1 サジラド湾海戦(1)
アシュタット港はリズ・クロークル紛争の際には、激戦地とはならなかった。
在りし日のヤーヌイツ軍は、リズの進撃に追い詰められると、アシュタット港を拠点に物資をかきあつめた。距離の近い九月二十三日村――旧名■■■■■――と共同でアシュタット山岳地帯を駆け回り、農業都市マキナの奪還を試みるなどの抵抗を続けた。そのアシュタットを落とす前哨戦として占領された場所でしかない。
ヤーヌイツ島北部を属領化したリズの戦後統治は単純明快だ。暴力を背景に、属領の民から理不尽なほどの税金や物資を巻き上げ懐に収め、クロークルとの紛争地帯にすべて投入する。現地に徴税官とそれを補佐する幕僚を何人か送り、その徴税官や幕僚が殺されれば村人を殺し、村人と結託して汚職に走れば徴税官もろとも村人を殺す。リズ軍の精強さと情け容赦のなさが根付いているこの島では、それなりに有効な方法ではあった。
そのリズに反旗を翻そうとしているのが新王軍だった。新王軍はリズとの戦闘に備えて周辺の直属領有化をはやるあまりか、ある致命的な失策をする。第四大隊の暴走によるイシクラ村の虐殺だった。本当ならば問題にはならないはずだったが、その生き残りに、ナミカとファジィがいたことが、失策にした。彼女たちを逃がしたことで、アシュタットには反新王の旗が翻った。
新王軍は、アシュタット港から逃げ出した徴税幕僚のひとりからその事実を伝えられた。すぐさま宮廷第二大隊の七隻から成る船隊を、アシュタット港に差し向ける。正規軍人の数はおよそ一千。
対するアシュタットは、逆三角形をしたサジラド湾の入り口に無数の小型船を並べ、湾内の大型船接岸可能区域に二百の素人兵士を展開して、第二大隊を迎撃することになる。新王軍との兵力には五倍もの開きがあった。
「土木工作班より報告! 準備、間に合いました!」
アシュタット港の司令部――仮設の木造小屋――での議論のさなか、飛び込んできた報告に、喜びと安堵の色が広がった。
「あとで現物での謝意も届けますが、ひとまずはねぎらいの言葉を伝えてください。あなたもご苦労さまでした」
ガエラタが、ナミカたちの前で見せる姿とは別人のように丁寧に応える。
「了解しました!」
伝令はすぐに取って返した。
「間に合ったか。ひやひやしたな」
ガエラタがいつもの調子に戻って言う。
アシュタット近くの離島で張らせておいた諜報班の網に、敵が引っかかった。敵はこちらが寡兵なのを見越してか速度を重視している。このままいけばきょうの夕刻、サジラド湾に敵船団が姿を見せるはずだ。
「負ければ終わりか。これから何度、こんな苦境を跳ね返す必要があるのかと思うと、まったく、気が重くなる」
「手は打ってあるんでしょう?」
ナミカがたずねると、
「使者は一応な」
「クロークルは乗ってくるでしょうかね」
元港2の村長だったディアゴが、ぼさぼさの栗毛をなでながらつぶやく。寝ぐせがひどいようで、何度押さえつけてもぴょこんと跳ね返っている。
ディアゴは代替わりしたばかりの村長だったため、ガエラタに比べるとだいぶ若い。聞いた話ではヨルの神学校時代の同窓生だそうだ。この辺りは交友関係が狭くなりがちで、こういうことがよく起こるらしい。
この場にいるのは、アシュタットの行政官となった元港2の村長ディアゴ、アシュタット軍の総帥であり外交担当を暫定的に兼ねるガエラタ、現時点でアシュタット軍唯一の武将となったナミカ、財政官となったムィコーラ、天命教の代表ヨルの五人だ。ナミカの副将ファジィは、作戦立案者として現場を監督している。
「たとえ宮廷部隊を撃退しても、会食の予約がとれるだけだろう」
「繰り返し似たような懸念を伝えて申し訳ないが、クロークルに頼るのは、ヤーヌイツを戦場にするための通行手形を与えることになる。行きつく先はリズと新王、我々とクロークルによる全面戦争だ。わたしは民の信仰に生かされている者として、やはりもう一度、明確に反対を表明しておかなければならない。二十年前の繰り返しを避けるために我々は起ったはずだ。二十年前の惨劇を招来するのが我々となっては、すべてが無意味だ」
いつもの紺色僧服に身を包んだヨルが、いつもの硬い言葉遣いで、ガエラタに異を唱える。
「ああ。その可能性は否定できない。だが、リズが二か月も新王軍を放置しているのが気になる。リズは新王の独断というかたちで、クロークルとの戦端を開かせようとしているのではないか、と。どちらにせよ戦いが巻き起こるのだとすれば、せめて事態が動いたときいつでも対処できるよう、親善の使者を行き来させておく……。という形なら納得していただけるだろうか」
ヨルは机に両肘をついて手を組み、額を押し付けて、しばらくの間悩んだ様子だった。
やがて腕を机から下ろしてひとつ、頷いた。
「わかった。それがいまのところ最善の手だろう。友誼を結んでおくことに異論はない」
「戦端を開く口実にされそうなときは、もちろんあなたにも話を通させてもらう」
「幸甚の至り」
最後まで書き言葉のような硬い言葉を使ったヨルの提議も終わり、ガエラタが周りを見回す。
「もう話しておくべきことはないか?」
全員が沈黙し、沈黙を是と受け取ったガエラタは、
「まだ私は死ぬつもりはない。このヤーヌイツを必ず、馬鹿どもの手から守るつもりでいる。そのためにはまず、目の前の宮廷部隊だ。こいつらをどうにかせんことには先がない。各々の持ち場で全力を尽くしてくれ。以上だ」
「わかりました。総帥殿」
ナミカがふざけて言うと、
「お前ももっと緊張感を持て」
ガエラタがため息交じりに応えた。
「冗談ですよ、村長。うまくやってみせます」
ファジィは他の土木工作班と同様、服を着たまま、泥だらけになった身体を足から順に川へ浸していた。すでに水浴びの終わったジャオたちは、弓矢の訓練と称して、土木工作班を巻き込み川岸で賭け事を始めた。射手六人のうち、どの矢が的の中心に近く当たるか。
野盗による襲撃を撃退し全員を捕虜にしたことで、ファジィたちは実力を認められた。そのときの、十五人からなる野盗集団代表が彼女だった。ジャオはファジィと同い年で、ファジィが八人の子供を連れて放浪していたように、彼女もまた自分の弟たちを守ろうとしているうち今のような状態になってしまったという。何度も腹を割って話すうち、態度が徐々にやわらぎ、部下として働いてくれることとなった。はじめはアシュタット側の志願兵たちと距離があったけれど、こだわらない性格が幸いしてか、今ではすっかり溶け込んでいる。
ファジィは最後に髪と顔を洗って川から上がった。作業服を絞って腕や脚を振って水気を切る。石材で護岸工事が施された部分に寝転がり、陽射しに体をさらす。石まであたたかい。ジャオたちのほうでどっと場が湧いたのを横目に見てから、目を閉じた。
もし、この作戦が成功した場合、千人近い兵士たちを傷つけることになる。失敗した場合は、もっと多くの住民が苛烈な税の取り立てを受けてひどい目に遭うことになる。どちらにしても、無傷ではいられない。今はこうして笑っている連中とも、戦闘が終わればもう会えなくなっているかもしれない。
けれどそれでも新しい世界を作るためには……とまで考えたところで、盗賊村で受けた暴力の数々を思い出しそうになった。ファジィはぎゅっと拳を握り、目をつぶった。
『いったん止めるぞ』
唐突に過去の映像の奔流がゆるみ、天命石のお気楽な声がどこからか聞こえてきた。
思考に介入されるのはイシクラ村で死んだ時以来、二度目だ。頭の中に手を突っ込まれてかき混ぜられているようで、肌が粟立つ。気味が悪い。目を開けようとしたが開けられない。
ファジィは舌打ちした。なぜか喋れはするようだった。
「これ、やめろ。気持ち悪い」
『この場で石に向かって話しかけていたら気持ち悪がられるのはお前だぞ』
「じゃあ用件だけさっさと言え」
『用はない』
「はあ? ふざけんなよ」
『お前がつらそうだったから止めてやっただけだ』
虚を突かれて、続けて出そうとしていた言葉が引っ込んだ。
『それはいいとして……。お前は――ナミカもだが、どうして憎まない。他者によってそれだけの目に遭ってきて、なぜいまだ、新王の尖兵どもを傷つけることにためらい、他者の死に恐怖の情動をいだく? 新王にくみするものなどいくら殺しても構わないはずなのに。俺は新王を殺し復讐を遂げる日が少しでも早く来るよう毎日祈っているというのに……。お前たちは本当に復讐の代執行者だという自覚はあるのか』
「復讐復讐うるせえな」
意外に思ったのもつかの間、すぐにまた、普段の天命石の調子に戻った。遠慮なく言葉を吐き捨てる。
「少し、他のことにも考えを向けてみろよ。そんなことばっか考えてたら気が滅入るだろ」
『余計なお世話だ』
「そもそも、力がないない言ってるくせに、こんな化け物じみたことはどうしてできる」
『さすがに限界まで近づかなければこんな芸当はできん。今はお前の目の前の川にいる。隠れて動くには都合がいいからな』
「それを聞いて安心したよ」
『なぜだ』
「人の中身をいじくるのは失礼だって教えねえのかよ。神様とやらは」
『何を言う。お前はその記憶のせいで、繰り返し苦しんでいるようではないか。不眠すら起きている。俺がそばにいてやれば、いつでも記憶が流れ込むのを止めてやれるのに、何故拒む』
「とにかくやめろ」
『わかった。では接続を切ろう。今後も最小限にしておく』
目が開いた。身体の自由が戻ってくる。
左手をついて起き上がる。目の前の川の浅瀬を、不自然にうごめいていく石があった。
ファジィは俯き、髪を触って、舌打ちをした。立ち上がる。
浅瀬に下り、その石を両手で抱え上げる。
「ほんと言うと、さっきのは助かった。ありがとう」
ぼそりとつぶやくと、天命石は
『そうか。それはよかった』
とだけ応えた。頭の中に響いたその声はそっけなかったが、どこか嬉しそうにも聞こえた。