいる。働いている人の中に父親がいるのだろう。
それらをすべて区別なく、夕陽が照らしている。
自分の気持ちに正直になれば、こんな仕事は退屈だ。同じ場所から動けず、ずっと気を張って、自分が子供のころに拾った石を守っているだけだ。けれどその退屈な仕事をナミカがこなすことで、この人たちの幸せの一部も守れているのかもしれない。
きょうは見慣れた景色がきれいに思える日だった。これであの女さえ来なければ最高なのに。