第三ポリステス帝国の悲劇
私は第三ポリステス帝国に生きる一兵卒だ。
私と私のよき同志たちは、この平和で美しい帝国を愛していた。
そして帝国の要となる王――麗しく美しく偉大なる王に仕えることを、我々は至福と感じているのだ。
「王、隣国の兵士が挑発して来るのですが」
ある日、国境周辺の警備から戻って来た兵がそう報告した。その表情には悔しさと憤りが見える。
「放っておきなさい。彼らは彼らの事情があるのでしょうが、我々がそれに付き合う必要はありません」
わが帝国の周囲には、力が強く広い国土を誇る他の国々が存在していた。
特に隣国の兵は、我々を弱小新興国として挑発する。隣国はわが国よりも歴史が古く、当然ながら国土もわが国より広大で城も大きく頑丈だ。
お互い適度な距離を保ちつつ大きな争い事を避けて過ごしていたが、それでも小競り合いがないわけではなかった。
だが一度戦闘となると互いに命の遣り取りになる。王はそれを望まなかった。
「国をもっと大きくしよう」
「それがいい。やつらが莫迦にできないくらいに」
憎しみからは何も生まれない。
わが帝国の王はいつもそう兵たちに言い聞かせていた。だから我々は憎しみを育てるのではなく、この国そのものを育てるのだ。
我々は使命感に燃え、せっせと国づくりに励んだ。
* * *
ある日のこと、聞き慣れぬ警戒音を耳にしたという報告を受け、私たちは国境近くまで出向いた。
警戒音は国ごとに違う暗号のようなものだ。
国境警備の兵はまだ若く、おろおろするばかりだった。我々の姿を見つけ、安堵した表情で駈け寄って来る。
「警戒音であることはわかるのですが、私にはその意味が解読できなかったのです」と心細い表情そのままに、新人の兵は訴える。
「あれは、この前我々に手を出して来たやつじゃないか!」
警戒音を発している兵を確認した同志は、早くも臨戦態勢だ。先日のことを未だに根に持っているらしい。
だが私は、彼の様子がおかしいことに気が付いた。
「――おい、大丈夫か?」
近寄って声を掛けると、隣国の兵は警戒音を止めた。よろよろと倒れ伏す兵にはいつかの傲岸な様子はなく、今にも息絶えそうなほどひ弱に見える。
私は彼を助け起こし、もう一度声を掛ける。
よく見ると顔面は血の気が引き蒼白だ。挑発していたわけではないらしい。
「しっかりしろ。一体何があったんだ。ここはお前の国の領土ではないだろう?」
「ああ、お前か――そうだ。ここはわが領土ではない。だがわが王が、隣国にも知らせを出すよう……我々は――っ」
兵は言葉を詰まらせ、苦しそうに咳込んだ。途端に周囲に嫌な臭いが広がる。私は思わず息を止めた。
「なんだこの臭いは」
「一体どうしたんだ」
仲間の兵が慌てて風を起こし、周辺の空気を浄化した。
「……突然、得体の知れない白い霧がわが帝国を襲ったのだ……どうやらこれは我々にとって毒らしい」
「毒の霧だと?」
それを聞いた仲間たちは慌ててまた風を起こす。
「なんともないか?」と私に声を掛けるものもいた。
少し吸ってしまったが、その程度ですぐに健康に影響する様子はなさそうだ。何よりも、体内に毒が溜まった隣国の兵がここまで来ることができたのだから――だが彼の容態は深刻そうだ。
「仲間たちはその白い霧にやられ、ばたばたと倒れて行った……俺は城の奥で王と会議をしていたんだ。そこへ伝令がやって来た時には、既に城の中にも……」
彼の眼は虚ろになって行く。気を抜くと今にも力尽きそうな様子だった。
「おい、しっかりしろ。一体それはなんなんだ? 誰がやったんだ? お前たちほどの兵がやられるなんて」
「わからない――俺は王に、お前たちの国に……伝えろと命じられ、城を飛び出した。その時、霧の中にとてつもなく……大きな白い存在を見て……」
その言葉を聞き、同志たちがざわつく。
『大いなる白き神々』、もしくは『この世の終わりを告げる白き悪魔』という存在のことは、古い言い伝えで誰もが聞いたことがある。
だがそれはあくまでも伝承のみの存在、年寄りの乳母たちが子どもに語って聞かせる、物語の中だけの存在だったはずなのだ。
彼らの国には屈強な兵が揃っていた。だというのに、そんな彼らを襲った連中がいるというのか。
我々には、白い霧そのものよりも得体の知れない敵が恐ろしく思えた。
「何故お前たちの王が我々の国を助けようとするのだ?」
同志のひとりが疑問を口にする。
確かに、言われてみればそうだ。我々の帝国と隣国は、お互い敵同士ではなかったのか。
「俺もよくは知らん……が、伝え聞いたことがある。昔、わが国王と……お前らの国の王は同志だったと」
隣国の兵はそう言ってまた咳込む。
お互い国として独立したからには敵対もして来たが、心の奥深くでは昔と変わらぬ親愛の情を、お互いに持ち続けていたのだろう、と彼は途切れ途切れながら語った。
「だから、わが王もいたずらに事を荒立てるなとおっしゃっていたのか」
隣国の兵の言葉を完全に信じたわけではないが、それなら、王が隣国のことを語るたびに見せる憂いの表情にも納得がいくではないか。
「そういうこと、なのだろうな……だからわが王は……この最大の危機に……」
隣国の兵は、もはや言葉を発するのもつらそうだった。
我々は治療薬を携帯していない。そもそも、得体の知れない毒の霧にわが国の治療薬が有効かどうかすらもわからないのだが。
「お前たちの王は、私たちの国にもその敵が来るかも知れないというのか?」
「わが国の伝令が言うには、霧が現われる前に、よその国の兵士が警戒を伝えに来たと……だから、ひょっとしたら……お前たちの国も……いずれ……」
「おい」
徐々に声が弱くなり、やがて、かさりと乾いた音を立てて彼は動かなくなった。私は同志たちと顔を見合わせる。
誰もが深刻そうに押し黙ったままだった。
* * *
「――結局、その新たな敵の正体はわからなかったのですか?」
憂いを秘めたような王の声に、私たちはうなだれた。
「責めているわけじゃありません。ただ、正体がわからないままでは対策の立てようもありませんね」
わが王は我々にねぎらいの言葉を掛けてくださり、更に我々は特別な報奨まで賜った。ありがたくおしいただく。
かつての敵国は、その後間もなく正体不明の新たな敵に討ち滅ぼされたようだった。あれ以来、定期の巡回時にも一度も隣国の兵の姿を見掛けないのだ。
ひとりくらいは我が帝国へ逃げ込んでもよさそうなものかと思ったが、みな勇敢に戦って倒れて行ったのかも知れない。
噂はほんとうだったのだ、と国民たちは不安におびえる。だが我々は国民であると同時に兵なのだ。怯えてばかりもいられないのも充分理解していた。
「もう少し遠くまで様子を見に行ってみましょうか」
「それよりも城を頑強にすべきでは」
「城よりも兵の数を増やす方が先では」
考えることは誰もが同じだった。だから我々は手分けしてそのすべてを同時進行することにした。
「だが兵はすぐには増えないぞ」
「それはわかっている。そこは我々にはどうしようもないことだ。王にお任せするしかない」
強く立派な兵を育てるのは、我々の仕事ではない。
わが帝国の国民たちは、ひとりひとりが各々の使命を持ったスペシャリストなのだ。
私は城の補強を担当した。毎日せっせと働き、壁を作り、城を大きく強くして行った。いつ敵が攻めて来るかわからない。初めのうちはそのために焦る気持ちで作業を進めていたが、いつしか城を作ることそのものに集中していった。
* * * * * *
「敵だ! 敵襲だ!」
それは突然のできごとだった。
もうすっかり平和な日々が戻って来たと思っていたある日、見回りに出ていた兵が顔色を変えて慌てて戻って来たのだ。
「どこの国だ?」
私も作業を止めて兵に戻る。すぐさま多くの同志たちが集まって来た。
「どこの国なのか……私はつい最近、訓練を終えて兵になったばかりで」
「だが、近隣の国のことは教わっただろう?」
「確かに教わった。だがそれ以外の『何か』だったのだ。一緒にいたもうひとりはそれに捕らえられた。私も捕らえられそうになったが、どうにか私だけが……」
彼は悔しげに言葉を詰まらせた。
仲間が口々に新兵を慰めている間、私と昔から馴染みの同志数人は顔を見合わせた。
すっかり忘れていた――いや、忘れようとしていたいつかのできごとを思い出していたのだ。
「おい、それはひょっとして」
古参のひとりが声を掛けようとしたところに、よたよたと現われた者がいた。
「誰だ!」
「私だ……ようやく逃げて来た」
ふらふらと力なく辿り着いた兵は、どうやら見回りに出ていたもうひとりのようだった。
「お前、無事だったのか!」
先ほどまで沈んでいた新兵が明るい声をあげる。相棒が無事だったのが嬉しくてたまらない様子だ。
「無事――そう言えるかどうか」
自嘲気味な呟きとともに、その兵は己の脚に視線を向ける。白く長い枷が付けられていた。
「これはなんだ」
「取れないのか?」
「誰にやられた」
口々に飛び出す疑問に対し、その兵はかぶりを振った。『何もわからない』らしい。
「外すことはできないのか?」
私がその枷に手を掛けると「慎重にやれよ」と、ひとりの同志が手を貸してくれた。
思いのほか、枷はあっさり外れた。
「知らない匂いがするが、毒物などではなさそうだ」
同志はそう言って枷を捨てる。
「まず、この枷の件も含め王に報告しに行こう」
古参兵が立ち上がり我々も同意する。
数人を警戒のために残し、城へ向かおうとした――その時、突然視界が真っ白になった。
「なんだこの白い霧は!」
「苦しい、助けて!」
「目が! 目がぁぁ!」
阿鼻叫喚の様相を呈して、屈強な兵たちがばたばた倒れて行く。
この臭いには憶えがあった。
「これは……まさか隣国を襲った……」
気付いた時には私も身体の自由が効かなくなっていた。白く霞む視界の端にようやく、城へ急ぐ新兵の姿を捉える。
「頼む……どうか、我が王に――」
意識が朦朧として立っていることもままならない。警戒音を立てるような余裕などない。
「隣国の……よくぞこんな状態で……」
やがて、霧の中から空一面を覆うほど大きな白い悪魔の手が――それが私の最後の記憶だった……
* * * * * *
「いやぁ、あんなところに作られたんじゃ見つけられないわけですよ。随分大きくなるまで気付かなかったのも、これじゃあしょうがない話です」
大きな袋を提げた男がにこやかな笑顔を向ける。
その顔は暑さと息苦しさで赤く染まっていたが、彼は不満をおくびにも出さなかった。
「すみませんねぇ。でもすぐ来ていただいて助かりました」
中年の女性がよく冷えた麦茶のグラスを渡す。男が喉を鳴らして麦茶を飲み干すと、グラスの中で氷が涼しげな音色を奏でた。
「それにしても今年は多いですねぇ。今日はこの後も三軒のお客さんが待ってるんですよ」
続けて男は氷をひとつ口に含み、ごりごりと噛み砕く。
「先日伺ったお宅では、まだ小さいからと油断していたら、あっという間にこぉーんな大きくなっていたそうですよ」
「まぁ」
空のグラスを男から受け取り、女性は目と口を丸くする。
「ベランダに布団を干していたお宅で、知らない間に家の中に侵入されたり、なんてこともあるんですよ」
「いやだ、こわいわ。それならまだ幽霊の方がマシよ。お経を唱えたら勝手に出て行ってくれるんでしょうから」
「そうかも知れませんねぇ。こいつらにはお経は効かないから」
女性は本気で言っているようだが、男は快活に笑った。
「で、奥さんこれどうしますか?」
男が片手に提げた袋を軽く持ち上げると、女性は嫌そうに顔をしかめた。
「そちらで処分をお願いできます?」
「わかりました。では処分費用はおまけしておきますね。ええっと基本料金と――」
「それが欲しい、なんていうかたもいらっしゃるんですか?」
嫌だと言いつつ、多少興味はあるのだろう。現金の入った封筒を渡しながら、女性は恐る恐る袋に視線を向ける。
「そうですねぇ、立派なものだと飾っておきたいから、とおっしゃるお客さんもおられますよ」
封筒の中身を確認し、領収書を手渡しながら男性は笑顔を向ける。
「もっとも、なんでもいいってわけじゃなくて、やっぱりスズメバチのものが重宝されますねぇ。まぁこれはアシナガバチで、巣の形や大きさは違いますんで――」