押入れの幽霊
始めからなかったものならば、ないものとして暮らすのもいい。けれど其処には確かにあったので、一度触れたその肌触りは、きっと生涯私の中で燻り続ける。
私は一人では生きていけない。
日当たりのいい縁側に、胡座をかいたまま後ろに倒れたような奇妙な姿で、長細い男が寝そべっていた。
無防備な素足が陽に白く光っていて、何故だか目をそらした。
長く使って皮の傷んだ赤いランドセルを縁側にそっと置くと、渚は男の隣に並んで座り、狭い一坪ほどの庭を、ぼんやりと眺めた。
椿の垣根は葉ばかりで、暗い。
今日の彼は完全に、若隠居昼寝風景を決め込んでいる。
最近の幽霊は芸が細かい。
寝息なんてたてている。
顔に乗せた新聞の下で、一つ呼吸をする毎に、「くぅ」とか「ふぅ」とか小さく声を立てていて、思わず笑いそうになる。
まあ、これで息をしていなかったら只の変死体で、その方がよほど驚くだろうし、彼としては別に驚かせたいわけではないのだろう。
渚への気遣いのようだった。
先日、湿った押入れのある四畳半で、「気分的」に腐っている彼を見つけたのだ。
もちろん姉には内緒である。
日に干してみると、生前を思わせる爽やかな優男に戻っていた。それで、渚は彼を同居人として認めることにしたのだ。
当の幽霊は、居所が湿った和室から縁側に移っただけで、何ら変わらず不貞腐れた隠居爺のような生活をしていた。
ただ、彼の外観については劇的な変化があった。
環境の違いはここまで人を変えるのかと感心するほどの変身ぶりである。
クマのある、どうも緑っぽいくすんだ顔は、色白でつるりとした肌と長いまつげのある涼しげな容貌となり、渚は飽く事なく眺めたおした。生前のよそよそしさなんてどこへ行ったのかと思うほどだが、それがあまりお気に召さなかったらしく、幽霊はなるべくなら顔を隠しているようになった。
ふるふると震える新聞紙をそっと退かすと、白磁の花瓶みたいな顔が現れる。
「帰ったのか」
寝ているとばかり思っていた幽霊は、ぱさぱさと睫毛の音を立てて瞬きすると、涼しげな声で言う。
「お兄さま、ただいま帰りました」
ぱさぱさはやりすぎたと思う。
睫毛の下の淡く透き通った眼球はオパールみたいだ。
ハシバミ色の虹彩の中、開いた瞳孔に渚の影が映りこんだ。
「どこまで行っていたんだい」
作り物めいて、時代掛かった物言いをする男だけれど、どうも不思議なところが有って困る。そういえば、生前からそんなところがあった。
本人の意思が、本当にそこにあるのかわからない、そんな人物だ。
いい歳をして、半泣きで仕事から帰ってきたと思えば、姉の膝で散々に泣いた挙句、30分も経つとケロリとして渚とテレビゲームをはじてめてケラケラと笑う…。
子供みたいで、単純な人物だった。
「何処までって…」
子供がランドセルを背負って行くところは…断じて芝刈りでも川に洗濯でもない。どう見たって小学校だろうに。
「愚問です。私は学生であること、忘れましたか?…で、お兄さまこそなんでそんな格好してるんです?」
正確には小学生は学生ではない。生徒、だ。
「…?ああ、これ?」
薄い腹あたりをぼりぼりと掻きながら、億劫そうにのそりと起き上がる。平べったい身体を起こすと、背の高さのせいか、量が増して見える。
言わずともがな、彼は棺に入った時の一張羅である白い帷子姿だ。帷子の白と同じぐらい白い肌は、蝋のようだ。
「猫がね、膝に上がって昼寝を始めてしまって、じっとしていたらこちらも睡魔に襲われて、いつの間にやらこのような感じさ」
聞くまでもなかった。
「今日は宿題はないのかい?」
この男のおかしなところは、毎日帰った渚を捕まえては「宿題は?」とせびる。そして、一通り渚が宿題に取り組む姿を眺めている。何が楽しいのか。
「今日はテストだったから、その間違い部分のやり直し。あんまりないよ」
少し意地悪く突き放すみたいに言ってしまって、そっと幽霊を伺いみると、気にした様子もなく新聞のクロスワードなんかを解き始めている。憎らしい。
「見せて」顔も上げずに彼が言う。
「何を?」
「解けなかったとこ」
視線は相変わらず、新聞のクロスワードを追っていて、渚のことは何だか片手間のよう。
失礼な。
見せるのが当たり前と言った風情に、もはや躱すのも面倒で、渚はしんなりしたコピー用紙を手渡した。
現国の熟語の書き取り。二十問で一問五点。全部出来ていた。
名前の欄が空欄だった。
「ああ…」
何が「ああ」か、と問いたい。問いたいが、問うたらば、自分が痛々しい。
「忘れただけ」
「だね。残念」
姉は、結婚する時、姓を変えることを拒んだのだという。
多分、私のためだ。
姉が姓を変えたら、私はひとりぼっちになってしまうから。
その時ちょうど奥の台所から、夕飯の支度をしている姉の呼び声が聞こえた。
「渚、帰って来た?」
渚が答える前に、庭で昼寝をしていた猫が勝手に返事をして奥へ消えて行った。
彼は、散らばった新聞紙を集めてまとめ直すと、黙ったまま目を落とした。
渚は玄関へ周り、靴を脱ぐ。
いつもの男物の大きな靴が無造作に散らばっている。
見る人が見たらば、それは決して脱ぎ散らかされたものでないことがわかってしまう。女所帯のため、姉が防犯用に置いたものだ。
黒革の少し曇った表面には砂埃が溜まっているし、靴紐の部分にも砂が溜まっている。その靴の持ち主は縁側で、まだクロスワードを説いているだろうが、彼は靴なんか履かない。もちろん、防犯に役立つわけもない。
彼はもう、何も出来ない。
四月の始め、雨夜の晩に、酔っ払いの自転車にひかれて死んでしまった。血なんか一滴も流さず、綺麗な死に顔だった。姉は、焼いてしまうのが勿体無いと言って泣いた。
渚は、姉を取られる心配も、嫉妬も経験しないまま、義兄を失った。
彼はこのうちでほんの一月ほどしか暮らさなかった。結婚してから半年は、大学院のレポートやらで研究室からほとんど帰って来なかったからだ。姉は薄情な婚約者から家族を顧みない人でなしの旦那に昇格しただけの彼に、特に期待はしていなかったらしく、愚痴めいたことも言わなかった。
葬儀が終わって、一月泣き続け、六月に入ると全く泣かなくなった。
姉はいつも声を殺して泣いた。
湯船の中や、仏間の押し入れ、もしくは台所の冷蔵庫の影。なるべく渚の目につかないところで。
渚が押し入れで義兄を見つけた日も、姉は二階の物干し台で鼻歌を歌いながら洗濯物を干していた。しばらくすると不自然なところで鼻歌は止んでしまったから、泣いているのだな、とぼんやりと思っていた。
姉の涙を拭く代わりに、押し入れの中で耳を塞ぐ幽霊を、渚は引っ張り出した。姉の泣き声は聞こえていないのだから、耳を塞いだところで消えはしない。そのままにしておいたら押し入れは、彼の涙で水浸しになってしまう。
あの日のままの、びしょ濡れの彼は、相変わらず死んでしまったままで、変わらず涙もろかった。