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こちらメリヴェール王立探偵事務所

こちらメリヴェール王立探偵事務所 ~魔法使いの殺人方程式~

作者: 恵良陸引

前回が長い話だったので、今回は短め(中編)です。

「密室でない密室殺人」なんて変則的なことに手を出しています。あまりパズル的に偏ることを避け、物語性を損なわないようにしました。単なる謎解きでなく、物語としても楽しんでいただけたら幸いです。

1


 メリヴェール王立探偵事務所に、魔法協会理事のセレスタン・レーディア卿が刺殺されたとの一報を受けたのは、数日降り続いた雨が止んだ翌朝のことだった。王都は今、『紫陽花期』と呼ばれる雨の多い季節に入っていた。この季節になると、街路樹や植え込みの草花などは生命力を注ぎ込まれたように深い緑の葉を繁らせる。雨上がりの柔らかな朝日の光を受けて、王都の緑はますます力強く輝いていた。こんな爽やかな朝に殺人事件が起きた。

 街路樹の葉から滴り落ちるしずくを避けながら、レトとメルルのふたりは現場への道を急いだ。レーディア卿は自分の屋敷で刺殺されたとのことだった。貴族の屋敷が立ち並ぶ高級住宅区にあり、事務所からはそれほど離れたところでなかったので、彼らは徒歩で向かっていた。事務所は馬車を保有していないし、馬もない。現場へ急ぐには馬車を呼べばいいのだが、探偵事務所は貧乏所帯である。倹約できるのであれば、何に対しても倹約しなければならない。わかってはいるのだが、実践する側としては辛いものがある。半分も進まないうちにメルルの口からはぼやきが漏れだしていた。

 「朝から急げって言われても、こっちは昨夜遅くまで雨の中を駆けずり回ってたのに、体力持ちませんよぉー」

 昨夜は別の事件で犯人を追いかけており、自分のベッドに潜り込めたのは日付も変わった深夜のことだった。

 「それは僕も同じだ。愚痴ってないで急ぐよ」

 レトはやや駆け足気味で先を急いでいる。肩にはいつも乗せているカラスの姿はない。アルキオネは事務所で留守番させることにしたのだ。

 「現場の屋敷まで、あとどれぐらいなんですかぁ?」

 「このぐらいの速さだと、あと10分ぐらいかな」

 メルルは「うへぇ」とうめき声ともつかない声を出した。

 事務所があるのは商業区である。それほど大きくはない建物が肩を寄せ合うように立ち並んでいる。それが急に背の低い建物がまばらになってくると、そこが高級住宅区である。レトとメルルは自分の背より高い塀を横目で見ながら路地を通り過ぎて行った。

 その高い塀が突然切れると、黒い鉄柵に囲まれた森が現れた。

 「グラン・パシェ公園だ。あともう少しだよ」レトはメルルを振り返った。

 だいぶ疲れを感じていたメルルは、それで気を楽にすることができなかった。

 「もう少し、なんですよね。着いた、じゃなく……」

 うんざり顔のメルルはどんとレトの背中にぶつかった。レトが急に立ち止まったのである。

 「痛ぁい。いったいどうしたんですか、急に」メルルは鼻を押さえながら文句を言った。

 「何かあったみたいだ」レトは公園の奥をのぞいている。メルルもつられるようにレトと同じ方角に目をこらした。

 数名の軍服姿の男たちが公園内をあちこち小走りで走り回っている。軍服は憲兵のものだ。

 「こっちで何か事件ですかねぇ」メルルは首をかしげた。

 「ここからは見えないけど、レーディア卿の屋敷はこの森の向こうだ。ここの騒ぎと関連があるのかわからないけど、まず僕たちは屋敷の方へ急ごう」

 「そうですね」

 状況は気になったが、ふたりは公園の前を通り過ぎ、レーディア卿の屋敷へ向かった。公園の柵が切れると、背の高い塀に囲まれた屋敷が現れた。そこがレーディア卿の屋敷だった。門の前には数名の憲兵が立っていた。

 「メリヴェール探偵事務所のレトとメルルです。捜査に参りました」

 レトが憲兵のひとりに伝えると、彼はさっと敬礼してふたりを通した。

 「広いお屋敷ですねぇ」メルルはきょろきょろしながらつぶやいた。門から玄関までは大きな石畳が敷かれた小道が続いていた。道の両脇は一面の芝生になっている。犬でもいたら、喜び勇んで駆け回ることだろう。樹木類は塀のそばに固まって植えられている。背の高さから見て、何世代も前から生えているもののようだ。

 「レーディア家はマーリン時代から続く、魔法使いの名門だからね。しかも、貴族としても名門だって言われているんだ」

 「魔法使いとしても、貴族としても名門ですか。そんな家柄のひともいるんですねぇ」

 ふたりが玄関に立つと、大扉がさっと両側に開いた。中には白髪頭の老人が紳士服姿で立っている。

 「レーディア家で執事を務めさせていただいております、ベネディクトと申します」老人は慇懃に頭を下げる。

 「僭越ながらご案内申し上げます」

 執事はくるりと向きを変えると、正面の大階段へ進み始めた。老人に見えるが、背が高く大股できびきびと歩く。ふたりは遅れまいと後を追った。

 2階に上がると左右に分かれて廊下が続いている。執事は右手を示すと右へ曲がる。後に続くと左右にいくつか扉が見えるうちの一番奥側で、数名の憲兵が立っていた。憲兵はレトたちの姿を認めると、サッと敬礼した。

 「探偵事務所のレトとメルルです。現場はこちらですか?」

 レトが憲兵のひとりに尋ねた。

 「ええ、こちらの部屋です。被害者はセレスタン・レーディア卿。検死官からの正式見解はまだですが、ナイフによる刺殺とみられています」

 レトは部屋に足を踏み入れた。レーディア卿の部屋は角部屋にあたり、正面と左手にある大きな窓から朝日が差し込んでいる。部屋はかなり広いが、調度品は少ない。大きな机と椅子、小さな棚と丸テーブルがある程度だった。

 レーディア卿は左手の窓から少し離れた丸テーブルの脇に倒れていた。仰向けに寝かされており、胸が真っ赤に染まっていた。傍らに置かれているナイフが凶器らしい。刃先が朱に染まっていた。そばには検死官のコジャック医師がレーディア卿の上にかがみこんでいた。コジャック医師はふたりの姿を認めると、軽くうなずいて見せた。

 「よう、おふたりさん。あと少しでひととおり調べ終わるよ」

 「おはようございます、コジャックさん。朝早くからお疲れ様です」

 「なぁに、事件ってのは時間を選ばんからな」

 レトは近くの憲兵に声を掛けた。

 「事件発生までの経緯を教えて下さい」

 「午前8時前、朝食の途中から席を外したレーディア卿が戻ってこられないと、執事がレーディア卿の自室へ確認に向かいました。扉にノックをしたが返事がなく、しかも、鍵が掛かっていました。室内で意識を失われることが起きたのではと、執事はメイドを呼び、ふたりで解錠して部屋に入りました……」

 「鍵を開けるのにメイドとふたりで?」メルルが不思議そうにつぶやいた。

 「扉は魔法仕掛けで、魔法使いひとりでは開けられない術が掛けられているのだそうです」

 「……と、いうことは、執事さんもメイドさんも魔法が使えるってことですか?」

 「左様でございます」執事がうなずいて答えた。「魔法を習得しておくことは、ここ、レーディア家に勤めるものの義務でございます」

 メルルは目を丸くした。「働いているひとも魔法使いなんですか」

 「レーディア家は魔導士マーリンの三大弟子、アレイスターの末裔でございます。ここに勤めるのであれば、この家格に相応しい者でなければならないのです」

 「部屋に入ったとき、レーディア卿はここに倒れていたのですか?」

 レトはメルルの頭を押さえて話題を変えた。

 「はい、旦那様は今おられる場所に倒れていらっしゃいました。胸にはナイフが刺さっているのが見えました。私がおそばに駆け寄り、ナイフを引き抜き、メイドに階下におられるザビーネ様をお呼びするよう指示いたしました。ザビーネ様がお見えになるまで、私が知りうる回復魔法を掛け続けて参りましたが、旦那様の意識はお戻りになりませんでした。すぐザビーネ様がお見えになって、状況を知るや回復呪文を唱えていただきましたが、こちらも及ばず、旦那様をお救いすることが叶いませんでした」

 「そのあとはどうされましたか?」

 「メイドに指示し、憲兵の方をお呼びするようにいたしました。以降は憲兵の方がお見えになるまで、この部屋は私とザビーネ様、あと昨夜お屋敷に宿泊されていたほかのお客様とともに待機しておりました。憲兵の方々が参られてからは、私たちは階下の大広間に下がったのでございます」

 「じゃあ、このナイフはレーディア卿の胸から抜き取った後、ずっとここにあったわけですね」

 レトは床に置かれたナイフにかがみこんだ。ポケットから銀色の腕輪を取り出し、左腕にはめると、左手をナイフにかざした。ナイフが輝くと円形の魔法陣が浮かび上がる。

 「これは何と……」執事が驚きの声を上げた。

 「レトさん、この腕輪は」

 「そう、ヴィクトリアさんから借りた魔法陣の解析道具だよ。ヴィクトリアさんみたいに詳しく解析は出来ないけど、魔法の術式が埋め込まれているかどうかは僕でも調べられる」

 「ナイフに魔法陣が浮かんでいますが……」メルルが恐る恐る顔を近づけた。

 「そう」レトはうなずいた。

 「このナイフには魔法が掛けられている」

 「ほう、解析魔法が使えるのかね」横からコジャック医師がのぞきこんだ。

 「僕ができるのはここまでです」レトは魔法を解いた。ナイフに浮かび上がった魔法陣が消える。

 「このナイフは事務所に持ち帰り、ヴィクトリアさんに詳しく解析してもらいます。なまじ変にいじくって、ナイフに仕掛けられた術が起動したら大変ですから。それで、先生。検死の結果はいかがでしたか?」

 「まぁ、死亡時刻は午前7時半頃。死因はナイフによる失血死ってところだな。心の臓は外れているが、近くの動脈をやられていた。攻撃は1回きり。まさに一突きだ。しかし、君の見立てだと……」

 「ええ。レーディア卿は犯人に直接刺されたのではなくて、魔法で操作されたナイフが宙を飛んでレーディア卿に刺さった、と見ています」

 「じゃあ、これって密室殺人じゃないんですね?」メルルは部屋を見渡した。

 「被害者がこの部屋でひとりきりだったこと。扉には鍵が掛かっていたこと。そういう意味では密室殺人だよ。ただ、魔法のおかげで不可能犯罪じゃないってことだね」

 「このナイフはどこから飛んできたのでしょうか?」

 「あの、横から失礼を致します」

 執事が頭を下げた。

 「そのナイフは旦那様のものでございます」

 「レーディア卿の?」

 「はい、日頃はあちらの壁に飾っておられるものでございます」

 レトたちは執事が指し示す壁に目をやった。出入口の扉がある壁にはレーディア卿所有の武具が飾られていた。短剣や細身の剣など種類はさまざまで、いずれも金具で引っかけて留められていた。その中で一箇所だけ、留め金だけのところがある。

 「では、このナイフは元々、今空いているところに飾ってあったものなのですね?」

 「はい。そちらの探偵の方がご確認されたとおり、そのナイフは魔法を仕込むことができるものでして、旦那様のお気に入りのひとつでもございました」

 レトは立ち上がると、ナイフの飾ってあった壁に歩み寄った。留め金に顔を寄せて、じっと見つめている。

 「レトさん、何かありましたか?」メルルもレトの隣に立つと、金具の様子を観察した。

 「この留め金のひとつが壁から外れかかっている。まるで横からナイフを取ろうとしたように」

 「ナイフを取り上げるなら、下から上に持ち上げて留め金から外すだけでいいわけですよね。わざわざ力任せに奪い取るようなことをしてるんですか?」

 「いや。ナイフはこの位置から、矢のようにレーディア卿めがけて飛んだんだよ。そのとき、一部の留め金が壁から外れそうになったんだ」

 レトはレーディア卿が倒れている床を振り返った。

 「誰かがレーディア卿を狙うようにナイフに矢のように飛ぶ術式を組み込んだのですね?」メルルはこわごわとナイフから後ずさりした。ナイフは床の上で大人しく横たわったままだ。

 「そうだね。これは魔法仕掛けの殺人事件だ」

 レトの口調にメルルはレトの顔を見上げた。レトは明らかに渋い表情だった。


2


 レトとメルルは執事の案内で階下の大広間へ向かった。事件発生時に屋敷に居た者すべてが1階の大広間に集められているからだった。執事は慇懃に大扉を開けると、天井の高い部屋が広がっていた。

 大広間には5名の男女がひとりをのぞき、大きなテーブルを囲むように座っていた。立っている女性はメイド服姿だった。

 「こちらが本日、当屋敷に居られた皆様でございます」執事は頭を下げた。

 「ベネディクトさん、ご苦労様です。あなたもモーラの横で控えてください」

 声を掛けたのは、テーブルの一番端に座っていた若い女だった。年齢は20歳ぐらいか。金髪の長い髪をきれいに櫛とかして、左耳から胸の前に垂らしている。女は立ち上がると、

 「当主セレスタン・レーディアの娘、キャロリンと申します」と名乗った。

 「このたびは……」レトは頭を下げた。

 「いいえ。これから尋問を始められるのですよね? お聞きしたいことは何でしょうか?」

 レトは一歩前へ進み出た。

 「順にお尋ねしたいと思います。まず、皆さんのお名前をお聞かせください。それと、本日は何の集まりでここに来られているのかを」

 「では私から自己紹介しましょう」先に口を開いたのはキャロリンの隣に座っている若い男だった。短い口ひげを生やしている。

 「私の名前はテレンス・ギダーと申します。魔法協会の委員です。もっとも、委員になったのは先月の終わりごろという新人の委員ですが」

 ギダーそう言いながら会釈すると、今度は向かいに座る大柄な女性が胸に手を当てて話し出した。首周りの肉も分厚く、肩から顔が盛り上がっているように見える。

 「次は私ね。私はザビーネと申します。魔法協会の出資者ですわ。今でこそいくつかの商会を束ねる仕事に就いていますが、もともとは王立魔法学院で魔法を教えていましたの。得意科目は回復系でしたわ。結婚を機に教師は辞めましたが、支援の形で魔法学院や魔法協会と関りを持っていますのよ」

 ザビーネ夫人が話し終えると、その隣の男が口を開いた。座っていてもわかるほど背が高く、顔が細長い男だった。

 「ぼくはガネル・ロウフィールド。父が、こちらのザビーネ夫人とともに魔法協会の出資をしている関係で、レーディア卿のお屋敷を訪ねることがしばしばあります。今日も、いや、昨夜も父が仕事の関係でうかがえないので、ぼくが父の代理で来ているんです」

 「それから、こちらに控えていますのが、執事のベネディクト。隣のメイドがモーラです。本日、この屋敷にいたのは、父を除き、以上で全てです」

 最後はキャロリンが紹介をまとめた。

 「そして、何の集まりなのかとお尋ねでしたね。昨夜は、父が久しぶりに協会の方々をおもてなししたいと申して、晩餐会を開いたのです。急な集まりでしたが、それでも3人の皆さんにお越しいただき、会を開いたわけです」

 「こちらでは晩餐会はよく催されるのですか?」

 キャロリンは首を振った。

 「いいえ。貴族の中には毎晩のように晩餐会を開かれる方もおられるようですが、レーディア家は晩餐会などにはあまり積極的ではございません。ただ、全くしないわけでもないのです」

 「屋敷にはこれで全員ということですが、料理はどなたが?」

 「晩餐に関しては本職の料理人に来ていただき、料理をお願いしました。普段の食事や、今朝の朝食は私とモーラのふたりで用意しております」

 「住み込みの料理人はいないのですね?」

 「経済的には雇うことはできますが、父はあまり食に執着心がありませんので、私やモーラの料理で十分なのです。料理以外でしたら、父も割と自分で何でもできるひとなので、執事もメイドも最低限の人数がいれば足りるのです。それで、屋敷にいるのはこのふたりだけなのです」

 「そうですか。では、次の質問に進みます。事件の詳細について確認させてください。お尋ねしたいのは、細かな事件の経緯です。たとえば、レーディア卿が2階の自室に向かわれた事情など、ご存知の範囲でお聞きしたいのですが」

 座っている者たちは無言でお互いを見やった。中には目が合ったもの同士で首を左右に振っている。やがて、ギダ―がレトに顔を向けると、困惑した表情で応えた。落ち着かない様子で、短い口ひげを撫でまわしている。

 「実は、我々もよくわからないのです。我々は晩餐会をともにし、こちらで一泊させていただきました。そして、今朝、レーディア卿とともに朝食を摂っていたのですが、何か用を思い出したとかで途中で席を立たれたんです。レーディア卿はなかなか戻ってこられないので、我々は先に朝食をすませ、この大広間で食後のお茶をいただいておりました。そこへメイドが駆け下りてきて、レーディア卿が大けがをされていると知らせに来たのです」

 「申し訳ありませんが、具体的な時間も教えていただけますか? 食事はいつ摂られて、レーディア卿はいつ席を外されたのですか?」

 「そうですね……。朝食は7時過ぎ頃かと思います。7時ちょうどは全員揃っていなかったので、揃うまで少し座って待っていた時間がありましたから。レーディア卿が席を外したのは7時半の少し前あたりかと。メイドが急を知らせに来たのが8時過ぎ頃だと思います」

 そこへザビーネ夫人が口を挟んだ。

 「こちらに控えているモーラの知らせを聞きまして、私たちはすぐ2階のレーディア卿の部屋へ参りましたの。レーディア卿の様子を見て、私が知り得る限りの回復魔法を唱えましたが、傷は思った以上に深く、お助けすることができませんでしたわ」

 説明を終えると、ザビーネ夫人は少し俯いた。レーディア卿を悼むような表情だ。

 「確認ですが、レーディア卿が2階に上がられたとき、皆さんはこちらにおられたのですか? 2階に上がった方はおられないんですか?」

 「誰も上がっておりません。ぼくたちは全員ここに揃っていました」

 ロウフィールドが手を振って否定した。

 「途中、誰かが席を立ったとかはないのですか?」

 「うーん、覚えている限りは。もちろん、この部屋からは大階段が見えませんので、誰かがこっそり2階に上がったとしても気付かなかったでしょうが」

 2階へ通じる大階段は大広間を出て、玄関側へ回らなければならない。誰かが2階へ上がったかどうかの証言は得られなくても当然だ。

 「皆さんも同じですか?」レトの問いかけに、ほかの者はあいまいにうなずいただけだった。

 「それは確かだと思います」

 声のしたほうを見ると、ベネディクトが一歩前に踏み出して立っていた。

 「私は大広間の大扉の前で、旦那様のお戻りをお待ちしておりました。大広間は階段へ通じる大扉と、食堂へ通じる扉の2箇所がありますが、こちらからはどなたも出入りされませんでした」

 「では、食堂側から出入りした方は?」

 「それは私とお嬢様だけでございます」

 今度はメイドが前へ進み出て答えた。モーラという名のメイドはキャロリンと同い年ぐらいの若い女性に見えた。キャロリンがやや背が高いのに対し、モーラは小柄で華奢な印象だった。

 「私は食堂のさらに向こう側にある厨房で洗い物をしておりました。そこへお嬢様がおいでになり、お客様にお茶をご用意するよう仰せつかりました。お嬢様はすぐ戻られていきましたので、2階に向かわれていないのは確かでございます」

 「そうですか、ありがとうございます。キャロリンさんは一応、席を立ったことになるのですね?」

 「席を立ったと申しましても、モーラの申す通り、厨房に顔を出してすぐ戻ったぐらいのものですわ。1分も経っていない話です」

 キャロリンは静かに答えた。

 レトは顎をつまむようにして考え込んだ。レーディア卿がナイフに刺された頃、全員が2階に上がっていないのは間違いないと見ていいだろう。なぜなら、ナイフには魔法の術式が埋め込まれていた。遠隔操作でレーディア卿を刺したのであれば、わざわざ2階に上がる必要はない。しかし……。

 「申し上げます」

 遠くから声がして、その場に居た全員が声のしたほうを向いた。大広間の大扉が開いており、ひとりの憲兵が敬礼した姿勢で直立している。

 「何ですか?」レトが尋ねた。

 「隣の公園で爆発騒ぎがあったようでして」

 「爆発騒ぎ?」レトはメルルと顔を見合わせた。ここへ来る途中で見かけた兵士の姿は、その騒ぎのせいで集まった者なのだ。

 「現場の近くに男がひとりいたのですが、その男が申すには、こちらを訪ねる途中だったとのことなのです。今、別の憲兵隊員が事件の捜査をしているのですが、男の話が本当か、身元確認と合わせて行いたいとのことなのです」

 「まさか、あのひとが?」キャロリンが口もとに手を当ててつぶやいた。

 「あのひと?」レトが詳しく尋ねようとしたときに、大扉からふたりの男が現れた。ひとりはいかにも屈強そうな憲兵で、かたわらの男の二の腕をつかんでいる。腕をつかまれている男は嫌がる様子も痛がる様子も見せず、淡々とした表情で立っていた。男は大広間に集まっている人々を見回し、キャロリンと目が合うと、弱々しく笑みを浮かべた。

 「やぁ、キャロリン」

 男はそっと手を挙げてあいさつした。キャロリンは目を見張った。

 「アントン! どうしたの、あなた。何があったの?」


3


 アントンと呼ばれた男はキャロリンに案内されるように、大広間へ入っていった。アントンを連れてきた憲兵は身元が確認できると、アントンを置いて引き下がった。後日、また事情を聞きたいとのことだ。

 アントンは空いた席に腰を下ろすと、ふうと大きなため息を吐いた。しばらく声を出すのも億劫なようでひと言も発しない。

 「すみません、こちらの方は?」

 レトは遠慮がちに尋ねた。キャロリンはアントンの方に自分の手をかけて心配そうに顔をのぞき込んでいる。レトの質問に答える様子はない

 「アントン・ラッド。王立魔法学院の院生ですよ」

 見かねたようにギダーが代わりに答えた。

 「魔法学院の……」

 「優秀な男ですよ。魔法学院の首席ですから」

 メルルは思わずアントンの顔を見つめた。将来目指すところの首席に会ったからだ。

 「ギダーさんは僕を優秀とおっしゃいますが、先生は僕のことを取るに足らない者だと思っていますよ」

 アントンは手をひらひらさせて言った。表情から見て、謙遜で言っているわけでもなさそうだ。

 「アントン、説明して。あなたは何に巻き込まれたの?」キャロリンがアントンに掛けた手に力を込めて尋ねる。アントンはキャロリンに微笑みかけると、そっとキャロリンの手を外した。

 「なに、変な出来事に巻き込まれただけさ。公園の中心にある石像の頭部が爆発したんだそうだ。僕はその頃、公園の前を走っていたんだけど、爆発音に驚いて、そこへ駆けつけただけさ。ただ、ほかに目撃者もいなかったので、憲兵に根掘り葉掘り突っ込まれたんだ」

 「公園の石像って、中心にある大きな石像のこと?」キャロリンが尋ねると、アントンはゆっくりとうなずいた。「ああ、そうだよ。あの石像さ」

 「爆発の様子は目撃していないんですか?」レトが尋ねると、アントンはびくっと身体を震わせた。

 「え、ええ。僕はたまたま公園の前を通りかかっただけで、あそこに入る予定はなかったので……」

 アントンはそう言いかけると、初めて顔を上げてレトの顔を見つめた。

 「自分のことで気が回らなかったけど、あなたはどなたですか? ここで何をされているんです?」

 アントンは続けてキャロリンの顔を見つめた。「キャロリン?」

 キャロリンは顔をそむけて答えた。「父が死んだの、アントン」

 アントンは驚いたように席から勢いよく立ち上がった。さきほどまで疲れた様子だったのが嘘のようだ。

 「先生が亡くなった? どうして? いや、ここにも憲兵がいたが……。ま、まさか」

 「レーディア卿は何者かに刺されて亡くなった。2階の書斎でだ」ギダーが説明した。

 「せ、先生を刺した相手はわかっているんですか? そいつはもう捕まっているんですか?」アントンはうろたえた声だ。

 「さっき言っただろ? 何者かに刺されたって。それでこちらの探偵さんが憲兵と一緒に事件を調べているんだ」

 「探偵が……」

 そこでレトは自分の胸に手を当てて自己紹介した。

 「メリヴェール王立探偵事務所のレトと申します。そして、こちらはメルルです」

 「メルルです。よろしくです、ラッドさん」メルルは会釈した。

 「え、ええ。よろしく……」アントンはあいまいに挨拶を返すと、

 「……それで、教えていただけますか? 先生はいつ殺されたんですか?」

 不安を隠せない声で尋ねた。

 「今朝の7時半から8時頃の間です。ところで、ラッドさん。あなたは7時半頃、こちらに向かう途中だったのですか?」

 レトの質問に、アントンは顔を伏せて「はい」と小声で答えた。

 「公園で爆発音を聞いたのはいつ頃ですか?」

 「……その7時半頃です。爆発のあった公園には、外からも見える時計台がありました。僕はその時計を見たので、だいたい正確だと思います」

 レトはメルルに顔を向けた。

 「君は公園の前を通りかかったとき、時計があるのに気付いていたかい?」

 メルルは首を振った。「いいえ、時計があったことに気付きませんでした」

 「そりゃ、そうです。公園で爆発があったとき、爆風が時計台を壊したんです。今でしたら、公園の時計は元あった台座の下に落ちています。僕が見たのは落ちていた時計のことです」

 レトは大広間を見渡して、席についている人々に声をかけた。

 「皆さん、7時半頃に何かの爆発音を聞いた方はいらっしゃいますか?」

 すると、全員が自信無げに手を挙げる。

 「たぶん聞いたと思います」ガネルが代表するように答えた。

 「たぶん、ですか?」

 「私からご説明申し上げます」ベネディクトが進み出てきた。

 「この屋敷はかつて大広間で舞踏会など催したりしておりました。演奏が騒音となって、ご近所の方々にご迷惑をおかけしないよう、壁に防音材を埋め込んであるのです。おかげで外からの騒音もあまり漏れ聞こえることがなくなっているのです」

 「たしかにレーディア卿が2階にあがって間もなく、遠くでどーんという音が聞こえた気がしたね。ただ、あまり大きい音ではなかったので、こちらは気にも留めなかったんだ。さっき、爆発騒ぎの話を聞いて、ようやくあれがそうだったのかなと思い出したところだよ」

 ギダーが付け加えるように答えた。

 「たしかに、遠くで花火が打ち上げられたような感じの音でしたわ。私、何かの聞き違いかと思って、同席されている皆さんの顔を見たのですけど、どなたも気付いているふうでなかったので、勘違いなのだろうと思ったのですわ」

 ザビーネ夫人の答えに、キャロリンもうなずいた。「私も同じです」

 レトもこれ以上、爆発騒ぎの件で屋敷の者に尋ねるのはあきらめた。

 「ラッドさん。爆発はあなたが公園の前を通りかかったときに目撃したということなのですね?」

 アントンは顔を伏せたままうなずいた。

 「目撃された後、あなたはどうされたんですか?」

 「……何も。公園に駆け込んで、頭が吹き飛んだ石像の前で呆然と立っていただけです。そこへ騒ぎを聞きつけた憲兵の方々に尋問されていたのです。あそこには僕だけしかいなかったから怪しまれたんですね」

 「アントン……」キャロリンは沈痛な表情でつぶやいた。

 「君はさっきから爆発事件のほうを尋ねているが、レーディア卿の事件と何か関係あるのかい?」

 ギダーがしかめ面で尋ねた。捜査の方向が見えないレトの行動に不審の念を抱いたようだった。

 「レーディア卿の事件と何か関連があるのかはわかりません。ですが、こんなそばでこうも事件が重なるのが偶然なのか、確認するべきだと考えています。何せ、レーディア卿がどのように攻撃されたのか僕たちはわかっていないからです」

 「誰かがナイフで刺したのでしょう? どうやって攻撃したかなんて明らかじゃないですか」

 レトは首を振った。

 「そこが一番の疑問点なんです。レーディア卿の部屋は誰も入ってこられないよう鍵がかけられていました。開けるためにはふたりの魔法使いが必要になります。聞く限りでは複数同時に席を外した方はいません。あの部屋に入った者がいるのか、まずそこが問題です」

 「私はあのナイフを見ています。あれは魔法の術式が埋め込むことのできる、魔法使いが使用するナイフですよ。あれならレーディア卿の部屋にいなくても、魔法で飛ばして卿を攻撃することはできるでしょう? どこが問題になりますか?」

 「なるほど、それで一番の疑問点になるのですね」ザビーネ夫人は得心がいったようにうなずいた。

 「どういうことです?」

 ロウフィールドは理解できない表情で尋ねた。かたわらでギダーもうなずく。

 ザビーネ夫人はやや上体をそらした。若者ふたりより先に気付けたことで、少し得意になっているようだった。

 「探偵さんはこう言いたいと思うのですわ。『レーディア卿の姿を見ることができないのに、犯人はどうやってナイフを操作して、レーディア卿を狙うことができたのか』ですわね?」

 

4


 「つまり、ナイフの遠隔操作にも必要条件があるってことさ」

 事情聴取をひと通り終え、ふたりは事務所に戻っていた。事件の関係者は一旦解放され、それぞれが当日予定されていた行先へと去っていき、レーディア家のひとびとは当日の予定をすべて白紙にして、レーディア卿死去にともなう事後処理に追われることになった。

 メルルはザビーネ夫人が言ったことの意味をレトに尋ねたかったが、機会がなかなか得られなかった。周囲の者はザビーネ夫人のひと言に納得したように互いにうなずきあっていたので、意味がわからなかったメルルだけがすっかり置いてけぼりになっていたのである。あのやり取りは魔法の知識がある者には明らかな話のようだが、魔法の修業期間が短かったメルルにはちんぷんかんぷんだった。しかし、自分がなまじ魔法使いの格好をしているので、自分だけわからないなどとは言いにくい。それで事務所に戻るや、メルルはレトにザビーネ夫人の発言の意味を尋ねたところ、レトは先ほどの回答を返したのである。

 「この羽ペンで説明してみようか」

 レトはペン立てに挿してあったペンを取り上げると、ペンを指さして見せた。

 「この羽ペンは魔法の伝導効率が高い。魔法道具の代わりに使えるんだ」

 「へぇええ」メルルはペンに顔を寄せた。見た目では何の変哲もない羽ペンだ。

 「まず、これに『物体移動』の術式を仕込んでおく。そうしないとペンは浮かせられない」

 レトはペンを机の上に乗せると、左手をペンの上にかざした。ペンの上に小さな魔法陣が浮かび上がると、それはペンに吸収されるように消えていく。すると、ペンはふわりと音もなく浮き上がった。

 「あ、浮いた」

 「これをレーディア卿を刺したナイフだとする」レトはそう言いながら左手をくるっと回した。すると、ペンはその先端をメルルのほうに向けた。

 「そして、こうだ」

 レトが左手の手のひらをメルルに指し示すと、ペンはするするとすべるようにメルルに向かって移動して、メルルの心臓の位置辺りにコンと当たると下に落ちた。メルルは目を見張った。「レトさん、こんな魔法も使えるんですか!」

 「物体移動の魔法は高度で、魔力の制御も難しい。僕にできるのは羽ペン程度の軽いもので精いっぱいだよ。実用的には使えないね」

 「そうなんですか」

 「僕がやってみせたのは、ペンを手でかざして制御するやり方。この魔法の発動条件は『対象を視認していること、また、座標関係を意識下で把握していること』なんだ」

 「発動条件?」

 「魔法には目をつむっても使用できるものがあるけれど、ある条件を満たさないと使用できない魔法もある。『物体移動の魔法』もそのひとつ。これは動かしたい対象物を目で見て、脳内で位置や形状を把握し、どの位置座標に移動させるか想像できなければならない。ただ、脳内ですべてを想像だけで制御するのは相当難しい。それで、対象のすぐそばで手をかざして自分が把握しやすい距離をとることで、制御の難易度を下げるんだ。自分の手だと、距離をとるのは簡単だろ?」

 「……でも、さっきからペンに手をかざしてますけど、ペンは浮いてくれないんですけど」

 メルルは目の前に落ちたペンに自分の手をかざしながら抗議した。机の上のペンはゆらりとも動かず、静かに横たわっている。

 「必要な呪文を唱えていないからだろ」

 「あ、そうか……って、レトさん、さっき呪文唱えてました?」

 「唱えていたよ。君の耳に聞こえないぐらいの小声でね」

 嘘だ、とメルルは思ったが、それを指摘しようとは思わなかった。それより、魔法の仕組みの話が聞きたかったからである。

 「それで、レトさん。ザビーネさんが言ったのは、魔法のナイフを飛ばしてレーディア卿を刺そうとするなら……」

 「そう、犯人はどこで『レーディア卿を視認できたのか』ということなんだ」

 レトは机の上のペンを取り上げると、それを目の高さまで持ち上げた。

 「僕はこのペンをしっかり『視認』して、どの位置にあるか具体的な座標を頭の中に描くことができていた。そして、飛ばす先の座標位置も視認して、頭の中で設定できた。だから、このペンを飛ばすことができたんだ。これを魔法ではなく、物を投げる行為に置き換えてみるといい。このペンを君めがけて飛ばすのであれば、どの位置から構えて、どの方向に飛ばすか、頭の中で考えながら投げないと、君に当てることなんてできないだろう。もっとも、実際に狙って投げても、なかなか命中させるのは難しいんだけどね。魔法で操作するとなると、なおさらだ」

 「そっか、投げる行為を魔法に換えるって考えれば、その難しさはわかります。私もゴミをクズ箱に放り投げても、うまく入らないことのほうが多いですから」

 メルルは論点がわかり始めていた。

 「レーディア卿は鍵のかかった部屋にひとりでいた。扉や壁にのぞき窓なんてなかった。だから、犯人はどこでレーディア卿の姿を確認して、ナイフを操作したのかってことになるんですね? 見えない位置からだと、レーディア卿にナイフを当てることすらできないはずだから」

 「君は覚えているかい? レーディア卿の部屋は東側と南側に大きな窓があったけど、外からのぞけるような物、たとえば樹木などが近くに生えていなかったことを。庭木の類はあったけど、いずれも屋敷から離れた周囲の塀側に生えているだけで、屋敷の周囲は広々としていただろ?」

 「覚えています。窓の近くに何もないので、日当たりのいいお屋敷なんだろうなって思いましたから」

 メルルはそう答えて、

 「レトさんがあれからレーディア卿の部屋の窓を開けて調べていたのは、2階の窓に誰かが潜んでいたのか、その痕跡がないか調べてたんですね?」

 「あるいはそういうことが可能なのかってことをね。結論から言えば無理だ。窓の外側には足場になるような場所はないし、『はしご』のようなものをかけた形跡もなかった。窓の下は柔らかい地面で、2階まで届く何かを置いたのなら、その痕跡が残るからね。もちろん、その痕跡を消した跡もなかったことは断言できる」

 「あとは魔法で宙に浮いて、窓からのぞくって方法ですね」

 「空を飛ぶ、あるいは宙に浮かぶ。こういう魔法は研究が続けられているけれど、今のところ安定した魔法は完成していない。さっき話した『視認』と関係してくる。正確な位置に飛ぶ、または宙に浮くには、自分の位置を常に把握して、身体の位置を制御しなければならない。宙に浮かび出した時点で自分の位置座標が変化するわけだから、そのつど自分の位置情報を頭の中で更新していかなきゃならない。それってかなり煩雑で難しい。今のところ、空を飛ぶ魔法と言えば『離脱魔法イクストリケーション』があるけど、あれは自分の身体を方角だけ決めて、力任せに投げ飛ばす感覚のものだ。制御しているとは言えない類の魔法だよ。でも、あれがあるおかげで緊急時には非常に役立つけどね」

 「それに、あんなに見晴らしのいいところからのぞいていたら、レーディア卿にすぐ見つかっちゃいますもんね。レーディア卿も魔法使いですよね? 見えている相手に簡単にやられたりしない気がします」

 「レーディア卿は魔法協会の理事をされるぐらい、魔法に精通している方だ。たやすくやられるとは思えない。あれは、ナイフの攻撃が奇襲だったから成功したんだ。つまり、レーディア卿は自分の周囲に誰もいないと信じる状況にあった、ということになる」

 「だったら、あのナイフはどうやって飛ばしたんですかね? いえ、飛ばすだけなら、外の廊下でもできたんでしょうが、正確にレーディア卿を狙うなんて不可能だということですもんね」

 レトは腕を組んだ。「飛ばすだけなら、術者が近くにいる必要はないかもしれないけどね」

 「それはどういうことです?」

 「つまり、あのナイフにレーディア卿を自動的に狙う魔法術式を埋め込んでしまえば、発動条件さえ設定するだけで攻撃できるってことさ」

 「自動的に、ですか?」

 「さっき言った『離脱魔法』と同じさ。方角だけ決めて、あとは何かのきっかけにまっすぐ飛ぶ命令だけ仕込んでおく。そうすれば、術者が操作する必要はなくなる」

 「でも、それって術者がやみくもに飛ばすことと変わらないですよね? そっちの方法に何か利点でもあるんですか?」

 そこでレトはうなった。

 「うーん。今、思いついただけだから、考えとしてはまとまりきっていないけど、まず、術者が対象物を視認する必要がないことがひとつ。もうひとつは、対象を自動的に狙う術式を埋め込めれば、レーディア卿に命中させることもできるってことだな」

 「自動的に狙わせるにはどうすればいいんですか?」

 「誰かが何かの行動をすると、その行動を取った人物を対象に発動させるんだ。たとえば、部屋に入った者が何かに触れると、その人物を攻撃するように、とか。ダンジョンで宝箱を守るために仕込まれているトラップとかを想像してもらうといい。宝箱に触れると発動して攻撃する、ような」

 「ああ、なるほど」

 「でも、それも問題あるな」レトは自分の髪に手を突っ込んで、くしゃりとつかんだ。

 「問題ありますか」

 「それだと、確実にレーディア卿を狙えるかわからないってことさ。部屋に入った者を狙うのだったら、部屋の清掃でメイドが入ることや、執事が入ることが考えられる。特定の行動が発動条件になるなら、レーディア卿がその行動をするまで罠は発動しないことになる。いつ発動するかわからないし、まったく無関係の者がその行動を取ってしまったら、罠は別人を攻撃することになる」

 「でも、レーディア卿の部屋で仕込んでいるなら、ほぼレーディア卿を狙えるわけですよね?」

 「今、君自身が言ったように、あくまで『ほぼ』だ。もし、僕がレーディア卿を殺そうと考えて、魔法の罠を仕込むのであれば、より確実性の高い条件、つまり、レーディア卿だけがとりうる行動を設定するだろう。でも、レーディア卿だけがすること、言い換えれば、ほかの誰もがしない行動を想定できるだろうか?」

 「何かレーディア卿に変な癖があるとか」

 「たとえば?」

 「部屋でひとりきりになると逆立ちをするとか」

 「部屋で逆立ち?」レトが驚いたように目を見開いた。

 メルルは真っ赤になった。「レトさんが、たとえばって聞くから考えただけですよ!」

 「たしかにレーディア卿の部屋で逆立ちしようなんて、レーディア卿以外にありえないか。それはありと言えばありなのか……」

 「ありなんですか!」今度はメルルが大きな声をあげた。

 「それを可能性のひとつとして考えてみると、それにも一点だけ問題がある」

 「掘り下げるんですね、レトさんは」

 「レーディア卿がナイフの狙える位置で逆立ちするかということさ。もし、書斎机の脇や、中央テーブルの脇で逆立ちしようものなら、ナイフとレーディア卿の間に遮蔽物が存在することになる。ナイフはまっすぐ飛ぶが、遮蔽物で遮られる。それじゃあ、レーディア卿を殺せない。犯人がレーディア卿を狙うんだとすれば、レーディア卿が遮蔽物のない、あの窓際でいつも逆立ちすることを確信していなければならない」

 「……だから、逆立ちにこだわらないでください」

 「逆立ちはあくまで例だよ。それを柔軟体操に置き換えても同じことさ。せっかくメルルがわかりやすい例を出してくれたから、それで考えを深めているんだ」

 「そういう術式が埋め込まれているのか、早くナイフを解析するべきですね」

 「あのナイフには何らかの魔法術式が埋め込まれているのは間違いない。あとはヴィクトリアさんに解析してもらえれば、犯人の正体がわかるのも早いかもしれないね」

 事務所にはヴィクトリアの姿はない。ふたりがレーディア卿の屋敷から戻るより先に、ヴィクトリアはグラン・パシェ公園に向かって行ったのだ。公園で起きた爆発事件の捜査のためである。ナイフに埋め込まれた術式の検証はヴィクトリアの戻りを待ってからになる。

 「術式がわかれば、犯人はわかりますか?」メルルは少し身を乗り出した。

 「だって、術式には術者の名前が書いてあるわけじゃないんですから」

 「そうだね。犯行方法がわかっても、それで犯人が特定できるかわからないな。何せ、あの屋敷には魔法使いしかいなかったからなぁ」

 「さっき、レトさんは前もって術式を仕込んでレーディア卿を殺害した可能性を指摘しました。そうだとすると、犯行時刻の行動について、あの屋敷の方々に確認してもあまり意味がないですよね?」

 「意味はあったよ」レトは自分の頭の後ろで手を組んで、椅子の背もたれにもたれかかった。

 「どんな意味がありました?」

 「レーディア卿の行動が変だということがわかったからさ」

 「レーディア卿の行動が変?」

 「めったに晩餐を開かないレーディア卿が晩餐会を開いた。しかも、来客に宿泊を勧めるほどに。執事の口ぶりでは珍しい出来事になる。レーディア卿はなぜ、晩餐会を開いたのか。そして、来客と朝食をともにしていたにも関わらず、突然席を立った。何か用事を思い出したとか、そんな話だったけど、じゃあ、その用事っていったい何だったんだろう? わざわざ自ら招いた客をほっといてするほどの用事ってさ。まさか、君が言っていたみたいに、いきなり自室で逆立ちを始めたわけじゃないだろう。レーディア卿は自室の書斎机から離れた窓際で倒れていた。2階で何かの景色でも見るつもりだったのかい?」

 「そんなの私にわかるわけないじゃないですか」メルルはふくれ面になって答えた。レトさんはときどき意地悪な質問を投げかけてくるんだから!

 「それとも用事があったのは確かだけど、書斎に入ったとき、窓際で気になる出来事が起きたということかな?」

 そこでふたりは目を合わせた。

 「爆発事件?」

 「公園で爆発が起きた音で、レーディア卿は窓際に近づいて外をのぞいた? 魔法のナイフは窓際に近づいたレーディア卿を攻撃した? 発動条件が『窓に近づいたものを攻撃する』というものだったとかで」

 レトは首を振った。

 「いや、違う。そうだとすると、犯人は7時半頃にレーディア卿が2階の書斎に上がることを前もってわかっていなければならない。そうでないと、せっかく爆発騒ぎを起こしても、あの窓際にレーディア卿が近づくことにならない。食堂で朝食を続けていたことになるだろう。あのときのみんなと同じように」

 「らちが明かないですね、このままじゃあ」メルルは天を仰いだ。仰いだ拍子に被っていた三角帽子が床に落ちて、広いおでこが顔をのぞかせた。そこへちょうどいい足場ができたとばかりにアルキオネがばさばさと舞い降りて止まった。

 「何? アルキオネちゃん。重いんだけど」

 メルルの不機嫌な声に、アルキオネは「かぁああ」とのんびりした声で返した。


5


 「ただいまぁ……って、何、あんたたちケンカしてんの?」

 背の高い女性が事務所に入るなり、中の様子を見て目を丸くした。ヴィクトリアが帰ってきたのだ。メルルはアルキオネとつかみ合いのケンカの最中だ。アルキオネは器用に足でメルルのくしゃくしゃの髪をつかんで、それを振り払おうとする手をくちばしでつつきまくっている。

 「レト、あんたも止めなさいよ、こんなの」

 ヴィクトリアがメルルに近づいてアルキオネを捕まえようとすると、アルキオネはさっとかわして飛び立ち、レトの頭の上に舞い降りて「かぁああ」と鳴いた。

 「男が女性同士のケンカに立ち入るべきじゃないでしょ」

 レトはアルキオネを頭に乗せたまま答えた。

 「あんたは、そのカラスに甘いわねぇ」

 ヴィクトリアは呆れたように自分の机に向かうと腰を下ろした。

 「で、メルちゃんは大丈夫?」

 「大丈夫です」メルルはぶすっとして床の帽子を拾い上げた。

 「ヴィクトリアさん、グラン・パシェ公園の事件はどうでしたか? 何が爆発した事件なんですか?」

 レトはアルキオネをそっとどかしながら尋ねた。アルキオネはばさばさと部屋の片隅にある書類棚まで飛んで、そこで翼を休めた。

 「あの公園の真ん中に、『グラン・パシェ』の石像、つまり女神像があったんだけどね。あれの頭部に誰かが『爆砕魔法ブラスティング』を仕掛けたのよ。そして、頭部を爆破した。幸い、あの時間帯に公園に出入りするひとがいないおかげで、誰もケガをせずにすんでいるけどね」

 「『爆砕魔法』……ですか」レトはつぶやいた。

 「そうよ。知ってる?」

 「いいえ。僕は特殊系の魔法には通じてなくて」

 「私も知りません」帽子をかぶり直したメルルが手を挙げた。

 「『爆砕魔法』ってのはね、発動条件が特殊な魔法よ」

 ヴィクトリアはメルルの机の上の缶を取り上げると、中からビスケットを一枚取り出した。メルルのお菓子だ。

 「ちょっともらうわね」ヴィクトリアはそう言いながらビスケットを砕き始めた。

 ビスケットは大まかに五つに割れたが、ヴィクトリアは一番小さなかけらを選んで机の真ん中に置いた。残りはどうするのか見ていると、それは自分の口に放り込んでいる。

 「この小さなビスケットに魔法を仕込むわよ」

 ヴィクトリアは両手をかけらにかざすと、呪文を唱え始めた。かけらの上に小さな魔法陣が浮かび上がり、それはさらに小さくなりながら溶け込んで消えてしまった。

 「これで準備は完了。あとは爆発させる呪文を唱えるだけ」

 「発動条件が特殊とおっしゃいましたが……」レトは遠慮がちに指摘した。

 「ここからが、この魔法の特殊なところよ。この魔法はあらかじめ術式を仕込んだ対象物を『視認』したうえで呪文を唱えないと発動しないの」

 「見えていないとダメなんですか?」

 「つまり、こういうこと」

 ヴィクトリアは自分の机の上にあるティーカップをひっくり返してかけらを覆った。それにより、ビスケットのかけらは誰からも見ることができなくなった。

 ヴィクトリアはカップを見つめながら、呪文を唱えだした。やがて、「『爆砕魔法ブラスティング』!」と唱えて手をカップにかざした。カップは何の反応も見せず、ひっくり返ったままだった。

 「何も起きませんねぇ」メルルがカップに顔を近づけながらつぶやいた。

 「この魔法に『距離』は関係ないの。必要なのは『見えているかどうか』という点なの」

 ヴィクトリアはカップを持ち上げて、かけらが見えるようにすると立ち上がった。そのまま奥の会議室の入り口まで歩くと振り返った。

 「あなたたちもちょっとそこから離れて」ヴィクトリアの指示に、ふたりも席を立った。メルルはヴィクトリアの隣に立つと、ヴィクトリアの机の上に目をやった。

 比較的こぎれいに片付けられた机の上の真ん中に、ビスケットのかけらが小さく見える。

 「じゃあ、今から呪文を唱えるけど、聞こえないぐらいの小声でやってみるわよ」

 ヴィクトリアは手を挙げてレトに伝えた。レトはヴィクトリアの机を挟んでふたりから遠く離れたところに立っていたのだ。レトも手を挙げて「お願いします」と応じた。

 ヴィクトリアは再び自分の机を見つめながら呪文を唱え始めた。口の中でつぶやくように囁いている。すぐ隣で立っているメルルにも聞き取れないぐらいだった。そのせいで、いつ呪文を唱え終えたのかわからなかった。

 突然、机の上のかけらが「パンッ」と破裂するような音を立てて煙が立ち昇った。メルルはびくっと身体を震わせた。思った以上に音が大きかったのだ。

 机の上の煙はすぐに消えた。レトは机の上を見たが、ビスケットのかけらは粉々になって完全に消え去っていた。

 「これが『爆砕魔法』よ」

 「対象に呪文が届かなくても発動するのですか?」

 「それがこの魔法の特徴ね。もともと工事現場で使えるようにするのが目的で開発された魔法だったの。たとえば、人の手でどかすのが困難な大岩を破壊するためとか。開発の条件が『離れた場所』、すなわち呪文が届かない場所からも発動させられることだったのね」

 「さっき、ヴィクトリアさんは僕の耳に聞こえないぐらい小さな声で呪文を唱えてみせたのは、対象物が見える限り、『声』は関係ないことを示すためだったんですね」

 ヴィクトリアはうなずいた。

 「本来、魔法の発現には『声』って大事な要素なの。だって、呪文を通じて、魔法は発現するものだから。でも、研究が進むにつれて、呪文は絶対的な要素でもないことがわかってきた。大事なのは、私たちの頭の中で具体的な魔法の姿を描くことができるかってことなの」

 「呪文は、頭の中で魔法を具体化させる助けとして、必要不可欠だと思われたんですね。一種の媒介ですね」

 「そういうこと。それがわかったおかげで、この魔法は完成された。この魔法は、あらかじめ術式を仕込んだ対象物を視認さえできれば、理論上、有効距離が無限で発動できるわけ。それが、あの公園で仕掛けられていたのよ」

 「石像を破壊した犯人は近くに居なかったかもしれないということですか?」

 レトが気付いたように尋ねた。

 「おかげで犯人の特定はおろか、どこから爆砕させたのかもわからないまま。公園の石像はけっこう大きいものだったの。通常の建物の2階分以上はあったそうよ。公園は木々に囲まれているけど、場所によっては公園の外からも頭部は見えていたんだって」

 「犯人は公園内にいたとは限らない、ということですか」

 メルルはそう言いながら、「でも、なんでそういうことをしたんですかね」と続けた。

 「知らないわよ、そんなの。どっかのバカが新しく覚えた魔法を試したくなったんじゃないの」

 ヴィクトリアは不機嫌そうな声で答えた。

 「しかし、ヴィクトリアさんは、あの爆破事件が『爆砕魔法ブラスティング』によるものだとよくわかりましたね。あれだと術式も粉々になって、魔法の痕跡もなかったでしょうに」

 レトは机の上を指でなぞりながら言った。ビスケットのかけらは完全に消え去っていて、そこには魔法を仕掛けられたビスケットが存在したことを示すものは見当たらない。

 「あれが魔法によるものだというのはすぐにわかったわ。火薬や薬品によるものだと、焦げ跡や火薬などの匂いが残っているから。でも、あの現場にはそんな痕跡はひとつもなかった。それとあの石像の壊れ方ね。あの石像の頭部は内部から破裂するように壊れていた。たとえば『火炎剛球インフェルノ』のような攻撃魔法をぶつけたのなら、内部からではなく、外側から破壊された痕跡が残るはずよ。つまり、石像そのものに爆発する術式が仕込まれていたと考えられるわけ。あとは、どんな魔法がそれを可能にするか、消去法で推定できたわ」

 「さすが、ヴィクトリアさん。ほかのひとじゃ、そんなところまで分析できませんよね」

 メルルは感心したように言うと、ヴィクトリアは気を良くしたらしく、「でしょでしょ? もっと褒めてよね、レト君も」と笑顔になった。

 「ええ。ヴィクリアさんの魔法解析は王国一です」

 レトはヴィクトリアを持ち上げた。

 「へへーん。魔法のことなら私に任せなさい。さぁ、ほかに聞きたいことはない?」

 ヴィクトリアは完全に機嫌を良くして胸を張った。

 「『爆砕魔法ブラスティング』はどこでも習得できるんですか?」

 レトの質問に、ヴィクトリアは思い出すように少し上を見上げた。

 「教わることができるのは王立魔法学院だけ。そもそもがあそこで開発された魔法よ」

 「王立魔法学院って、レトさん」

 メルルはレトに声をかけると、レトも重々しくうなずいた。

 「ああ。アントン・ラッドが在籍している学校だね」


6


 「……で、僕に聞きたい話って何ですか」

 アントン・ラッドは椅子に腰を下ろしながらレトに尋ねた。

 王立魔法学院の中にある、学生向けのカフェでレトとメルルはアントンと面会していた。学院内のカフェは旧校舎のいかにも古めかしい内装に白で統一された丸テーブルと華奢な椅子が配置されたものだった。学生というよりは女性に好まれそうな雰囲気のところだ。実際に店内の多くを占めているのは女子学生たちだ。王立魔法学院はメルルにとって憧れの学校なので、いささか緊張気味に腰かけていた。隣のレトは周りの雰囲気など一向に気にする様子が見られない。

 「レーディア卿が殺害された朝、あなたは公園の前を通りかかっていたとのことでした。それはレーディア卿の屋敷に向かう途中だったからという話でしたね。その件で少し突っ込んだことをお伺いしたいと思ったんです」

 「どこを詳しく話せばいいんですか?」

 「あの朝に屋敷に向かわれた事情です。朝食に呼ばれていたのですか?」

 「い、いいえ。僕は先生にお話を聞いていただきたくて、あの朝、屋敷に向かっていたんです。先生はお忙しい方だから、朝、お屋敷におられるときに訪ねるしかないと思ったので」

 「昨夜もレーディア卿のことを『先生』とお呼びでしたが、レーディア卿は魔法学院で教鞭をとってられましたか?」

 「いいえ。先生は魔法協会の理事をされているので、教職に就かれたことはございません。ただ、魔法の開発など、いろいろと学院の手助けをされていたそうです。学院で教えてはいないのですが、個人的に研究会を設けておられました。学院と連携を取りながら、さっき話した魔法の開発や、すでに失われた魔法の復活などを研究する会です。僕はそこの会員だったんです」

 「その研究会の会員は現在何名のものですか?」

 「それが……、先生は今年の初めに研究会を解散されたんです。ですから、今は存在していません。ただ、僕にとって先生であることに変わりありませんので、今も『先生』とお呼びしているのです」

 「あなたがレーディア卿にお話ししたいことと言うのは、その研究会と関連があるのですか?」

 そこでアントンは返答に詰まった。彼は少し目を伏せると、これまでとは違う、沈んだ口調で答えた。

 「関連があると言えば……、あるのでしょうが……。すみません、うまく説明できません」

 メルルはレトの横顔を見つめた。当然、『何がうまく説明できないことなのか』を聞いてくると思ったのだ。

 しかし、レトは「そうですか」とうなずくだけで、それ以上のことは尋ねようともしなかった。

 「公園の出来事に話を戻します。正確には石像の爆破を目撃したのですか? それとも音を聞いただけですか?」

 「音だけでなく、爆風ですね。公園の入り口にさしかかったところで、爆音とともにぶわぁって強風が入り口から噴き出したんです。すごい勢いの風です。石のつぶてや木の破片が舗道にまで噴き出してきたほどでしたから。それで、僕は慌てて公園に飛び込んで、公園の中央まで走って行ったんです。途中で、公園の時計が大きな石の破片の直撃を受けて、粉々に壊れて落ちているのを見ました。ただ、時計の文字盤と針は大きく破損していなかったので、時計が7時半を指していたのはわかりました。僕はそれを横目に通り過ぎ、公園の中心にたどり着きました。そこで、グラン・パシェの石像の頭部がなくなっているのが見えたんです。ただ、あまりの光景にそのあとどう行動するべきかわからなくなって、しばらくそこに立ち尽くしていました。憲兵の方々がやってきたのはそれから間もなくです。あの公園には僕以外に誰もいませんでしたので、憲兵の方からは僕が何かやったんだろうと厳しく追及されました。それでやむを得ず、僕は公園の隣にある、先生の屋敷を訪ねる途中だったんだと説明したんです。その後のことはご存知ですよね?」

 「ええ。あのときの様子がよくわかりました。それで、あの爆発ですが、何で起こったのか思い当たりませんか?」

 レトの質問に、さきほどまで淀みなく答えたアントンが口をもごもごとさせた。

 「い、いえ。なぜ、あの像が爆発したのか……。僕にはまるでわけがわかりません」

 「そうですか。どうもありがとうございます」

 レトは丁寧に礼を言った。アントンは笑みを浮かべたが、それは弱々しいものだった。

 「この程度の説明でお役に立てたのなら幸いです。今度は僕からお聞きしてもいいですか?」

 「どうぞ。ただ、捜査の関係上、お話しできないこともありますが」

 「もちろんです。お聞きしたいのは、先生は部屋にひとりでおられたのですか? 先生の自室には誰もいなかったのですか?」

 「レーディア卿が自室に入られたのは7時半の少し前と聞いています。レーディア卿はそこで自室に誰も立ち入られないよう魔法で鍵をかけて、閉じこもってしまわれたんです。執事とメイドの二名がその鍵を解除して部屋に入るまで、その部屋は誰も立ち入ることができない状況でした」

 アントンは少し身を乗り出した。

 「つまり、誰も先生の自室に入っていないんですね? 誰ひとり」

 「もし、あの屋敷に集まった方々が魔法の使えない人々であれば、誰もレーディア卿を殺害できなかったと申し上げられるんですが、実のところ、皆さん魔法に長けた方々です。どなたにも可能ではないかと考えているんですが」

 レトはアントンの反応に少し困惑しながら答えた。アントンの積極的な態度は予想外だったからだ。アントンはレトの答えに、ややうつむきながら「そうですか……」と口の中でつぶやいた。

 「どうかされたんですか?」

 レトはアントンに尋ねた。レトの声に、アントンは驚いたように顔を上げた。

 「え? いいえ、どうもしません。ただ、先生を手にかけた者がいたとは、今でも信じられません。あれは、何かの事故の可能性はないんですか?」

 「魔法の術式を埋め込まれたナイフが、何かの事故でレーディア卿を襲ったと考えるんですか?」

 「魔法の術式? いったい何の魔法が仕込まれていたんですか?」

 アントンは再び身を乗り出してきた。

 「それが、わからないんですよ」

 「わからない? ああ、術式解析ができない仕掛けがあったんですね?」

 レトは無言でうなずいた。


 「ダメね、これは」

 ヴィクトリアはナイフにかざしていた両手をそのまま上に挙げて、文字通り『お手上げ』の格好になった。

 「ダメって、どういうことですか?」

 メルルはナイフをのぞき込みながら尋ねた。

 爆砕魔法の講義をヴィクトリアから受けた後、レトは引き続いてナイフの解析を頼んだのだった。「乙女に残業させないでよ」とヴィクトリアは口をとがらせたが、すぐにナイフに両手をかざして解析を始めたのだった。しかし、解析を始めてすぐに、ヴィクトリアが降参したのである。

 「このナイフにはトラップが仕掛けられているの」

 「えっ、どんな罠ですか?」メルルが怖そうに身を引いた。

 「ああ、そういう襲い掛かる罠じゃなくて、術式解析を進めると、自動的に術式を消去するものよ」

 「自動的に消去、ですか」レトはしかめ面になった。

 「すぐに手を離したから、このナイフに仕込まれた術式は消されていないわ。でも、解析できないから、状況としては消されたのと一緒よね」

 「そんな罠があるって、よく気付きましたね」

 「昔から魔法使いは自分が編み出した術式を隠したいものなの。それで、術式を読ませない工夫というか、仕掛けっていろいろ考案されていたの。ここ百年での『はやり』は、このナイフに仕掛けられたような、術式消去の罠ね。留め金を外すと作動するばね仕掛けの罠みたいに、埋め込まれた術式をいじりだすと作動する仕掛けよ。今やってみせたように、表面から眺めるだけでは作動しないんだけどね。だいたい、今どきの魔法使いはみんなこんな罠を仕掛けるから、術式の解析は必ず表面から罠の有無を探るのよ。当然、表面上では罠がないように仕掛けるものだけど、私の目はごまかせられない。こっちもずいぶん経験させられているんだから」

 「その罠をかいくぐって解析することはできませんか?」

 レトの声はいかにも残念そうだった。

 「気持ちはわかるけど、現状では無理ね。話が逆になっちゃうけど、どんな術式か見当がつかないと解析できないの」

 「たしかに、それじゃあ無理ですね」レトはため息を吐いた。

 「どんな術式が仕込まれているか、おおよそ絞ることはできないかしら、レト君?」

 ヴィクトリアは組んだ両手に自分の顎を載せ、レトを見上げた。

 「……考えてみます」レトは悔しそうにナイフを見つめながら答えた。


 「なるほど、消去の罠ですか。それじゃ、調べられないですね。罠の術式は高難度ですから、この学院でも盛んに研究されています。僕も勉強していますが、消去の罠をかいくぐる方法は知らないですね」

 アントンは腕を組んで考え込んだ。まるで捜査に参加しているようだ。

 「屋敷にいらっしゃった方々はアントンさんにとって既知の方ですか? それともご存知ない方はおられましたか?」

 「ええ、皆さん存じております。ザビーネ夫人は魔法協会の支援者のひとりで、この学院にも多額の寄付をしていただいています。かつては、この魔法学院で教師をされていた方ですから、魔法の技量は非常に高いです。ガネル・ロウフィールド君は、父上が魔法協会の支援者です。本人は魔法学院に進学こそしませんでしたが、魔法高等学院で学んでいましたよ。彼は父上の跡を継ぐべく、商科大学に進むことになりましたがね。魔法の心得はあります。実は、彼と僕は、その魔法高等学院の同級生だったんです。テレンス・ギダーさんは知っているとは言いましたが、面識はあまりありません。以前は、この学院の役員をされていたのですが、最近は魔法協会の新しい委員に就任されました。魔法使いとしての技量は高いはずですが、それよりも経営能力の高さを買われて委員に選ばれたと聞いています。あの若さで委員ですから、とにかく優秀ってことは想像できますよね?」

 アントンは饒舌に解説してくる。レトはうなずくしかなかった。「ほんと、優秀なんですね」

 「ええ、皆さん、魔法に精通した方々です。……ああ、当然、ナイフに消去の罠込みで、何らかの魔法を仕込む技術もお持ちです。確認したいのは、そこですね?」

 「まぁ、そんなところです」

 「そうなると、僕もその仲間に数えられてしまいますね。ついさっき、消去の術式を勉強しているって言っちゃってますからね」

 「キャロリンさんはどうです? 彼女はレーディア卿の娘ですから、当然、魔法は学んでいらっしゃるのでしょう?」

 「彼女は……、キャロリンも、この魔法学院の院生です。さっき話した研究会にも参加していました。もっとも、彼女の場合は娘だから、父親の研究会に入らざるをえなかった、というのが正確らしいですが。ところで、さっきの質問に対しては、彼女も『使える』と答えるしかないですね」

 「執事とメイドのこともご存知ですか?」

 「大体は。彼らはレーディア家に仕えていなければ、冒険者として活躍間違いなしの優れた魔法使いです。また、そういう者でなければ、レーディア家に雇ってもらえないんです。ベネディクトなんて、学生時代にうちの学院長と主席を競い合っていたと聞いていますよ」

 「当然、消去の魔法も使える、と」

 「モーラもね」

 アントンは力強くうなずいた。勢いづいたのか、

 「探偵さん、僕の情報は参考になります? お役に立っています?」

 さらに身を乗り出して尋ねてくる。

 「まぁ、ね……」レトは苦虫をかみつぶした表情にならないよう注意しながら答えた。

 「それは良かったです。僕も事件の真相を早く知りたいと思いますから」

 話を終え、立ち去っていくアントンを見送りながら、レトは「悪いひとじゃなさそうなんだけどな……」とつぶやいた。

 「どうされたんです?」メルルはレトの口調に奇妙な響きがあることに気付いた。

 「君はアントンさんの話しを聞いて何に気が付いた?」

 「え、気付く、ですか? 何かよくしゃべるひとだと思いましたけど……」

 「ひとは嘘を吐こうとしたり、ごまかそうとしたりすると、変に饒舌になったりする。アントンさんのは典型的な『それ』だよ」

 「ええ? アントンさん、私たちに嘘を吐こうとしていたんですか?」

 メルルは驚いて声を上げてしまった。周囲の学生たちが何事かとふたりに注目する。メルルは顔を赤らめて、小声で囁いた。「レトさん、教えてください。アントンさんは何で嘘を吐こうとしていたんですか?」

 「あるいは何をごまかしたいか、だよ。『研究会』の詳細については説明が難しそうなことを言って、あまり話したがらなかったけど、それ以外のことは質問の内容以上に答えてくれたじゃないか。『研究会』には聞いてほしくない話があるってことさ」

 「でも、レトさんはレトさんで、その話をわざと突っ込もうとしませんでしたよね」

 「聞いても答えないさ、アントンさんは。こっちも追及する材料もないし」

 「でも、『悪いひとじゃない』とも言ってましたね? どうしてです?」

 「嘘を吐くか、ごまかすか、何を意図していたかはわからないけど、答えられることには正直に答えていたからさ。例えば、爆破事件の現場に駆けつけたとき、『あまりの光景にそのあとどう行動するべきかわからなくなって、しばらくそこに立ち尽くしていました』なんて答えていた。どうしてわからなくなったんだい? 事件を憲兵に通報する。すぐ隣のレーディア家に駆け込んで急を知らせる。すべきこと、あるいはできることなんていろいろあるはずなのに、アントンさんは『わからなくなった』と答えた。あのとき、アントンさんは何かに衝撃を受けていたってことだよ」

 「爆破現場の惨状で、気が動転していたんじゃ」

 「動転していたには、公園に駆け込んだ時に時計の状況を正確に記憶していた。少なくとも公園に入ったときはまだ冷静だったのさ。ところが、石像の頭部が吹っ飛んでいるのを見て、アントンさんは激しく動揺したんだ」

 「なぜです?」

 「そこはわからない。でも、アントンさんはその理由をごまかそうとしたのさ。アントンさんは続けてこう答えた。『やむを得ず、僕は公園の隣にある、先生の屋敷を訪ねる途中だったんだと説明した』……。『やむを得ず』なんて言い方をしたんだ、アントンさんは。憲兵の追及に対し、ひとまず嘘を吐くことにしたって言ってるようなものだよ。ということは、『先生の屋敷を訪ねる途中だった』も嘘ということになる。そう考えると、『正直に答えた』ではなく、『説明した』っていう言い方も何か隠したい気持ちが表れていると思わないかい?」

 「うーん、確かに」

 「この話のあと、アントンさんはレーディア卿が自室にひとりでいたのかを気にしていた。あれも変だよ」

 「変ですか?」

 「事件の興味を持つにしても、『レーディア卿は自室にひとりだったのか』にこだわっていた。まるで、レーディア卿はひとりじゃなかったはずだと考えているみたいだ」

 「レーディア卿があの日に誰かとお会いする予定を聞いていたとか……?」

 「それなら、『誰それさんと一緒じゃなかったんですか』って聞くだろう。そう聞かなかったのは、アントンさんには見当がついていなかったのかもしれない。ひとつひとつは微妙な言い回しだけど、アントンさんはあからさまな嘘を吐かない。嘘を吐くのに抵抗感を持っているんだよ。そのせいで、不自然さを隠しきれなくなって、違和感出しまくってしまっているのさ」

 「違和感と言えば、レーディア卿の自室に誰もいなかったことを知ると、事故の可能性はないか尋ねてきましたよね。ナイフで刺された事件なのに『事故の可能性はないか』なんて、逆にそう考えた根拠が聞きたいぐらいです」

 「いろいろ出てきたけど、これらのことを総合すると何が見えてくる?」

 「なんとなくですけど、アントンさんはレーディア卿殺害の犯人ではなさそうです。それは、犯人に思い当たる人物がいて、それとなく私たちに探りを入れている感じがしますから」

 「僕も同じ考えだ。そうだとすると、アントンさんには僕たちに見えていない事件の構図が見えているってことだよね」

 メルルは首をかしげた。

 「アントンさんに何が見えていて、何を隠そうとしているんでしょうか?」

 レトは椅子から立ち上がった。

 「それは、ほかの関係者にあたって探るとしよう」


7


 「今日も捜査ですか。お疲れ様ですこと」

 ザビーネ夫人は大きな身体を揺すらせて椅子に座った。総革張りでありながら、ふかふかした高級なひじ掛け椅子で、それはザビーネ夫人の巨体も難なく包み込んだ。

 レトとメルルのふたりはザビーネ夫人の事務所を訪ねていた。こじんまりとした事務所であるが、室内の調度品はどれもお金をかけたとわかる高級なものばかりだ。魔法学院の教師から実業家へと転身したわけだが、こちらのほうがより向いていたと思われる。華麗な転身ぶりだ。

 「本日、お聞きしたいのは、レーディア卿の晩餐についてです。そのお誘いはいつほどにあったものですか?」

 「ほんの3日前ね。あの日、協会の定例会があって、私たちはそこでレーディア卿にお誘いをいただきましたの」

 「晩餐会の目的や、趣向について何か話されましたか?」

 「いいえ。ただ、久しぶりに協会の方々と親交を温めたいとおっしゃっていました。あの方は催しごとにあまりお顔をお出しにならないので、私も珍しいことだと思いましたわ。言い換えれば、めったにない機会の話でしたから、お誘いをお受けしたのです」

 「それで夫人を含めた3名の方が参加することになったんですね?」

 「うーん、ちょっと違うわね。本当はあと何人か行きたそうだったんだけど、レーディア卿が屋敷に一泊していただき、朝食もともにしたいなんておっしゃったので、そこまではお付き合いできない方が辞退されたのです。それで私とギダーさんがうかがうことになったんですの。ロウフィールドさんは仕事の都合で行けなかったのですが、ご子息を代わりに参加させることにしたんです。ロウフィールドさんは、魔法開発の件でレーディア卿に助けていただいていますから、なんとかレーディア卿のご機嫌を損ねないようにしたかったのですわ」

 「レーディア卿とロウフィールドさんは、どんな魔法の開発に取り組んでらっしゃったんですか?」

 ザビーネ夫人は首のあたりに手をかけた。そして首をなでながら思い出すように答えた。

 「……そうねぇ。一番の功績は『爆砕魔法ブラスティング』の開発かしら」

 レトとメルルは思わず目を合わせた。

 「あの魔法はですね、王立魔法学院の支援のもと、もう何十年も前に開発されたものだけど、あれのおかげで土木工事の安全性や効率性がぐんと上がりましたの。それまでは火薬を仕掛けて爆発させていたのですけど、火薬は分量だけでなく、保管など専門の知識や安全性の配慮が必要でしたわ。扱いを誤り、事故で人命が失われることは珍しいことではありませんでした。魔法で破壊するにも、安全に、というのはずっと課題でしたわ。なにせ爆破させる対象のそばで呪文を唱えなければなりませんでしたから。それを呪文の届かない位置から発動させる魔法を生み出したのです。術者は安全な場所から魔法を行使して、工事を進めることができるようになりました。もちろん、事故は皆無になったわけではありませんが、かつてと較べて格段に安全になりましたわ。私もあの術のおかげで、のちに夫の事業を手伝うのに役立ちましたし」

 「ザビーネ夫人も『爆砕魔法ブラスティング』が使用できるのですか?」

 「私は回復魔法が専門でしたけど、王立魔法学院の教師でしたから。あそこで開発された魔法は身につけるように努めましたわ。私はザビーネ家へ嫁ぎましたが、夫の事業は保養地の開発と経営ですの。荒れ地を整地したり、岩山に道を通したりするのに、あの魔法は非常に役に立ちましたわ。むろん、レーディア卿の功績はそれだけではございませんわ。重いものを小さな力で運搬できる魔法の台車など、レーディア卿は貴族とは思えないほど社会性に富んだ研究や開発をなさっていたのです。王国の経済発展にどれほど貢献されたか」

 「それは知りませんでした。それほどの方とは評判を聞いていませんでしたので」

 「……まぁ、あの方は相当『偏屈』な方でしたから。良い評判もされにくいのですわ」

 ザビーネ夫人は少し前かがみになって小声になった。おかげでふたりも少し夫人に顔を寄せるよう前かがみになる。

 「あの方は早くに夫人を亡くされて、ご家族は娘さんひとりきりでしたから。そりゃあ娘さんは大事にされていましたわ。大事にし過ぎて過干渉なぐらい」

 「過干渉ですか」

 ザビーネ夫人は大きくうなずいた。

 「年頃の娘さんですから、恋人のひとりでもできて当たり前じゃないですか。ですが、あの方は娘さんと交際する男性の存在を許しませんでしたわ。なにせ、長い間続けていた研究会を娘さんのために解散したんです」

 「キャロリンさんも会員でしたね。まさか、協会に?」

 ザビーネ夫人は嬉しそうに手を振った。

 「そーなの。キャロリンさんは研究会で、ある殿方と恋に落ちましたの」

 かつて教師だったわりには、通俗的な話が大好きらしい。

 「その男性とは……」

 「あなたも気付いているんじゃありません? あのアントン・ラッドよ」

 うすうす予想していたが、ザビーネ夫人にあからさまに言われると困惑してしまう。レトは「それ、事実なんですか? ただの噂とかでは」と尋ねた。

 「キャロリンさんの表情や態度を見て、気付かないひとなんていやしませんわ。アントンだって彼女に夢中なのは間違いないですわ。あの方は純朴というか、隠し事が下手な方ですから。もう態度がありありで」

 『隠し事が下手』なのは、レトとメルルもアントンと直接会話して実感したことだった。

 「レーディア卿はそれが許せませんでしたの。ただ、貴族はあからさまに相手を罵倒したり、ひとの恋路を邪魔したりしないものですわ。研究会を解散したのは、娘さんと彼氏とが出会う場をなくすためだと、誰の目にも明らかでした。ただ、レーディア卿はそんな理由は口になさいませんでしたがね」

 社会に貢献してきた研究会を個人的な事情で解散させるとは、レーディア卿の『偏屈さ』は相当なものだ。

 「なるほど、それであの晩餐会にアントンさんは招待されていなかったんですね?」

 「そりゃそうでしょ、やっぱり。実はあの晩餐会に呼ばれたとき、キャロリンさんから、それとなく最近のことをお聞きしたいと思っていましたの。まぁ、ずいぶんと踏み込んだ話ですから、機会があればという程度でしたけど。で、やっぱり、なかなか機会もなく、お話は聞けませんでしたけどね」

 どうもザビーネ夫人は、その話が聞きたくて都合をつけたようだった。

 「まさか、ギダーさんやガネルさんも、そのことへの関心で参加されたとか」

 「あらやだ、私、ずいぶん俗なことをしゃべっていましたわね」

 ザビーネ夫人は再び手を振った。どうも話すときの癖らしい。

 「ギダーさんは、純粋にレーディア卿からのお誘いだったからでしょう。あの方は学院で働いていたときには、ずいぶんレーディア卿にご指導いただいて、魔法開発の研究をされていましたわ。その実績を買われて、魔法協会の委員なんて名誉ある職に選ばれたんです。そりゃあ、レーディア卿には非常に恩を感じていらっしゃるはずですわ。ガネル君は……、そうねぇ。お父上に指示されたから、というのもあるけど、やっぱりキャロリンさんに会いたい気持ちもあったかもしれないわねぇ」

 「ガネルさんもキャロリンさんが好きだったと?」

 「アントンほどあからさまじゃないから確かとは言えないけど、お父上の仕事の関係上、幼少時からキャロリンさんとは顔なじみというか、幼なじみでしたからね。それにキャロリンさんは子供の頃から美しくて、可愛らしくて……。男の子でしたら好きになっても不思議じゃないでしょ?」

 「たしかにキャロリンさんは美しくて魅力的な女性だと思います」レトは肯定した。メルルはじろりとレトの横顔を見つめる。

 「何だよ」

 「いえ、レトさんも男性なんだな、と思って」

 レトはそれ以上取り合わなかった。

 「アントンさんからは、ガネルさんとは魔法高等学院時代の同級生だと聞きましたが、あの日、アントンさんとガネルさんはひとことも口をきいている様子がありませんでした。あのふたりにはそのことで互いに会話しづらい状況にあったんでしょうか?」

 「あら、あなたもそう思います? 私もあのときそう思ったの」

 ザビーネ夫人は再び嬉しそうな声をあげた。間違いなく俗な話が大好きだ。

 「晩餐会にアントンの姿がないのは当然だろうと思っていましたけど、あの事件のときに彼が現れたときには、さすがに私も驚きましたわ。だいたいの事情は知っていましたから、アントンの手にキャロリンさんが手をかけて心配顔をしているのを、ガネル君がどんな表情でみているか、私、気になって、そっと見ましたの。そうしたら、彼、ずいぶんと冷めた表情で見つめていましたわね。ふたりから距離を取って、近づこうともしませんでしたし」

 殺人事件があったばかりの状況で、よく観察している。レトはひそかに感心した。

 「ガネル君は少年時代からよく存じてますわ。私の主人とロウフィールドさんは友人同士で、互いに行き来がありましたから。彼は魔法を学ぶ姿勢は非常に真面目で、優秀な魔法使いになるだろうと思いましたわ。そして、レーディア卿の娘さんと結婚して、レーディア家とロウフィールド家の両方を盛り立てていくだろうなんて、そんな想像をしたこともございましたの。いえ、ロウフィールドさんもそう考えて、ご子息をキャロリンさんと引き合わせたんだと思います。ですが、ガネル君は真面目ですが、男性としては地味で無口な方ですから、キャロリンさんから関心を持ってもらえなかったんでしょうね。幼なじみでありながら、それほど親しげな様子は見られませんでしたわ。でも、キャロリンさんはともかく、ガネル君は彼女に関心があったと思うフシはありましたわ。誕生日には必ず贈り物を用意したりしていましたから。それだけにかつての級友が彼女と親しくなるなんて、その胸中は複雑でしたでしょうね」

 「レーディア卿は、ガネルさんが訪ねて来られるのは気になさらなかったんですかね?」

 「だって、娘さんにとってはただの幼なじみで恋愛対象じゃないんですから。レーディア卿は娘さんの恋人の存在が許せないだけで、ただ男性が近くにいるぐらいはどうということはなかったのでは? だって、娘さんの恋人じゃないなら、『かかし』と変わりませんから」

 ザビーネ夫人はそう言うと、愉快そうにのど周りの肉をふるふると震わせた。


8


 アントン・ラッドとキャロリン・レーディアの関係について、ガネルはあっさりと肯定した。「あんなのは傍から見りゃ誰でもわかる」がガネルの回答だった。

 広々とした公園のベンチに腰かけて、ガネルはレトの質問に淡々と答えていた。公園で話すことはガネルから申し出たことだった。彼は学校でも自宅でも事情を話すのを嫌がったのである。レトとメルルはベンチに腰掛けずに、ガネルの前で話を聞いていた。

 「父はレーディア家とよしみを通じていたかったんです。なにせ、レーディア家は名門ですからね。貴族としても、魔法使いの一族としても。僕を子供の頃からレーディア家に連れていたのは、父としては僕とキャロリンを娶せたい意図があったはずです。キャロリンは可愛らしいし、僕も彼女だったら結婚できればいいなとか思ったりもしました。ですがね……」

 そこでガネルは言い淀んだ。

 「まぁ、今となってはどうでもいいか。あの、レーディア卿は異常だったんですよ」

 「レーディア卿が異常?」

 ガネルは辺りを見渡した。公園はまったくひと気がなく、近くで話を聞かれる可能性はまったくない。そのことを改めて確認すると、ガネルは深いため息を吐いた。

 「レーディア卿は娘に執着していたんです。ずっと手元に置いておきたいという願望を持っていたんでしょう。キャロリンが男性と会話すること自体に目くじら立てるようなことはありませんでしたが、恋愛目当てで近づく男たちは絶対許しませんでしたよ。僕も脅されました。『もし、娘との接し方に許せない感情を見出したら、ただでは置かない』と。当時10歳になったばかりの僕にですよ! 信じられますか? そんなこと。ただ、あれ以降は、僕は彼女とは距離を取って接するようにしました。僕を脅したときのレーディア卿の目があまりに怖かったからです。距離さえ取っていれば、レーディア卿は穏やかな、立派な貴族でしたからね。父がレーディア卿との関係を大事にしている以上、僕としてはそうするしかなかった」

 「長年に渡って社会にも貢献してきた研究会を解散したのは、キャロリンさんがアントンさんと恋仲になったからだとおっしゃる方がいました」

 「有名な話ですよ、それ。アントンの奴は、学業は優秀なくせに鈍いところがあって、レーディア卿の娘に対する異常性に気付かなかったんです。いや、理解できなかったというのが正確か。あいつは自分が貴族ではなく、上級市民だから交際を許されないんだと思ったようです。上級市民は王国に対し、何らかの実績で大きな貢献を果たし、家格を保てるほどの財を築くことができれば、特例で貴族になれます。それで、アントンは自分にはまだ望みがあると思い込んでいたようですが。馬鹿な奴です。そんな望み、まったくありはしないのに」

 「あなたはレーディア卿の意向を正確につかんでいたから、キャロリンさんとも距離を取って接していたし、レーディア卿もあなたが晩餐会に来られるのを問題にしなかったんですね?」

 ガネルはうっすらと笑みを浮かべた。

 「さっき言ったばかりです。レーディア卿は穏やかで立派な貴族だと。娘のことさえなければ、レーディア卿は誰からも尊敬される方なんです。魔法使いとしてもエリファス・レヴィ以来の天才とさえ言われているんです。あの方に嫌われたり、晩餐会に招待されない立場になりたい者なんて、ひとりもいないはずですよ」

 「……つまり、うまく距離を保ってきたことの成果だと」

 「そういうことです。ですから、研究会を解散させるまでに至ったアントンには、ほとほと愛想が尽きましたよ。もともと僕が研究会の会員で、あいつは僕のつてで入っただけなんですからね。ただ、キャロリンもあんな鈍い男のどこに惹かれたのか。それを予想できなかった僕も僕だと言えますが」

 最後は自嘲気味につぶやいた。

 「研究会がなくなって、ガネルさんは今でも魔法の勉強は続けてらっしゃるんですか?」

 「魔法の勉強ですか? いいえ、僕はあまり才能がなくて。商科大に入ったのも、父の跡を継ぐためとしていますが、とても魔法学院に進められるほどの力はなかったんです。まぁ、研究会にはレーディア家との関係を弱めないために、父からの命令で入ったんですけどね」

 「では、現在は魔法の勉強はしていない、と」

 「術を使う技術などの勉強は、もうしていません。ただ、魔法は今後も商業的に、あるいは経済的に大きな力となるものです。商業で魔法を有効活用する研究は、大学で取り組んでいる課題ですよ」

 「魔法の商業活用ですか」

 「レーディア卿の研究は、その流れを作ったものでした。個人的には苦手なひとだったけど、僕にとって将来に影響するほどの存在でしたよ」

 「レーディア卿を失ったのは大きな痛手ですね」

 「まったくです。いったい誰がレーディア卿を刺したんだか……」

 ガネルはそう言うと、遠くを見つめる表情になった。メルルが視線の先を見てみると、遠くに茂っている林から鳩らしき鳥が一羽、青空へ飛び立ったところだった。

 「あなたには誰がどうやってレーディア卿を刺したのか見当が付きませんか?」

 ガネルはゆっくりとレトに視線を移した。

 「僕が? わかるわけがない。先日、ザビーネ夫人は魔法のナイフの問題を得意げに披露していたけど、何の話だか途中までわからなかったぐらいだよ。あとから、レーディア卿の姿を視認できなければ、ナイフを操作するのは困難だってわかったけどね。でも、もっとわからない問題があったのに、ザビーネ夫人はそっちのことに気付いていないんだ」

 「もっとわからない問題?」

 「レーディア卿が席を外した理由だよ。あの日、みんなで朝食を摂り始めてすぐ、レーディア卿はベネディクトに時間を尋ねたんだ。ベネディクトが『ちょうど7時20分です』って答えたら、『ちょうどいい、少し失礼する。10分ほどで戻る』と言い残して席を立ったんだ」

 「『ちょうどいい、少し失礼する。10分ほどで戻る』。レーディア卿はたしかにそうおっしゃったんですね?」

 「そうさ。こんな時間に誰かと約束でもしていたのかって思ったよ。だから、モーラが……、メイドが駆け込んでレーディア卿が自室でけがをされたと聞いて、わけがわからなくなったんだ。レーディア卿は自室に客を入れないひとだから、いったい何の用事で席を立ったんだってね。客に会うなら、大広間の隣にある応接間で会うはずなんだ」

 「誰かに会うにしても、10分で戻れる用事って短すぎませんか?」メルルが疑問を口にした。

 「言われてみればそうですね。でも、本当にあのとき、僕たちは大混乱だったんだ。状況をまともに理解できた奴なんて、実際いたかどうか……」

 ガネルは話し終えた後も首をひねり続けながら立ち去っていった。レトとメルルはガネルの座っていたベンチに並んで腰を下ろして、しばらくそれぞれの考えにふけっていた。

 「ねぇ、レトさん」

 「何だい」

 「さっきの話で何か状況が変わった部分ってあるんですか?」

 「レーディア卿の『ちょうどいい』のひとことだね。ちょうどいいっていうのは、7時半頃に何かを始めるのにちょうどいいってことじゃないかな? つまり、レーディア卿は朝食を摂るよう自ら客に誘っておきながら、7時半には別の予定を入れていたってことだ。前にも言ったことだけど、レーディア卿の行動は変だ。理屈に合わないよ。レーディア卿はわざわざ客を集めてまで何をしようとしていたんだろう」

 「わざわざ、ですか?」

 「めったに客を呼ばない人物が、晩餐会を開き、翌朝に一緒に朝食を摂ることも誘った。ザビーネ夫人の証言によれば、朝食も含めてのお誘いだったわけだ。だったらその朝食時間に別の予定を入れたりはしないはずだろう? それなのにレーディア卿は『ちょうどいい』と言って、朝食中の7時20分に席を立った。仮に朝に用事を入れるにしても、朝食の時間帯はさけるものじゃないか。それともいろいろと予定を詰め込まなければならないほど、レーディア卿は多忙だったんだろうか?」

 レトはベンチから立ち上がった。メルルも慌てて腰を上げた。

 「じゃあ、次に行くか」レトは先に立って歩き出す。

 メルルは遅れまいと早足でレトを追いながら、「次はどちらへ?」と尋ねた。

 レトは振り向きもせずに答えた。

 「レーディア卿が所属していた魔法協会の新人委員、テレンス・ギダーさんのところだ」

 

9


 ギダーはレーディア卿の屋敷の前にいた。彼の周りには協会の理事か委員だと思われる人物が十数人ほど集まっていた。検死を終え、レーディア卿の葬儀が行われるのだ。死者に貴族も平民もない。死ねば誰もが例外なく、悪霊に取りつかれ屍霊化するか、自身が悪霊化してしまう恐れがあった。そうなる前に遺体は速やかに火葬されるのが一般的なのだ。

 ギダーはレトたちの姿に気付くと、あからさまに不快そうな表情になった。

 「ここでの捜査は済んでいるんでしょう? まだ、ここに捜査し漏れていることでもあるんですか?」

 「何か見落としがないか、現場には何度も足を運ぶのが捜査の基本なのです。そちらの事情も承知していますので、ご迷惑をおかけしないよう手短にいたします」

 レトの答えに、ギダーはふんと鼻を鳴らした。

 「いったい何を調べに来たんですか?」

 「あなたがた魔法協会とレーディア卿との関係についてです」

 「何ですと?」

 「レーディア卿は協会で何の仕事をなさっておられるのです?」

 ギダーは自分の手を髪につっこんでかき回した。

 「それが事件と何か関係あるんですか? それとも、魔法協会の誰かがレーディア卿を殺したとでも?」

 「その点については何とも言えません。僕たちはまず知らなければならないのです」

 「何を?」

 「事件の朝、レーディア卿が自室で何をしていたのかを」

 ギダーは腕を組んだ。

 「……たしかに、私もあれは疑問に思いました。何でレーディア卿は朝食の途中で席を立ったのかってことに。しかし、それと協会が関係しているとは思えませんが」

 「レーディア卿は協会の関連で、誰かと会わなければならなかったり、多忙でいらっしゃいましたか?」

 「そういう話か……。なら、あなたの考えは見当違いです。レーディア卿は確かに協会の理事ですが、月に数回の定例会にご出席いただくだけで、特に協会の仕事に関わってはいませんよ」

 「つまり、協会の理事というのは、レーディア卿にとって、ただの名誉職なのですね?」

 「『ただの名誉職』って言い方は気に入りませんが、事実上そうだと思って間違いないですね。何せレーディア卿はあのアレイスターの子孫であり、貴族としても名門の家柄です。実際に魔法の研究では偉大な足跡を残していらっしゃる。あの方に相応しい地位を我々が用意するのは、むしろ当然の話じゃないですか。もちろん、協会の雑事なんてさせるわけにはいかないでしょう」

 「では、レーディア卿は多忙だったりしないわけですね?」

 「そりゃあ、レーディア卿の予定をすべて把握はしていませんが、長年続けていた研究会を解散されて、特に主だった活動はされていませんでしたよ。ロウフィールド氏の事業に協力されてはいたようですが、相談役や顧問のようなもので、そのことで忙殺されていたとは聞いていませんね」

 「レーディア卿は短気な方でしたか? あるいは、常に何かをしながらほかのことに手を付けずにはおられない気忙しい性格であるとか」

 「レーディア卿は普段は落ち着いた方です。気忙しいところなんて見たこともありませんよ」

 ギダーがそう答えると、屋敷の大扉が開かれ、中からキャロリンが姿を現した。黒衣のドレス姿で、黒い手袋をはめていた。キャロリンは弔問に訪れた客たちに向かって静かに頭を下げた。顔は青白く、わずかに震えているようだった。

 「皆さん、急なことにお出でいただき、誠にありがとうございます。父は離れに安置されています。皆さんにはそちらへご案内さし上げます」

 顔を上げたキャロリンは、そこでレトとメルルの姿に気が付いた。「まぁ、探偵さんたちも」

 「お忙しいところ申し訳ありません。一刻も早い解決に向けて、私たちも取り組んでおります。どうかご理解のほどを」

 「お役目上、当然のことですね。私は構いませんわ。ベネディクト、お客様を離れまで」

 キャロリンはかたわらに控えている老執事に声をかけた。執事は丁寧にお辞儀をすると、前へ進み出て弔問客の誘導を始めた。ギダーも弔問客たちとともにその場を去った。その場にはキャロリンだけが残った。

 「皆さんは何をお調べにこちらへ?」

 「実は、レーディア卿のお部屋をもう一度確認したいと思いまして」

 「父の部屋を、ですか。……わかりました。お気にすむまでお調べください」

 キャロリンはふたりを屋敷の中に通すべく、身体を大扉からずらした。

 「少し、お話しさせていただいてもいいですか?」

 レトは大扉に歩み寄りながら、キャロリンに話しかけた。キャロリンは特に表情を動かすこともなくうなずいた。

 「何なりとお尋ねください」

 三人は屋敷に入った。屋敷の2階に上がり、レーディア卿の書斎に入ると、レトはレーディア卿の倒れていた窓際まで歩いて行った。窓際に立つと、そこから外の様子をうかがっている。

 「何か見えますか?」

 キャロリンはレトのそばに近づいた。

 「ここへうかがう途中、例の公園の位置を確認したんです。ここから爆破事件の現場が見えるかなと思って」

 レトは斜め方向に顔を向けた。「見つけた。あそこだ」

 「見えますか、レトさん」メルルはレトのすぐ隣に立つと、外に目を向けた。

 「あ、見えました。あの石像も、この位置から見えるんですね」

 ふたりの視線の先には、庭木と一体化するように公園の林が広がっていた。その木々の間から、『グラン・パシェ』の石像が――今は白い布で覆われている何かの塊が――ほんの一部をのぞかせていた。

 「思った以上に木が邪魔で見えにくいね。レトは窓から離れると、別の窓へと移動した。そして、同じように外の景色に目を向ける。

 「うーん、こっちは完全に木の陰になっている。石像を見たければ、あの位置じゃないとダメだね」

 レトは最初の窓際に戻った。「やっぱり、ここからでないと見えないね」

 「あの……、何を調べてらっしゃるんですか?」キャロリンが不安そうな声で尋ねる。

 「ああ、すみません。ちょっと気になったので確認したまでです。それより、あなたにうかがいたかったのは、あなたとアントンさんとの関係です」

 キャロリンは静かに視線を逸らして、床の絨毯を見つめた。「やはり、そのことですか」

 「否定はなさらないんですね」

 「別に隠そうなんて思っていませんから」

 キャロリンの口調はしっかりとしたものだった。物憂げな表情とは違う、意志の強さを感じる。

 「父上はそのことについては……」

 「そのこともある程度、お調べになっているんでしょう?」

 キャロリンはすっと正面に顔を向けた。まっすぐな瞳がレトを見つめている。

 「父は表面上、とても物静かで、激昂するようなひとではありません。ですが、実際には激情家と言っていいほどの気性の持ち主でした。私は物心ついた頃から、父のその気性にはずいぶん悩まされました。その気性は、特に私に向けられていて、私が男性と親しくなろうものなら、父はその男性を排除しようと動きました。おかげで私はこれまで男性とまともにお付き合いしたことはありません。私の行動も逐一監視していました。世間では偉大な魔法使いとして名声の高い父ですが、私にとっての父はそういうひとです」

 メルルはふと自分の父親を思い出した。メルルの父親は自分のことを可愛がってくれたとは思うが、日頃のことで干渉された記憶はない。農業の仕事が忙しくて、あまり娘に構っていられなかったように思える。むしろ口やかましかったのは、メルルの母親や、よく面倒を見てくれた姉のほうだ。

 「とても息が詰まりそうな毎日でした。まるで沼に沈められたようなものです。進学先も、研究会に入るのも、レーディア家として当然のことだからと決められてしまいました。自分の意志で何かをした記憶がありませんでしたわ」

 キャロリンは淡々と話を続ける。そのことを話すのに何の抵抗もないと言うより、何の感情も湧いていないと言うほうが正しいようだった。

 「アントンは幼なじみのガネルが研究会に連れてきたひとです。あのひとは魔法の研究に真摯で、ひととしても誠実でした。その一方で大らかで、細かいことは気にしないところもありました。私に近づくと、父からどんな嫌がらせを受けるか、周りから聞いていたはずですが、あのひとはそんなことでたじろいだりしませんでした。まっすぐ、私を愛してくれたんです。ですから、私も彼を愛するようになりました。だって、私を沼から救い出してくれたんですもの」

 レトは黙ってキャロリンが話すままに任せた。メルルも口を挟むまいと思った。

 「もし、あなたがたが父を殺したのがアントンだと疑っているのなら、それは間違いです。あのひとは誰も恨んだりしないし、憎んだりもしない。嫌がらせをされても、ただ困った顔をするだけです。そんなひとに父は殺せませんわ」

 「私たちはアントンさんが犯人だと決めつけてはいませんよ。あらゆる可能性を予断なく検討するのが、この仕事を行なううえで大切なのですから」

 レトは力強い声で言った。

 「……そうですか。もちろん、あなたがたの捜査に口出しするつもりはありませんが、アントンを疑うだけ無駄だと申し上げたいだけです」

 「恋人を信じたい気持ちは当然だと思います。別にお気になさらないでください」

 キャロリンは頭を下げた。話は終わったということなのだろう。身体の向きを変えると、部屋を出て行こうと歩き始めた。その背中にレトが声をかける。

 「キャロリンさん、すみません。あともう少しだけ。研究会を解散した後、あなたはアントンさんと顔を合わせていましたか?」

 キャロリンは歩みを止めて振り返った。

 「それは、同じ学院で学んでいますから、学校で顔を合わすことはありましたわ。あまり時間は取れませんが、私たちが出会える唯一の場所でした。さすがに父も私を退学させるわけにいかなかったようです。そして、学院主席のアントンも、です。とは言っても私たちが恋人同士として語らい合える環境ではありませんから、父もそこは目をつむることにしたんでしょうね。私にできることは、せいぜい、彼にお弁当や夜食を渡してあげることだけです」

 「学院内は規律のうるさいところですか?」

 「ええ、まぁ」

 「それでも、そこでならアントンさんに会えるんですね?」メルルが言うと、キャロリンの硬い表情が和らいだ。

 「ええ、たいして話ができなくても、彼の優しい笑顔を見ることができるだけで、私は満足なのです。それだけで満ち足りることができるって、あなたに想像できますか?」

 今度はレトが硬い表情になった。

 「さぁ。僕にはそんな笑顔を向けてくれるひとはいませんので」

 キャロリンは会釈すると部屋から出て行った。レトは彼女を再び呼び止めたりしなかった。

 キャロリンを見送ると、メルルがレトに話しかけた。

 「今ここにヴィクトリアさんがいなくて良かったですね」

 「どうして?」

 「ヴィクトリアさんなら、『じゃあ、私の笑顔で元気にしてあげる!』とか言ってそうだから」

 レトはため息を吐いた。「やれやれ」


10


 「やぁ、皆さん。捜査は進んでいらっしゃいますか?」

 アントンが、レトとメルルを見つけて声をかけた。ふたりはアントンが下宿している部屋の前で立っていたのだ。

 「だいぶ進みましたよ、『研究会』解散の事情とか」

 レトが答えると、アントンは微妙な笑みを浮かべた。それは皮肉な笑みと言うより、何か取り繕うとしているような笑みだった。

 「そうですか。中で話しますか?」

 「お願いできますか」

 「どうぞ、こちらへ。何のおもてないもできないようなところですが」

 アントンは扉を開けると、ふたりを招き入れた。部屋に入ると、メルルは目を丸くした。部屋はメルルが下宿しているものと変わらないぐらいの広さ、あるいは狭さと言っていいだろう。そこに壁と言わず、床と言わず、大小さまざまな本が所狭しと積み上げられていたのだ。部屋には備え付けの棚があったようだが、すでに本で溢れかえっている。

 「すみません、散らかしていて。いえ、これでも片づけている方なんですが……」

……これで?

 メルルは胸の内でつぶやいた。

 「どうぞ、ベッドに腰かけてください。テーブルには一脚しか椅子がありませんので」

 ふたりは無言でベッドに腰かけた。

 「古今東西の魔術の本を集めると、こんなになってしまいまして。時代ごとに魔法の研究書を読んでいくと、魔法の歴史が見えてきて面白いんです。それでついつい本が増えてしまったんです」

 「魔法の歴史ですか?」

 「正確には、どうように魔法について語られてきたか、ですね。マーリン一世は魔法を学術的な研究対象として確立させました。ですから、マーリン以降では魔法はさまざまな学術的な視点で論じられてきました。ですが、それ以前のものとなると、魔法は完全に秘術の扱いです。本の内容も神秘主義の塊で、魔法として何の根拠もない異常な事象も、魔法とひとくくりにした記述が見受けられたりします。僕の研究は、マーリン以前の魔法について、魔法と無関係のものをそぎ落とし、それらを学術的に体系としてまとめることです。そのことによって、今では失われた魔法の復活や、まったく未知の魔法の発見につなげていこうというわけです。……って、そんな話を聞きに来られたんじゃなかったんですよね」

 アントンはすみませんと頭を下げた。メルルは力が抜けそうになった。確かにこのひとは研究者としては優秀そうだが、まるで緊張感が感じられない。ガネルが、キャロリンがなぜアントンに惹かれたのか理解できないようなことを口にしていたが、なんとなくわかる気がする。しかし、そんなアントンだからこそ、キャロリンを『沼』から救い出せたのかもしれない。危険を顧みず、いや、危険を危険と認識せずに、沼に入り込むような人物。それがアントン・ラッドなのだ。

 「あなたはキャロリンさんのことを大切に想っておられるんですね。いろいろ調べるうちに、そのことを知りました」

 「最初、自分で『研究会』のことを口にしたとき、正直『しまった』と思いました。研究会のことを説明すれば、解散していることも、そして、その事情も説明しなければならなくなるでしょう。何か言い繕える話があれば良かったんですが、すぐに思いつかなくて」

 「では、レーディア卿があなたとキャロリンさんの交際を認めないことはわかっているんですね?」

 「わかっていると言えば、わかっているんですが。ただ、何とか認めていただきたいと考えていました。身分が釣り合わないのであれば、努力して家格を高めるとか考えていましたし、父親というのは娘の幸せを望むのが当然ですから、僕がキャロリンを幸せにするために力を惜しまない男だと信じてもらえるよう説得するつもりでした。諦めなければ必ず道はあるはずだと」

 なるほど。メルルは納得した。アントンが鈍いと言われるのはこういうことか。レーディア卿の頑なさも自分で理解できるものに都合よく解釈してしまっている。レーディア卿の気性が自分の想像を超えたものとは考えられなかったのだろう。

 「あなたは、あの事件があった日、本当にレーディア卿の屋敷に向かっていたのですね? キャロリンさんとの交際を認めてもらえるよう説得するために」

 「おおむねではその通りです」

 アントンは顔をそむけながら答えた。

 「そして、それはレーディア卿に呼ばれたものだった」

 アントンはレトとメルルの顔を交互に見つめた。やがて、ちいさくため息を吐くと、「ええ、その通りです」と小声で答えた。

 「約束の時間は7時半で、しかも、あなたはそれに遅れるところだった」

 アントンは驚いた表情になった。

 「どうして、それを……。あ、そうか。僕はあの時、公園の前を走っていたと言っていたからですね? そうです、ちょっと寝過ごしてしまいました。大事な日だったのに。それで、大慌てであそこに向かったんです」

 「その大事な日の話ですが、キャロリンさんもご存知の話ですよね? それとも内緒にしていましたか?」

 「半分その通りで、半分違います。レーディア卿にお話しすることは伝えました。事件の数日前でしたか……。日時は伝えましたが、場所は教えていません。彼女は心配そうにしていましたが、僕は何とかしてみせると言い切りました。彼女は僕を信じると言ってくれましたよ」

 「そうですか。お話しいただいてありがとうございます」

 「参考になりましたか?」アントンは不安そうな声を出した。

 「些細な情報も情報の内です。それらをきちんと読み込むことができるか、それが僕たち探偵に課せられた使命です。さっきお聞きできた話も無駄にしないようにするつもりです」

 「そうであれば、話した甲斐があったということですね」アントンはうつむきがちに言った。

 

 アントンの下宿を出た頃には、あたりはすっかり夕闇に包まれていた。捜査の二日目はこうして終わろうとしていた。メルルはレトの隣を歩きながら、レトの上着が妙にふくれているのに気が付いた。

 「レトさん、何か隠しています?」

 メルルが指さすと、レトは無言で服の下に隠していたものを引っ張り出した。それは薄汚れた箱だった。

 「何ですか、それ?」

 「アントンさんの部屋から失敬した。たしかにアントンさんは部屋を片付けているひとだった。唯一のゴミ箱には、これだけしか入っていなかったから」

 「この箱って、何か匂いますね」

 メルルは箱に鼻を近づけた。箱からは何か食べ物のような匂いがする。

 「手作り弁当の空き箱さ」

 レトは何でもなさそうに答えた。


11


 翌朝、レーディア卿の屋敷には、事件当時集まっていた関係者が呼び出されていた。それは、晩餐会の客の三名だけでなく、アントン・ラッドも含まれていた。キャロリンを始めとする屋敷の者も例外ではない。屋敷の一同はレトの指示のもと、レーディア卿の部屋に集められた。

 「皆さんに集まっていただいたのは、この事件でどうしてもお聞きいただきたいお話があるからです。少々ややこしいところはございますが、どうかお付き合い願います」

 レトは一同を見渡して丁寧な口調で語り始めた。メルルは数名の憲兵とともに、部屋の片隅で立っていた。

 「……でも、その前に、ちょっとこれを置いておきますね」

 レトは懐から光るものを取り出した。

 「え、それは」ギダーが大きな声を出した。

 「レーディア卿を刺したナイフ!」ガネルも続けて声を上げた。

 レトはナイフを手に部屋の中央に進み出ると、そこにある丸テーブルの上に載せた。

 「このナイフの件はあとでお話します。結局、どんな術式が埋め込まれているのか、わかりませんでしたが、下手に触ると術式を消去してしまうので、そのままになっているんですがね」

 レトはそれだけ言うと、今度はレーディア卿が倒れていた窓際に向かった。その場所へ着くと、レトは振り返った。

 「レーディア卿はここでナイフに刺されて命を落としました。ですが、この事件の前に、どうしても明らかにしなければならないことがあるのです」

 「レーディア卿が殺されたことより重要な話があるのですか?」ギダーが不服そうに言った。

 「そうです。極めて重大です。なぜなら、これからお話しするのは、レーディア卿の犯罪についてだからです」

 「レーディア卿の犯罪だって?」

 部屋の中がざわついた。互いが信じられない表情を見せている。

 「いったい、レーディア卿が何をしたと言うんです!」ガネルは完全に取り乱していた。

 「殺人です。正確には殺人未遂です」レトは静かに答えた。

 「殺人、だって?」ガネルは呆然としてつぶやいた。

 「レーディア卿はアントン・ラッドさんを殺害しようと企てていたんです」


12


 「皆さんもご存知のように、アントンさんはキャロリンさんと恋仲の関係にあります。そして、これも皆さんご存知のように、レーディア卿は娘さんに対し、異常とも言えるほどの執着心を持っています。当然、レーディア卿はアントンさんとの交際を認めなかった。そして二人が顔を合わす機会をなくすためだけに研究会を解散させたりもしました。ですが、それぐらいでアントンさんは引き下がるような人物ではなかった。何とかして認めさせようと動く人物でした。キャロリンさんとの関係も続けている。レーディア卿はそのことに業を煮やしたんでしょうね。アントンさんを強制的に排除する行動に移ったんです。レーディア卿の計画はこうです。『爆砕魔法ブラスティング』の術式を『グラン・パシェ公園』の石像にあらかじめ埋め込み、その石像の前へ、アントンさんを呼び出し、『爆砕魔法』で攻撃する。爆破された石像の破片を直撃させることで、アントンさんを殺そうとする計画です。もし、それが失敗に終わってもレーディア卿は構わなかった」

 「どうして構わないんですか?」ガネルは手を挙げて尋ねた。

 「計画通りに殺害できればそれでよい。娘に言い寄る男を始末できるわけですから。もし、失敗に終わっても、アントンさんはレーディア卿を告発できない。いや、告発しないでしょう。アントンさんはずっとレーディア卿を『先生』と呼び、慕っていた。そして愛する女性の父親です。その父親を告発するなんてことをアントンさんはするはずがないと読んだんです。そして、それは実際その通りになりました。殺人計画は未遂で終わりましたが、アントンさんは誰にもその事実を話していませんから。さらに、そのことによってレーディア卿が娘さんとのことを絶対に許さないという強烈な宣言メッセージになりますから、さすがにアントンさんもキャロリンさんのことを諦めるだろうと考えたのです」

 レトはアントンに顔を向けた。

 「アントンさん。あなたは嘘を吐くのが苦手なひとだ。だから、この件に関して核心にかかる部分で下手な嘘を吐いた」

 「下手な嘘、ですか」アントンは力なくつぶやいた。

 「僕は、あなたにこの屋敷に向かっていたのですね、と確認したとき、『おおむねではその通りです』と答えた。こちらに向かっていたのは事実だが、向かっていた先は正確には屋敷ではなかった、公園だったというわけです。その証拠に、あなたは『大慌てであそこに向かった』と言いました。レーディア卿に敬意を持っているあなたが、その屋敷を『あそこ』とは言わないでしょう。また、レーディア卿とお会いすることをキャロリンさんに伝えたとき、『場所は教えなかった』と言いました。この屋敷で会う予定であれば、隠す必要はない話です。キャロリンさんがいるところなんですから。そうではなく、キャロリンさんがそばにいないところで会見する話だったから、あなたは『場所は教えなかった』のです」

 「アントン……」キャロリンのつぶやく声に、アントンは首を振った。

 「ごめんよ、キャロリン。予定通りの時間に着いていれば、僕はあの魔法で吹き飛ばされているところだった。しかも、あそこで会う約束をしたのは先生からだった。あの爆破事件の現場を見て、僕は本当に何も考えられなくなった。先生が僕を殺そうとしていたなんて、とても信じられなかったから……」

 「しかし、いや、レーディア卿はどうやって魔法を使ったんです? レーディア卿は公園にいなかったんでしょ?」

 ガネルが興奮したように質問した。まだ落ち着きを取り戻せていない様子だ。

 「そうだ、レーディア卿は自分の屋敷にいた。レーディア卿がアントンを殺そうなんてことはできないはずなんだ。私たちはそのことを証言できる!」

 レトはうなずいた。

 「そうです。この屋敷にあなた方が招かれたのは偶然じゃありません。公園で事件が起きた時間は、レーディア卿は自分の屋敷にいた。屋敷に招かれた皆さんはその証言をするためだけに呼ばれたんです。だから、晩餐会だけでなく、朝食もご一緒しようなんてお誘いをしたんです。本当は朝食の時間にお呼びしたいが、朝食だけのお誘いはさすがに異例過ぎて、かえって不審に思われるでしょうし、誘いを受けてもらえない可能性が高い。ある理由で、事件は夜に行なうことができなかったので、朝食込みで皆さんを晩餐会に招待したのです」

 「レーディア卿は私たちを利用するために呼んだのですか? 殺人計画の片棒を担がせるために?」ザビーネ夫人は身体をぶるぶる震わせた。驚愕の事実を知った衝撃と怒りの感情がごちゃ混ぜになって、両目が吊り上がってしまっている。

 「レーディア卿が屋敷にいながらアントンさん殺害を可能にさせるのは、さっき申し上げた『爆砕魔法ブラスティング』という魔法の特性です。この魔法の発動条件が特殊なので、レーディア卿はこの計画を実行に移したんです」

 「いったい『爆砕魔法ブラスティング』という魔法は何なのですか? どこが特殊な魔法なのですか?」

 ガネルはまだ納得していない表情だ。

 「ロウフィールドさんはご存知ないのですか?」

 「僕は知らない。魔法学院で学ぶ魔法なのか?」

 レトはアントンに声をかけた。

 「では、アントンさん。一部、ご納得いただけない人物もおられます。僕よりも魔法に詳しいあなたから、わかりやすく説明していただけませんか?」

 「え、僕が、ですか?」アントンは不思議そうな表情になったが、レトの「ぜひ」のひとことで前へ進み出た。

 「『爆砕魔法ブラスティング』の魔法はあらかじめ破砕させる対象物に術式を仕込み、離れた場所で呪文を唱えることで発動する、いわば遠距離対応の魔法です。つまり、呪文そのものは発動の媒介ではなく、意識下で魔法を具体化させる鍵代わりのものになるんです。つまり、呪文が届く範囲よりも外側から発動させることができるのです」

 アントンはちらりとレトのほうを見た。レトはうなずいた。「続けてください」

 「そのため、破砕させる対象物を視認できることが発動の条件になるのです。言い換えれば、爆発させる呪文を仕込んだ物が見えさえすれば、どんなに離れていても爆発させることができるんです。呪文の効果範囲なんて関係ないんです」

 「じゃ、じゃあ、レーディア卿は屋敷から一歩も外へ出ずに、公園の石像を爆破させることが可能ということなのか……」ガネルの声は震えていた。

 「アントンさん、あちらを見てください」アントンはレトの指し示す方角に目を凝らした。「僕が指さす方向に何が見えます?」

 「……林が見えます。そして、林の間から、何か白い塊が見えます」

 「あれが、頭部が吹き飛んだ公園の石像ですよ。レーディア卿はこの位置から『爆砕魔法ブラスティング』を発動させたんです。晩餐会の夜ではなく、朝に実行したのは、夜では闇に紛れてあの像が見えなくなるからです」

 「ちょっと待ってください。レーディア卿はここで刺されて亡くなっています。いったい誰に刺されたんですか?」ギダーが我慢しきれない様子で口を挟んだ。

 「そうですね。それについての確認は、まずアントンさんに『爆砕魔法ブラスティング』の呪文を唱えていただいてからいたしましょう」

 どこからか「え?」という声が上がった。レトは声のしたほうを向いたが、誰もが無表情のまま立っている。

 「『爆砕魔法ブラスティング』の呪文がどうしたっていうんですか?」

 ギダーがいらだった声を上げる。

 「この事件は『時間』が問題です。僕の考えが正しければ、レーディア卿は7時20分に席を立ち、7時半に石像を爆破する呪文を唱え終えたということになります。果たして、『爆砕魔法ブラスティング』の呪文はその時間内に唱え終えることのできる魔法か確認する必要があるのです。もし、呪文を唱えるのに、やたらと時間のかかるものだとしたら、今までの説明はすべて誤りということになるんです。では、アントンさん。呪文を唱えてみてください。念のため、目をつむって何も見えない状態で唱えていただければ安全確実だと思います」

 アントンはうなずいた。

 「わかりました。実は『爆砕魔法ブラスティング』の呪文はたいして長くないです。……いいですか、唱えますよ。リュー・マサラ・エル・ナデル、ハマナ・フォン・デ・カリエスタ。我、万物の精霊に請い、願うは風と炎の奇跡。そして情熱。小さき者の瞳に映りしものを、汝の力もて破砕せしめたまえ。汝に力を添えるかりそめの名は……」

 「だめ、アントン! 呪文を唱えてはだめ!」

 突然の金切り声が、アントンが呪文の最後を唱えるのを妨げた。

 周りの者が驚いて、声のしたほうを振り向くと、ひとりの人物が丸テーブルに覆いかぶさっていた。自分の身体であの魔法のナイフを覆い隠しているのだ。

 「なぜ、呪文を唱えてはいけないんですか?」

 レトはその人物に静かに話しかけた。

 「それは、このナイフに仕込まれている術式が、『爆砕魔法ブラスティング』の呪文を唱えた者を攻撃する、というものだからです」

 その人物は息も絶え絶えに答えた。美しく輝く金色の髪が青白い顔にかかっている。その人物とは、レーディア卿の娘、キャロリン・レーディアであった。


13


 「レトさん、また、やらかしましたね」

 メルルは事務所へ戻る道すがら、レトを睨みながら言った。

 「やらかした? 僕が?」

 「あの魔法のナイフはレーディア卿を刺したナイフじゃありません。同じ型のナイフです。レトさんはキャロリンさんを自白させるために、偽のナイフを持ち込んだんです。そんなことしなくても、ヴィクトリアさんが解析に成功したんですから、逮捕することもできたはずです。それをわざわざ罠にかけるようなことをして、自白に追い込むようなことをするなんて」

 レトが『爆砕魔法ブラスティング』の呪文がナイフ起動の合図になっているのではないかとヴィクトリアに話したところ、彼女からそれを元に解析ができたと報告を受けたのだった。

 「憲兵に逮捕させて、厳しい取り調べを受けさせる方が良かったのかい? あそこで全面自供すれば、裁判では情状酌量を考えてもらえる可能性があるんだよ」

 「レトさんは彼女に同情的なんですか?」

 「彼女はもっと悪い状況で、罪を裁かれる可能性があったんだ。僕はあそこで罪を認めてもらえて正直ほっとしている」

 「相変わらず食えないんですから、レトさんって」

 メルルはぶすっとしてつぶやいた。

 「僕たちは罪を暴く側の人間だけど、裁く側じゃない。僕ができるのはせいぜい、自白しやすい環境を整えてあげることだけさ」

 レトの言葉に、メルルはふとレトの顔を見上げた。事件を追うときの厳しい表情はそこになく、あるのは穏やかで優しい笑みを浮かべた若者の姿だった。メルルにはレトがわからなくなった。冷酷なのか、意地が悪いのか、それともいたって善人なのか。わかっているのは、レトが殺人犯を見逃すことはしない、ということだけである。

 「ところで、レトさん。レトさんはキャロリンさんが犯人だって、どこで考えたんですか?」

 「公園の爆破事件の犯人がレーディア卿だとわかったとき、その計画を知りうる人物がそれを利用してナイフに術式を仕込んだと考えた。なにせ、あのナイフのそばで、『爆砕魔法』の呪文を唱えるなんて、執事やメイドがするはずがない。確実にレーディア卿だけを狙うことができる限定条件だからね。それが証明されたので、計画を知りうる人物。当然、レーディア卿の身内であるキャロリンさんが浮かんだんだ。むしろ、レーディア卿から伝えられたかもしれない。『お前に近づく男を始末する』ってね。キャロリンさんはアントンさんを守るため、できる手を打ったんだ。まずはアントンさんに食べさせる弁当に眠り薬を仕込んでおいた。約束の朝に寝過してもらえるようにね」

 「アントンさんの部屋から弁当箱をくすねたのは、その痕跡を調べるためだったんですか?」

 「使用された薬が出てこない可能性はあったけどね。ただ、微量ながら眠り薬は検出できた。まぁ、アントンさんを守るために確実な方法は、罠のところへ行かせないことだから。それに、あの魔法のナイフで攻撃する方法そのものが、キャロリンさんが犯人であることを示していた」

 「それはどういうことです?」

 「レーディア卿が考えたのと同じことさ。もし、レーディア卿がアントンさん殺害を思い直して術を唱えなければ、ナイフの罠も作動しない。レーディア卿を殺さずに済む。もし、レーディア卿が呪文を唱えた場合、罠でレーディア卿を殺せればそれでいい。もし、そのナイフが急所に当たらなかったり、レーディア卿に防がれたとしても、レーディア卿は犯人を追及したりはしない」

 「犯人はキャロリンさんだと、レーディア卿にはわかるからですね。レーディア卿が娘を告発するなんて考えられないし、アントンさんに危害を加えようものなら攻撃する、という警告になってくれますからね」

 「そんな条件を満たす人物はキャロリンさんたったひとり。物的証拠の乏しい事件だけど、これは強力な状況証拠になるよ」

 「なんか、親子で似たような考え方で殺人を計画してたなんて、皮肉な話だと思います」

 「キャロリンさんはもちろんだけど、レーディア卿もそれほど悪いひとじゃないんだよ」

 「アントンさんを殺そうとしたのに?」

 「殺人を行なうのに、殺せなくても構わない部分を残していたからさ。何が何でも殺してやろうとまでは思い詰めなかったんだ。僕はそこに、まだ良心が残っていたんだと信じていたい」

 ふたりはそれ以上話すことなく、事務所への道をひたすら急いだ。

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